2018/11/02

池ノ上に住んでいた頃の写真


秋の駒場公園。カーキのジャケットをよく着ていた頃。スカートもよく穿いていた。




   駿河昌樹
  (Masaki SURUGA)


 1983年から86、7年頃の、池ノ上時代のエレーヌの写真を掲載しておきたい。
 いつだったか、小型カメラを購入してから、エレーヌのことをたくさん撮り出した。エレーヌの、また、自分にとっても、特別の時を生きているという気持ちがつよく、一瞬一瞬のエレーヌを撮っておきたいと思っていた。
 もちろん、毎瞬を撮るほど多量に撮ったわけではないが、今でもかなりの枚数が残っている。
 素人写真であり、小型カメラでもあり、古い写真でもあるものを、もう一度カメラで撮り直してここに掲載しているので、きれいな画像にはならないが、どれも、その瞬間に即座に引き戻してくれるほどにリアルであり続けている。
 池ノ上でパックをする姿や、ヨガをする姿を写したものは、エレーヌと親しかった人たちには興味深い写真ではないだろうか。

パックの最中。
背景にある小さな箪笥は、亡くなるまで使い続けた。
代田の家では、エレーヌの寝室に置かれ、頭の右側にあった。


寝室の壁(背景)にはミュンヘンの大きなポスターが貼ってあった。
写真には写っていないが、寝室の天井には、日本の唐笠を開いて逆さまにかけてあり、
電球のあかりが直接落ちてこないようにしてあった。

ヨガは毎日の日課。一時間ほどはやっていた。









これは、池ノ上の家のエレーヌの居間兼書斎。広々とした部屋で、天井も高く、気持ちがよかった。
古い家で、窓の端からは隙間風が入って来て、夏はよかったが、冬などはとても寒かった。
源氏物語の大きなポスターが貼ってあった。
低いテーブルがふたつ、奥には炬燵が置いてあり、冬には炬燵に入って読書や勉強、授業の準備をしていた。

池ノ上の家の台所はとても小さく、正方形の流しの他は、古い丸いガス台がふたつあるばかりだった。
写真を撮った時は冬で、灯油缶がおいてある。

居間の南の窓側。石油ストーブを使っていた。
レジ袋が置かれているのは、雨か雪の日の買い物の後だったためだろう。
買い物の時は、下北沢まで歩いて行き帰りするのが通例だった。
片道15分から20分ほどかかった。
池ノ上では、八百屋で買い物をしたり、コーヒー豆屋で買い物をするくらいで、あまり店はなかった。
エレーヌがよく行った八百屋の主人は親切で、熟した柔らかい柿が大好きなエレーヌのために、
よく取っておいてくれた。中年ぐらいのこの人のことを、エレーヌはなぜか「おじいさん」と呼んでいたが、
「おじさん」という発音がうまく言えずに、「おじいさん」になってしまっていたらしい。


 

2018/10/29

エレーヌからの買い物メモ

駿河昌樹
(Masaki SURUGA)



 ひさしぶりにル・クレジオの『物質的恍惚』のページををめくっていたら、もうだいぶ昔々のこと、エレーヌから渡された買い物メモが出てきた。






 エレーヌは、ちょっとしたメモを私に手渡す時、こんなふうに、よく「ねこちゃん」と書いた。なにかで私が困っていて、励ましてくれるような時にも、「ねこちゃん」と呼びかけてくることがあった。
 もう、めったに思い出さないことなので、古い本の中から急にこんな昔のメモが出てくると、エレーヌの私への呼びかけ方のひとつだったと、あらためて気づかされ、懐かしい。

 このメモでエレーヌが求めてきた買い物は、2,3個のリンゴ、アプリコットいくつか、ミネラルウォーターのコントレックス2ボトル、あまり熟していないミニトマト4つほど、すでに切り分けられているふすまパンなどで、「pour le train(列車用に)」とあることから、フランスにいる時に、おそらく、翌日の列車での旅を控えてのものだろう。この日は、エレーヌと私は別行動をしたものと見え、「Bonne journée dans la nature(自然の中でいい一日を過ごしてね)」とあることから、私は、どこか、森か山だかに出かけたものと思う。
 日本でのことではないのがわかるのは、アプリコットを求めていることや、リンゴを2,3個と指定してきているためで、フランスでは、夏などアプリコットが持ち運びに便利な果物としての定番のひとつだし、日本でならリンゴを買う際、2,3個という頼み方はまずしないためだ。
  このメモといっしょに、Abbaye de Saint-Guilhem-le-Désert(サンギラン・ル・デゼール大修道院の博物館の入場券が本に挟まっていたので、 Hérault県にいた時のことかもしれない。
 とすれば、エレーヌの次兄のリシャール(Richard Grnac)家族が住むモンペリエを訪れていた時のことだろうか。
 リシャールは、山のほうに別荘を持っていたので、私は彼らと山に赴き、エレーヌは別の用事でモンペリエに留まる必要のあった日だったのではないかと思う。

 エレーヌと私で共有していた本から、エレーヌ自筆のメモが見つかることは多いが、私宛に書かれたこんなメモは、用事が終わるとふつうはすぐに捨ててしまうので、あまり見つからない。
 エレーヌの命日であるハロゥインが間近になるにつれ、また、エレーヌのいたずらが増してきたのかもしれない。エレーヌの自筆で、8年ぶりに、「ねこちゃん」などと聞かされるなど、エレーヌらしいいたずらの最たるものではないか。

 末尾には、Gros Baisers.....とあり、日本語でなら「元気でね」と訳すのが妥当な文句だろうが、今は、「大きなキスをいっぱい...」と受け取っておくべきだろうか。

 やはり、ひさしぶりに、エレーヌが挨拶を送ってきてくれた、と見たほうがいいのかもしれない。
 

2018/10/21

ハロウインの日はエレーヌの命日

駿河 昌樹
(Masaki SURUGA)

  
 エレーヌの8回目の命日が近づいている。
 ハロウインの日、10月31日に亡くなったので、いまになってみれば、思い出しやすい日に亡くなったものだと思えてくる。街にハロウインのグッズがちらちら目につき始めてくると、あゝ、エレーヌの日が来る…と思うのだ。
 日本には関係のないはずのハロウインの騒ぎが近年派手になってきていて、日本人のあまりにあっけらかんとしたお祭り騒ぎ好きには首を傾げたくなるが、エレーヌの命日をたくさんの人たちがわざわざ思い出させてくれている、と思えばよいのかもしれない。冗談好きだったエレーヌが、最期に仕掛けた演出でもあったのだろうか。東京のあちこちで、お化けの装いをしたり、怪異なものの衣装を着て歩きまわったりしている人々のなかに、エレーヌはそっと紛れて、束の間、現われてみていたりするかもしれない。お化けや幽霊の大好きだったエレーヌには、やはり、とてもふさわしい日だといえる。

 エレーヌについては、このブログにだいたい書いてしまったし、写真も主なものは出したので、写りがよくなくても、いままで出してこなかったものをなるべく出してみたい。
 ということで、今回は、1980年代後半のものを。

 まずは、目黒の自然教育園に、ある夏に行った時の写真を数枚出しておく。
 エレーヌは40代なかばで、まだまだ若い。
 黒や灰色や墨色のTシャツに、白や黒やカーキなどの短めのパンツ、薄手のジャケットというのが定番になっていた頃。暑さに強く、汗もあまりかかなかったエレーヌだが、この日は暑い日で、さすがに暑そうにしている。後年、エレーヌは、夏の外出時、扇子や団扇を手放さなくなるが、この時にはまだそれらを手にしていない。ひょっとしたら、持ってくるのを忘れたのかもしれないが、夏のエレーヌにしてはめずらしい姿。
 歳を取るにつれ、どんどんと装いがパンクになっていったエレーヌは、値の張る上質の団扇でなく、どこかの店でもらうような安い団扇を手にして、それで陽ざしを避けたりするのを好むようになっていった。





 次は、やはり80年代後半の同じころ、住んでいた池ノ上の2階からの眺めや、室内の若干のようすなどを。







 箒とちりとりを持って立っているのは、家の戸を出たすぐの場所。これは、近所のゴミ出し場の掃除当番の際に撮ったもので、週に一回ほどの割合で、当番が回ってきた。次の写真の道の角に掲示板が見えるが、そのあたりがゴミ収集場になっていて、朝、ゴミ収集車が去った後にそこの掃除をすることになっていた。近隣の奥さんたちも、エレーヌが外国人でも当番に加えてくれていて、よい意味で街に受け入れられていた。
 住所は、世田谷区北沢1-12-4で、一戸建ての2階部分を借りて住んでいた。部屋は三つで、いちばん広い部屋は12から14畳ほど、中ぐらいの部屋は8畳ほど、いちばん小さい部屋は6畳ほどで、古い木造の、隙間風の入る住まいながら、ひろびろとした様子はとてもよかった。
 住宅地ということもあって、外を見ると電線があちこちに見え、エレーヌの好きだったベルナール・ビュッフェの絵の雰囲気を思い出させた。


 晴れた日には、布団を干すのが好きだった。ヴェランダの手すりに敷布団も掛け布団も持ち出して、夕方まで干しておく。布団叩きで、けっこうビシバシと叩いてから、取り込んだ。

 家のなかの写真は、今回、たくさんは見つからなかったが、長く使い続けた魔法瓶の写真を上げておく。



 お湯を作ると、これに入れておいた。エレーヌはフィルターで本当のコーヒーを作るのが好きだったが、インスタントコーヒーも常備していたので、そちらを飲むときにはこの湯を使った。サーモン色と白の、あまりパッとしないデザインに思えるが、エレーヌが自分で選んで買ったのではなく、人から譲り受けたものだった。たぶん、留学を終えて帰国する誰かからの貰いものだっただろう。
 いっしょに移っている小皿も、ぼやけてむこうに写っている時計も、ながい間、エレーヌの手もとにあった。小皿は、亡くなるまでエレーヌの台所にあったはずだが、亡くなった後の形見分けで、だれかに貰われていったのではないか。いま、わたしの手もとには残っていない。代田に引越してからは、この子皿は、よく、猫のミミの食器の役を果たしてくれた。海苔が好きだったミミが、この皿から海苔を口に入れようとする光景が、いまでも思い出される。



 カーテンの写真は、6畳の部屋のもの。
 大きな部屋のほうのカーテンは、床から40センチほど上までしかない薄いレースのカーテンと、同じような長さの青緑のカーテンだけで、カーテンレールに走らせるランナーに安全ピンで止めてあった。ランナーもじゅうぶんな数がなく、カーテンを閉めても、ところどころカーテンが垂れ下がって、すこし開いてしまう。
 後からここに住むようになったわたしは、横着な学生がやりそうなインテリアのこの誤魔化し方をひどいものだと思ったが、エレーヌは、こういうところをあまり気にしなかった。


 2階から階下に降りる階段のところには、西に向いた小窓があり、近くの家々のあいだから夕暮れがよく見えた。
 この写真は、夕方、下北沢に買い物に出かけようとする前だろうか、西空を見ている姿を撮ったもの。
 池ノ上の家から下北沢までは、歩くと15分ほどだったので、電車には乗らず、ふだんは歩いて行き来していた。
 あるいは、下北沢とは逆の方向、駒場東大前のほうへ散歩に出かけようとする時の写真かもしれない。
 東大の構内もよく散歩し、春などはグラウンドの端に桜が満開になるので、週に何度も出かけた。
 駅を挟んで東大の向かい側には、駒場野公園があり、明治期に開かれた実験田や森もあって、四季を通じて散歩の絶好の場所だった。
 そこの公園へは、日中も夕方も、夜も、よく歩きに行ったが、ベンチに座って、エレーヌはよく煙草を一本吸った。銘柄は両切りのゴロワーズと決めてあって、味も強いが、吸っていると、唇に煙草の葉がくっ付いてくる。それを、フッと吹き飛ばしながら吸っていた。ゴロワーズが店で切れていたりすると、ときどき仕方なく、フィルター付きジタンを買う。フィルター付きのジタンだと、煙草の葉が唇につくことはなかったが、エレーヌはゴロワーズのほうを好んだ。
 煙草を買うといえば、下北沢駅からマクドナルドの通りを南に向かってずっと歩いていくと、1980年代から90年代頃には八百屋があって、(現在の「餃子の王将」の向かい)、そこには昔風の煙草売りの小さな店がまえが残っており、ずいぶん歳をとったおばあさんが日がな一日座って、煙草を売っていた。しゃべっていても、時どき要領を得なくなるところがあるおばあさんだったが、煙草の銘柄などは間違えることがなく、エレーヌが「ゴロワーズ、ください」と言うと、迷うことなく、ピタッと出してきた。
 エレーヌはこのおばあさんに会うのが好きで、このあたりに行った際には、いつもここで一箱買い、おばあさんとすこしおしゃべりして行った。
 ある時、このおばさんの姿が急に見られなくなった。八百屋の主人に聞くと、亡くなったと言われ、エレーヌは非常に残念がっていた。

2018/03/18

病気をしたことのなかったエレーヌが…

 駿河昌樹
  (Masaki SURUGA)



 昨年から今年にかけては、風邪もインフルエンザもずいぶん流行り、街中ではマスク姿の人が多く目についた。
 花粉症の季節に入ると、例年通り、やはりマスク姿のたくさんの人が目につく。

 エレーヌも、病気になって抗がん剤を投与された時には、外出時にマスクをつけることがあった。治療のために免疫力がひどく低下するので、病原菌に対する用心のためである。実際にはたいして効果はない、という話も聞くが、つけないよりはマシだろうとなると、人間はいろいろと効果の薄いことにも精を出す。

 しかし、エレーヌのマスク姿は、彼女の全人生の中では、晩年の病気の時ばかりの稀なものだった。私がエレーヌを知ってからの長い歳月、彼女がマスクをしている姿など、一度も見たことはなかった。
 
 マスク姿ばかりではない。
 エレーヌは、風邪さえほとんど引いたことがなかった。
 鼻先がクスクスとなる程度の風邪を引くことはあったのではないか、と記憶の中を探ってみるのだが、はっきりとは思い出せない。
 私やまわりの友人知人たちが風邪を引いたり、体調を壊すことがあっても、エレーヌには、まず、そんなことは起こらなかった。誰よりもスリムな身体だったが、丈夫で、忙しい日々を平然と乗り切っていた。私よりもはるかに年上で、先に老いの進んでいくはずのエレーヌを見ながらも、いつも安心していられたのは、生まれながらにして恵まれた、そんな身体的な頑健さがあったからだ。
 
 エレーヌが2009年にふいに末期ガンを宣告される事態に至った理由のひとつには、しかし、そんな身体的な頑健さが数えられる。
病気と呼べるほどの病気を、ついにひとつも経験せずに老齢に入っていったエレーヌは、自分の体力を過信し過ぎていた。中年頃までなら許されたかもしれない生活上の無理を、年齢を重ねるにつれ、減らしていかねばならなかったはずなのに、そういう配慮は完全に怠っていた。
そればかりか、私から見て、身体の休息を奪うような雑事をさらに背負い込むようになっていっていた。
後になってふり返ってみれば、生活態度という点からエレーヌを大病に導いたのは、

1 (病気の経験が皆無なゆえの)体力への過信。
 2 睡眠時間の極端な少なさ(平均して4時間以下)。
 3 完全な休息時間の少なさ(月から金までは仕事で遠方へも外出。土日にも外出活動を入れる。家に来る猫たちの世話のために、就寝後も起こされて、餌やりや猫の出入りをさせる…)。
 4 晩年、野良猫の保護に深い興味を示し、家のまわりの猫たち以外についても始終心を配っていたことから来る、絶え間のない心労。
5 ヨガをはじめ、健康に関するさまざまな実践を行ったり、つねに知識を追い続けていたにもかかわらず、実際の自分の食生活が、時間のなさのためにいい加減だったこと。夜に少量のサラダを食べるだけで済ましたり、カロリーバーだけで済ましたり、外食の際にも、栄養価の点で問題の多いファミレスの食事で済ますことが意外と多かった。

などといった誤ちだった、というのがはっきりしている。

彼女のガンは、65歳以降に卵巣に発生し、そこから転移をして腹膜全体に広がったと思われるが、この時期に、せめて、土日はすっかり休息を取るようにし、よく眠り、月から金の人間関係をシャットアウトしてくれるような暮らし方をしていたら…と思う。
現実には、土日には、ウィークデー以上に、友人や知り合いやフランスの親族からの電話が殺到し、野良猫の保護や里親探しなどの用件で外出することが多かった。地区のたくさんの猫たちに与えてまわる餌を買い込むのも土日で、私も頼まれて、猫缶を50個ほど買い込みに行くようなことが多かった。

これに加えて、60代のエレーヌは、いろいろな文章を書くようになっていた。
仕事で疲弊して帰って来てから、猫たちの世話をし、友人たちからの電話なども絶えてからパソコンに向かうので、深夜12時を過ぎてから3時や4時まで起きながら、書く。ウィークデーなら翌日の仕事のために7時や8時には起きねばならず、6時起きが必要な場合も多い。ごく短い睡眠時間の間にも、外をまわって来た猫たちが窓を叩き、家に入れてくれと求めたりする。家で寝ていた猫も、逆に外に出たがったりする。
こんな生活のくり返しが、発病するまでのエレーヌの日常で、当然ながら、身体が悲鳴を上げることになるのも時間の問題だった。

あれほど猫たちを可愛がり、日中でも夜でも、何度となく動物病院に駆け込んだりしたエレーヌだが、自分自身の身体のことはまっとうに可愛がらず、酷使し続けてしまった。ヨガだけは毎日欠かさず続け、ヨガを指導したりさえしていたが、十分な休養を身体に与えるという考えを持つことはついにできず、栄養バランスを毎日考えて食事を取ったり、作ったりすることもできなかった。
もっとも親しかった私は、そうした点をたびたびエレーヌに注意し、猫たちとのつき合いもいい加減に抑えるように言い、土日はどこへも行かず休息するように言い続けたが、そのたびにうるさがられた。

経済学でよく使われる用語に、トレードオフ(Trade-off)という言葉がある。一方を追求すれば他方を犠牲にせざるを得ないという状態・関係のことで、こういう状況下では、選択肢となるものの長所と短所を正しく考慮した上で、つねに選択・決定を続け、未来の自分の状況を創り続けていかねばならない。
エレーヌに決定的に欠けていたのは、こうしたトレードオフの認識をベースにした、生活上のバランス感覚だった、とはいえそうに思う。
たとえば、一匹の、あるいは数匹の猫の世話をすることを選べば、他の多数の猫の世話は諦めなければならない。
どんどん老いていく中で、なおも多忙な仕事に追われているならば、自分の身体の健康を維持するために、余暇は心身を休ませることを選ぶべきであり、そのかわりに猫たちの世話をしたり、遠方に出かけることは諦めなければならない。
日々の疲れを癒すために、人づきあいはせいぜい23時頃までにして、後は電話にも出ないようにしなければならない…
こういった生活上の基本的なトレードオフが、エレーヌには十分にはできなかった。猫たちの世話をする際の膨大なストレスや、人づきあいのストレスが、意識の点では活力や癒しをもたらすかのように感じられても、身体には大きなダメージを与え続けているのを感知することが、エレーヌには全くできなかった。


たくさんのいろいろな外部の物事に向けられ続けのエレーヌの心を、彼女の身体は、自分のほうへと引き戻したくてならなかったのかもしれない。身体はさびしくて堪らなかったのかもしれない。