2018/03/18

病気をしたことのなかったエレーヌが…

 駿河昌樹
  (Masaki SURUGA)



 昨年から今年にかけては、風邪もインフルエンザもずいぶん流行り、街中ではマスク姿の人が多く目についた。
 花粉症の季節に入ると、例年通り、やはりマスク姿のたくさんの人が目につく。

 エレーヌも、病気になって抗がん剤を投与された時には、外出時にマスクをつけることがあった。治療のために免疫力がひどく低下するので、病原菌に対する用心のためである。実際にはたいして効果はない、という話も聞くが、つけないよりはマシだろうとなると、人間はいろいろと効果の薄いことにも精を出す。

 しかし、エレーヌのマスク姿は、彼女の全人生の中では、晩年の病気の時ばかりの稀なものだった。私がエレーヌを知ってからの長い歳月、彼女がマスクをしている姿など、一度も見たことはなかった。
 
 マスク姿ばかりではない。
 エレーヌは、風邪さえほとんど引いたことがなかった。
 鼻先がクスクスとなる程度の風邪を引くことはあったのではないか、と記憶の中を探ってみるのだが、はっきりとは思い出せない。
 私やまわりの友人知人たちが風邪を引いたり、体調を壊すことがあっても、エレーヌには、まず、そんなことは起こらなかった。誰よりもスリムな身体だったが、丈夫で、忙しい日々を平然と乗り切っていた。私よりもはるかに年上で、先に老いの進んでいくはずのエレーヌを見ながらも、いつも安心していられたのは、生まれながらにして恵まれた、そんな身体的な頑健さがあったからだ。
 
 エレーヌが2009年にふいに末期ガンを宣告される事態に至った理由のひとつには、しかし、そんな身体的な頑健さが数えられる。
病気と呼べるほどの病気を、ついにひとつも経験せずに老齢に入っていったエレーヌは、自分の体力を過信し過ぎていた。中年頃までなら許されたかもしれない生活上の無理を、年齢を重ねるにつれ、減らしていかねばならなかったはずなのに、そういう配慮は完全に怠っていた。
そればかりか、私から見て、身体の休息を奪うような雑事をさらに背負い込むようになっていっていた。
後になってふり返ってみれば、生活態度という点からエレーヌを大病に導いたのは、

1 (病気の経験が皆無なゆえの)体力への過信。
 2 睡眠時間の極端な少なさ(平均して4時間以下)。
 3 完全な休息時間の少なさ(月から金までは仕事で遠方へも外出。土日にも外出活動を入れる。家に来る猫たちの世話のために、就寝後も起こされて、餌やりや猫の出入りをさせる…)。
 4 晩年、野良猫の保護に深い興味を示し、家のまわりの猫たち以外についても始終心を配っていたことから来る、絶え間のない心労。
5 ヨガをはじめ、健康に関するさまざまな実践を行ったり、つねに知識を追い続けていたにもかかわらず、実際の自分の食生活が、時間のなさのためにいい加減だったこと。夜に少量のサラダを食べるだけで済ましたり、カロリーバーだけで済ましたり、外食の際にも、栄養価の点で問題の多いファミレスの食事で済ますことが意外と多かった。

などといった誤ちだった、というのがはっきりしている。

彼女のガンは、65歳以降に卵巣に発生し、そこから転移をして腹膜全体に広がったと思われるが、この時期に、せめて、土日はすっかり休息を取るようにし、よく眠り、月から金の人間関係をシャットアウトしてくれるような暮らし方をしていたら…と思う。
現実には、土日には、ウィークデー以上に、友人や知り合いやフランスの親族からの電話が殺到し、野良猫の保護や里親探しなどの用件で外出することが多かった。地区のたくさんの猫たちに与えてまわる餌を買い込むのも土日で、私も頼まれて、猫缶を50個ほど買い込みに行くようなことが多かった。

これに加えて、60代のエレーヌは、いろいろな文章を書くようになっていた。
仕事で疲弊して帰って来てから、猫たちの世話をし、友人たちからの電話なども絶えてからパソコンに向かうので、深夜12時を過ぎてから3時や4時まで起きながら、書く。ウィークデーなら翌日の仕事のために7時や8時には起きねばならず、6時起きが必要な場合も多い。ごく短い睡眠時間の間にも、外をまわって来た猫たちが窓を叩き、家に入れてくれと求めたりする。家で寝ていた猫も、逆に外に出たがったりする。
こんな生活のくり返しが、発病するまでのエレーヌの日常で、当然ながら、身体が悲鳴を上げることになるのも時間の問題だった。

あれほど猫たちを可愛がり、日中でも夜でも、何度となく動物病院に駆け込んだりしたエレーヌだが、自分自身の身体のことはまっとうに可愛がらず、酷使し続けてしまった。ヨガだけは毎日欠かさず続け、ヨガを指導したりさえしていたが、十分な休養を身体に与えるという考えを持つことはついにできず、栄養バランスを毎日考えて食事を取ったり、作ったりすることもできなかった。
もっとも親しかった私は、そうした点をたびたびエレーヌに注意し、猫たちとのつき合いもいい加減に抑えるように言い、土日はどこへも行かず休息するように言い続けたが、そのたびにうるさがられた。

経済学でよく使われる用語に、トレードオフ(Trade-off)という言葉がある。一方を追求すれば他方を犠牲にせざるを得ないという状態・関係のことで、こういう状況下では、選択肢となるものの長所と短所を正しく考慮した上で、つねに選択・決定を続け、未来の自分の状況を創り続けていかねばならない。
エレーヌに決定的に欠けていたのは、こうしたトレードオフの認識をベースにした、生活上のバランス感覚だった、とはいえそうに思う。
たとえば、一匹の、あるいは数匹の猫の世話をすることを選べば、他の多数の猫の世話は諦めなければならない。
どんどん老いていく中で、なおも多忙な仕事に追われているならば、自分の身体の健康を維持するために、余暇は心身を休ませることを選ぶべきであり、そのかわりに猫たちの世話をしたり、遠方に出かけることは諦めなければならない。
日々の疲れを癒すために、人づきあいはせいぜい23時頃までにして、後は電話にも出ないようにしなければならない…
こういった生活上の基本的なトレードオフが、エレーヌには十分にはできなかった。猫たちの世話をする際の膨大なストレスや、人づきあいのストレスが、意識の点では活力や癒しをもたらすかのように感じられても、身体には大きなダメージを与え続けているのを感知することが、エレーヌには全くできなかった。


たくさんのいろいろな外部の物事に向けられ続けのエレーヌの心を、彼女の身体は、自分のほうへと引き戻したくてならなかったのかもしれない。身体はさびしくて堪らなかったのかもしれない。