2017/08/24

エレーヌの永住ビザ申請理由書(2000年)


永住ビザ申請理由書に書かれたエレーヌの自筆サイン


  駿河昌樹
  (Masaki SURUGA)


 1977年から日本に住んでいたエレーヌだったが、永住ビザは何度申請してもなかなか下りなかった。
 ビザは、申請のたびにたくさんの書類を揃える必要がある面倒なもので、そのうえ、エレーヌは誰よりもお役所との関わりが嫌いでもあったので、毎回、ビザ申請は大事件だった。

 ここに載せるのは2000年に法務省に提出した申請理由書で、エレーヌと私とで書き上げたもの。
 もっと硬い文面で、いかにもお役所用に書くことも可能だったが、日本語のさまざまな文体レベルを使いこなせるわけではなかったエレーヌは、ふだん話す時に使うような、自分の不完全なやわらかい日本語に近い文体で書くことに固執した。そのため、まず、エレーヌの書いたフランス語原文をとりあえず硬めに訳し、それから、エレーヌといっしょにやわらかい“下手な”日本語に直していく超訳的な作業を行った。

 この理由書が幸いしたのか、それとも、それまでの大学やカルチャーセンターでの教育活動の実績が認められたのか、死の10年前になって、ようやく永住ビザが下りた。

 文面は私との共同制作となっているが、内容は、この時期のエレーヌの思っていたことがよく表わされたものになっている。
 具体的には、70歳になって大学の仕事を引退したら、カルチャーセンターの仕事はいくらか続けつつ、フランスと日本を行き来して日本の文化紹介をしたいと考えていた。若い頃はさまざまな国々に旅をしていたので、70歳を越えたら、世界中への旅をさらに続けたいとも考えていた。
 

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 理由書

法務大臣殿

 私はすでに23年間、継続して日本に滞在し続けています。
母国はフランスですが、日本はいま私にとって、それとおなじくらいに、じぶんと切り離せない場所になっています。第二の母国に感じているといってもいいし、場合によっては、フランスよりも慣れ親しんでいるとさえ感じています。

 たんなる旅行者としてではなく、日本人とおなじように、生活者として毎日をこの地で生きるのは、私にとってはとても豊かな経験の連続でした。
生活するのですから、もちろん、楽しいことばかりではありませんでしたが、全体的に見て、やはり日本でなければ味わえない喜びに恵まれていたとは言えると思います。
フランスではけっして経験することのできない梅雨の季節の、あの雨のすばらしさ、雨に濡れる紫陽花や、蒸し暑くも肌寒くもあるような日々などは、それ自体、貴重なものでしたし、木と紙をつかった家屋での生活のしかたや、フランスとはまったく異なった、盆栽のような雰囲気のあるごくふつうの庭のあり方なども、日本のひとには意外に思われるようですが、ひじょうな驚きでもあるとともに、こころの慰撫でもありました。
諸外国と比べて人口密度が高い環境のなかで、ごく普通の日本人がどのような秩序を作り上げ、守って、少しでもストレスの少ないスムーズな日常生活を送ろうとしているかということなども、毎朝の駅での風景や満員列車のなかに身を置くことで、やはり、驚きとともに、体験的に発見したりしてきました。

そういう、日々の文化的な発見とはべつに、個人的なこころの成長という面でも、日本に生きるということで役に立ったことは計り知れないと感じています。
ひとはだれでも、生まれ育った国や地方、街、環境などの生活、思考様式をじぶんのなかに引き受けるとともに、偏見や偏った好みなどもしらずに育んでいくもので、フランスに生まれ育った私にもあきらかにそういうものがあったはずですが、日本で生活することによって、そうしたものがことごとく相対化され、自国の文化とともに、じぶん自身の精神やこころを再考する無数の機会に恵まれました。
こうした再考を経て、フランスやヨーロッパを振り返り、そうして、また日本を見る、ということをくり返しながら、さらにじぶんが変化していく.開かれていく、そうして、それは今後もずっと続いていくという、ダイナミックな精神の運動を経験してこれたように思います。
こういうと、すこし大げさな言い方に聞こえるかもしれませんが、しかし、これは日本で生活するということがなければ、けっして望めなかったことだと感じています。日本では、さいわい、フランスの言葉や文化、文学を教えるという仕事に継続して就くことができましたが、このおかげもあると思います。母国の文化を教えるというのは、教えることがそのまま、学ぶことでもある経験なので、精神的な流動のなかに、いつも身を置くことができますから。歳を重ね、経験を積むほどに精神が若くなっていければ、というのは私の理想ですが、この理想は、それなりに実現されつつあるのではないか、と感じています。

このような私にとって、日本に永住したいという思いはほんとうに自然なものです。
いまの私のこころも、精神も、日本にこうして住んでいるということを基盤にしているので、他にも選択肢がありうるという思いは、浮かんでこないほどです。
永住ビザの申請を行う第一の理由は、日本に暮らし続けたいというそうした自然な気持ちに、かたちを与えたいと思うようになったからです。普通のヴィザですと、だいじょうぶだろうとは思っていても、やはり、申請のたびにいろいろな心配をするものなので、こころのなかでは、どうしても、私と「日本」のあいだに線が引かれるような気持ちになります。そういうことがなくなるのならば、と思ったことは、やはり、いちばん大きい理由です。
 第二の理由は、そろそろ、フランスと日本のあいだの文化交流のような活動をほんとうに始めたいということです。日本とフランスのあいだを今までよりも頻繁に行き来して、日本での経験や文化などを、フランスの子どもたち、青年たち、身障者たちに伝える活動をしたいということは、若い頃から考えていたのですが、まだ学ぶべきこと、知るべきことが多いと考え、実行はできないできました。日本についてかなりのことがわかってきた今こそ、長い間のそういう夢を実行に移すべき時ではないか、と考えるようになりました。

現在、日本についてのフランスでの関心はとても高く、老若男女を問わず、日本のものの受容ということについて、好ましい感受性が出来てきているという気がします。
高等学校でも日本語や文化の教育は広がっており、学習希望者が多すぎて、抽選になることもしばしばです。バカロレアという大学入学資格試験でも、日本語は公式の受験科目になっています。
私としては、いまのフランスのそうした環境のなかで、日本の特定の分野についての研究者としてではなく、ながく普通の生活を日本で続けてきた者として、日本のさまざまな面をフランスに伝えていきたいと考えています。
もちろん、昔の良き日本の風物を知識として伝えるのも大事だとは思いますが、現代の日本のすがたや、そのなかに生き続けて変わらないほんとうに日本的なもの、しかも、これからの世界にとって、どの国でも参考になるような、ごく普通の日本の生活の知恵のようなもの、ながく住んでみてはじめてよくわかってくるような、かたちのない知恵、そんなものを特に伝えていきたいと思っているのです。

これまでは、朝日カルチャーセンターなどで、フランスの文化や文学などを、たくさんの熱心なひとたちに長い年月を通して伝えてきたのですが、そうしたことを、今度はフランス人たちに対しても始めていきたい、しかも、過去のものとして伝えるのでなく、じぶんの生活基盤は日本に置き続けて、いま現在の日本にじぶん自身たえず触れ続けつつ、フランスの各地に講演などをしてまわりたいと考えています。
 これまで続けてきた日本の言葉、歴史、文化(指圧、禅、料理などあらゆることを含みます)などについての勉強や経験の拡充を、これからは、フランスに向けて発信するという観点から、いっそう力を入れていきたいとも考えています。
 さいわい、健康には恵まれていて、経済的にも、日本だけでなくフランスにもじゅうぶんな積み立てがあるため、今後の生活には、それらの点での心配はないと考えています。

ながくなりましたが、以上のようなことを考えて、永住ヴィザを申請することにしました。
 どうぞ、よろしくご配慮戴きたく、ここにお願い申し上げる次第です。

 2000年5月10日


 エレーヌ・セシル・グルナック

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 同時に提出した書類の一部を以下に掲載しておく。







エレーヌ自身の撮った写真

 駿河昌樹 
 (Masaki SURUGA)


 わずかな枚数だが、エレーヌ自身が撮影した写真が残っている。
 うまい写真ではないし、写真を撮る人たちが最低限心がけようとする注意もできていない。フレーミングに際しての気取りのようなものも見られない。
 しかし、エレーヌ自身の目と意識がファインダーの中に見ていた光景や風景がそのまま残されているという点では、今でもエレーヌを思い出す人たちにとってはいくらか貴重なものかもしれない。ほんの少しだが、エレーヌのまなざしの中に入ることができる。

 もともと、エレーヌは自分でカメラを扱うことに全く関心がなかったが、多少の興味を示すようになったのは、たくさんの猫と接するようになってからだった。
 私の持っていたカメラのうち、扱いの簡単な小型のものをひとつあげると、いろいろと撮り出した。まだ、フィルムを装着する時代だった。病気になる直前には小型デジタルカメラも与えたが、こちらのほうは十分に使いこなす前に闘病に入ってしまった。

 代田の家に引っ越した当日、隣りの家の庭で暮らしていた若い外猫のミミがひょっこりと入り込んで来て、それ以後、エレーヌと私の家で寝起きをするようになり、エサもたっぷりともらうようになったが、猫にもあまり興味のなかったエレーヌが、このミミのせいで猫への開眼をすることになった。
 ミミの世話だけで留めておけばいいのに、エレーヌは近所の野良猫たちも可愛がるようになり、仕事から遅く帰った時でさえ、数か所の野良猫の集結する場所に出向いて餌やりをするようになっていく。
 これは晩年まで続き、世田谷区の野良猫たちの里親さがしや世話をする人たちとも親しくなって、寝ても覚めても野良猫たちの世話に忙殺されるようになった。

 家にはミミの寝場所がつねに特等席として確保されていたものの、家の玄関わきや庭でエサをもらう野良猫たちもよく部屋に入り込み、思い思いの場所で眠ったり、休んだりしていった。ミミは、家の周辺では縄張りを守るのに予断のない、なかなか過激な女王様だったので、ミミがいる時には野良猫たちは近づかない。鬼の居ぬ間に…という感じで、野良猫たちは現われたものだった。

 ここに載せる写真は2005年頃のものらしく、元気だったエレーヌが猫たちとのつきあいを満喫していた時期の映像を残している。
 代田のエレーヌの家の庭や、玄関から出た小道、その小道の向かいの大家の本家の邸宅の壁、押入れの中に入り込んで眠る野良猫、うっかりシャッターを切ってしまった天井の写真などが含まれている。
 たくさんの猫たちにエレーヌはいちいち名前を付けていたので、ここに撮られた猫たちにもそれぞれの名があるはずだが、今となっては私にはわからない。

 玄関脇の自転車置き場のあたりにツツジが咲いている写真もある。
 玄関のもう片方の脇にも大きなサツキの二株が毎年咲き誇って、春から初夏、サツキのこの鮮やかな色を殊に愛したエレーヌを楽しませたものだった。
 けれども、この見事なサツキは、2010年にエレーヌが引っ越すとすぐに引き抜かれ、現在では裸の地面が露呈している。
 門もない家なので、象徴的ながらも、道と家のあいだをこれらの立派なツツジが守っていたように見えたものだったが、そうした風景上の美点も、エレーヌが去るとともにあっという間に消え失せてしまった。

 エレーヌの死後、彼女にゆかりのある場所の変化を次々と見せつけられていた数年間、ひとりの人の存在がどれだけ風景を守るか、風景を造り、維持し続けるかを考えさせられた。
 エレーヌが逝った後の世田谷のあのあたりも、東京も、日本も、土地や街はほぼ変わらず在り続けているかのようでいて、じつは、あの頃までの風景が二度と出現することのないほどの変貌が起こってしまっている。