2016/10/31

今日はエレーヌの6回目の命日

 

故郷サン=シェリー・ダプシェの墓地の、父母と長兄の眠る家族の墓の前で。
1999年の写真。
エレーヌの遺骨も、今はここに葬られている。



  駿河昌樹
  (Masaki SURUGA)


 今日、10月31日は、エレーヌ・セシル・グルナックの6回目の命日となる。
 2010年の今日、午前7時10分にエレーヌは68歳の生涯を終えた。
 お化けや幽霊や、あらゆる不思議なことの大好きなエレーヌらしく、というべきか、見事にハロゥインの日で、たぶん、魑魅魍魎たちや、天使たちさえも含めて身辺に楽しく立ち騒ぐのを感じて、急に向こう側へ行ってしまいたくなったのだろう。
 
 前日の10月30日(土)には台風14号が来ていて、関東上空で猛威を振るっていた。夏も稀に見る猛暑だったが、中秋になっても台風が来るような変った年だった。
 台風は気圧の変動をもたらすので、血液の質が極端に低下して、衰弱していたエレーヌの身体から、霊体を引き離しやすかったのかもしれない。
 
 彼女の最期の頃のことはすでにいろいろ書いたので、細かくくり返す必要はないだろう。だが、ちょっと思い出し直しておくと、
 ・10/27(水)に東京医療センターで最後にエレーヌと会う。
 ・10/28(木)に、エレーヌの新居になるはずの王子神谷のURに行って、部屋の鍵を貰う。そして、その11階の部屋にひとりで入り、翌日の引っ越しの段取りを思いめぐらす。
 ・10/29(金)にエレーヌの家具調度の引っ越し。エレーヌはもちろん、病院に入院したまま。まず世田谷の家に行って、運び出し作業に立ち会い、午後に王子神谷の新居に向かって、そこで運び入れ作業に立ち会う。18時30分頃に引っ越しは終了したが、ひとりで夜遅くまで、箱からの取り出しや、荷物の整理を開始する。
 ・10/30(土)は、台風で風雨がひどかったため、エレーヌ新居にも行かずに休息。交通網も麻痺していて、駒沢の病院に行くどころではなかった。
 ・10/31(日)、午前3時頃に意識がなくなっていることに看護師が気づく。4時頃には呼吸が弱くなり、心臓も止まりがちになってきていた。午前7時10分にエレーヌ死去。葬儀の段取りの決定。死亡届や埋葬許可書のことで、世田谷区役所、目黒区役所を駆けまわる。エレーヌの住民票をすでに世田谷区から抜いていて、北区にまだ入れていなかったため、紛糾した。さらに、亡くなったのが目黒区の病院だったため、どこで埋葬許可書を発行するか、役所自体がわからなかった。北区役所や法務省にも電話して、ようやく決着。エレーヌの多くの友人や知り合いなどに電話やメール連絡をし、葬儀日程を告げる。
 ・11/01(月)、病院で発行した死亡届に不備があると目黒区役所から電話があり、病院長名での作成し直しが必要と。さらに、世田谷区役所にももう一度行って、手続きをしなければならない、と言われる。喪服の準備。フランスのエレーヌの家族や友人たちとのメールの煩瑣なやりとり。エレーヌの新居に行って、彼女の衣装ケースの中を探しながら、棺桶の中でエレーヌにかぶせる服を選ぶ。が、自己流のストリート系ファッションだけで生きるようになっていたエレーヌは、すでに正装を一切持っておらず、比較的新しい黒のTシャツやスカーフなどを選ぶことにする。
 ・11/02(火)、10時より11時頃まで、大船の長福寺で告別式。参会者60人ほど。11時45分頃より13時15分、火葬。13時30分より集骨。
 こういった流れになっていた。

 エレーヌが亡くなった直後からは、私ひとりの物語が始まった。
 それは、翌年の8月まで10か月続くことになる、エレーヌ新居でのひとりでの整理・処分作業を中心としている。
 そこに、ついに一度も日本に来なかったエレーヌのフランスの家族や血縁者たちとの葛藤、とりわけ、エレーヌの遺骨のフランス送還を強硬に要求してくるようになった故郷の妹マリ=テレーズの問題(自分では日本に遺骨を取りにも来ようとしないのに、要求ばかりを言い募る彼女には、フランス領事館も異常な人物として手を焼いた)、また、私や日本のエレーヌの友人たちについて、エレーヌの家族たちに悪しざまに批判して、取り返しのつかない誤解を作り出したエレーヌの友人ベルナデット・スィウスの哀れな振舞いへの怒りなどが加わる。
 これらの問題は、エレーヌの荷物の処分や整理が終わる頃にはだいたい静まっていったが、しかし、解決したわけではなかった。フランスのエレーヌの家族は、ベルナデットとマリ=テレーズの言いふらしによって、私や日本の友人たちがエレーヌを殺したとまで思い込んでいて、2010年に遺骨の大方を故郷に運んだ時点で、関係は絶えた。永遠に解決はしないだろう。
 エレーヌの家族・血縁で、いちばんまともに話が通じたのは、パリの次姉の元銀行職員アンリエットや、その娘で教員をしているエリザベットだったが、家族が誰ひとり日本に来ないので、いろいろと手続きが困難だとエリザベットに伝えた際、「私たちはエレーヌの銀行口座を管理したり、彼女のフランスの年金を送金したりしてきた。そんな面倒なことをずっとしてきたのに、それ以上になにをすべきというの?」という話になり、彼女たちともその後は間遠になった。
 
 エレーヌの遺骨をフランスに持って行ってくれたのは、当時の在東京フランス領事のフィリップ・マルタン氏その人だった。2011年6月9日(木)午前9時過ぎに、それまで遺骨を預けていた長福寺まで引き取りに来てくれた。エレーヌの友人の大林さん、ヨガ仲間の神尾さん、旧知の古谷さんが同席した。
 マルタン氏は、エレーヌの妹マリ=テレーズが、遺骨を断固として引き取ると言いながら、自分では飛行機が怖いとか、病気があるとか言いながら、日本には来ようとせず、こういうことは領事館が当然やるべきことだろうと言い募って、非常に困惑させられたと話してくれた。彼女は頭がおかしいようです、と小声で私には語った。

 エレーヌの持っていた書籍類はいまもトランクルームにしまってあって、月に数万円ずつ出費が出ているから、彼女にまつわる整理は、じつは未だに終わっていない。さすがに6年経つと、そろそろ処分しようという気持ちも強まってくるが、いっしょに見た懐かしい本や、愛着のある本、フランスでも見つからないような貴重な神秘主義文献などがかなりあって、そうやすやすとは処分できない。

 一昨年、パリを訪れた際、音信を絶っていた次姉アンリエットに電話してみた。電話は高齢者の介護施設に繋がり、ひさしぶりに話をした。エレーヌより年上の彼女は心臓に疾患が生じ、長く住んだパリの住まいを引き払って、施設に入ったと語った。
 夫のピエロ(ピエールの愛称)は?
 そう聞くと、知らなかったの?ピエロは死んだのよ、脳出血で、と言うので、驚いた声をわざと作って(私は、エレーヌの死後、誰の死にも不幸にも驚くということをしなくなった…)、「いつのこと?」と訊ねた。
 2011年の夏前だったのよ…
 聞きながら、そうか、ピエロは、エレーヌの遺骨がフランスに戻った直後に急死したのか、と思った。遺骨をマルタン氏に委ねた頃の前後に、アンリエットとピエロに電話し、遺骨の件が済んだことを告げたが、あれから程なくして、ピエロは死んだということになる。
 エレーヌとパリに行く際には、よく彼らの住まいに泊った。ピエロもアンリエットも私には親切で、俗語満載でいろいろとしゃべりたがる彼は、私にはちょうどよいフランス語勉強の生きた教材そのものだった。外国人の私がいると、ガイドしながらフランス各地にいっしょに旅行に出る理由ができるので、退職後の余暇を使うのにちょうどよかった。かなり短気で、年中癇癪を起し、妻とは喧嘩していることが多かったが、私にはどんな時でもよく対してくれた。
 しかし、彼もまた銀行職員だったからか、面倒なことには一切手を出さず、一銭でも余分に金の出ることには首を突っ込もうとしなかった。エレーヌの遺骨をどうするかという時にも、彼は義妹のマリ=テレーズに反対していて、かっこうな金を払って遺骨をフランスに持ってくる必要などない、日本で埋葬するということで一向に問題はないではないか、と言い続けていた。ポイントは、遺骨を私や日本の友人たちの元に残すというところにはなく、あくまで金のかからないほうを選ぶべきだ、というところにあった。
 エレーヌは、こういうピエロの性格を嫌っていた。学生時代、パリでのエレーヌの生活は裕福なものではなかったので、よくアンリエットとピエロの家に行って食事を出してもらったらしいが、「本当に私が必要としていたのはお金で、何度かお金を貸してほしいと頼んでも、ピエロは絶対に貸してはくれなかった」と言っていた。
 エレーヌの遺骨の問題が持ち上がった際にも、ピエロが、いっさい、うちは手を出さないでおこう…と決めたであろうことは想像がついた。そんなピエロも、エレーヌの亡くなった後、8か月ほどでこの世を去ることになったのか、と思い、運命の不思議な廻りぐあいをいろいろと感じた。

 このページにも、エレーヌの少し珍しい写真を載せておく。すでに他のページに掲載したものもあり、いろいろな時期のものを順不同に並べてみた。



























2016/10/30

慶応湘南藤沢キャンパスSFCで授業中のエレーヌ

 

 駿河 昌樹
 (Masaki SURUGA)


 エレーヌの命日を明日10月31日に控えて、今日はすこし珍しい写真を載せておこうと思う。
 たぶん、1990年前後の頃と思うが、 大学教員としてのエレーヌを、授業中、教室の中で撮影した写真である。
 場所はSFCこと、慶応大学湘南藤沢キャンパス。
 エレーヌはこのキャンパスの立ち上げ時から教えることになり、亡くなる年まで約20年間ほど関わり続けた。最後の2010年は病気で教壇に立つことができなくなったが、2009年までは教え続けた。
 キャンパスのパンフレットを作る一環として撮られたのか、それとも学生が記念に撮ったものか、今となってはわからないが、これらの写真は無造作に封筒に入れられ、エレーヌの押入れの手紙類の箱の中に仕舞われていた。
 私は個人的には、教師としてのエレーヌを知らないが、これらの写真からは、生き生きと楽しそうに学生たちに対しているエレーヌの姿が蘇ってくる。彼女は、人と接する時にユーモアや冗談を交ぜるのが好きだったし、堅苦しい関わり方を好まなかったので、学習意欲のある大方の学生たちにとっては、楽しい先生だったことだろう。

 もっとも、やる気のない学生や失礼な学生に対しては、かなり手厳しかった。遅刻して平然と入ってくる学生や、課題をやって来ていない学生、学ぶ態度のなっていない学生などは、教室から追い出したことも多かったらしい。
 はっきりしない声で、小さくボソボソと返答する学生も大嫌いだった。これはフランス人一般に共通するが、わかるならわかる、わからないならわからない、とはっきり言うのは最低限の礼儀だと、エレーヌは言っていた。日本を愛したエレーヌだが、日本人のこういうところは本当に嫌だ、とよく言っていた。

 ある時期から、日本の大学生がひどくなり過ぎてきた、と嘆くようになった。毎日のように、怒って帰ってくる。レベルの高い大学でさえ、以前より悪くなってきた、とエレーヌは感じていた。
 あまり怒るのをやめたほうがいい、と私は勧めた。ちょっと態度が悪かったり、やる気がなさそうだったりしても、扱いを少し緩くして、楽しい授業にしたほうがいい、そんな時代になってきたように感じる、と彼女に言った。
 私の勧めに従ったばかりでもなかろうが、それからのエレーヌは、グッと和やかに授業をやるようになったらしい。「学生を、あまり怒ってばかりいてもダメです」と自分から言うようになったから、自分なりの新たな方法を見出しつつあったのだろう。

 この写真の頃のエレーヌは、まだ“怖い先生”だった時代ではないか、と思う。それが、こんなに和やかにやっているのだから、よい学生たちが集まっていた時代なのだろう。SFCからは起業家などが多く出て、その点、日本中の全大学・全学部の中でもダントツだと言われるが、この写真に写っている学生たちにも、今は各方面で活躍中の人たちが多いに違いない。
 たぶん、写真が撮られてから、25年ほどが経っている。写っている学生たちも、今はすでに40代半ばなのではないか。彼らは、生き生きした、ユーモアのある、怖くもあった「エレーヌ先生」「グルナック先生」「エレーヌさん」を、まだ覚えているだろうか。偶然、このブログを目にして、「これは、あの時の…」と思ってくれたりすることもあるだろうか。
 
 写っている方々の許可を取って載せるべきなのだが、なにぶん25年ほど前のもので、今では御本人の雰囲気も容貌も変わっている場合が殆どと考え、さほど支障はないと判断して、とりあえずは掲載させていただいた。ここに写っている方で、お気づきの点がある場合は、ぜひお知らせいただきたい。 
 
 なお、なにぶんデジタルカメラのない時代のものなので、残っているプリント写真をデジカメで撮り直して、ここには掲載している。そのため、もともとピントが少し甘く撮影されていたこれらの写真は、いっそう鮮明さを欠くことになったが、これは致し方ないと思う他ない。
 





















2016/10/23

旧古河庭園の秋薔薇

駿河昌樹
  (Masaki SURUGA)


エレーヌのことを記すのではなく、今回はエレーヌにむけて記そうと思う。
昨日、秋薔薇が花盛りの東京の旧古河庭園に行き、いくらか写真も撮ってきた。
薔薇の写真をとても好み、
毎年のカレンダーは薔薇の写真のものを買ってくることにしていたエレーヌには、
どこかで花の写真を撮るとよくメールに添付して送ったものだが、
亡くなってからは、もちろんそんなことをしていない。
今回はひさしぶりに、そんなふうにエレーヌにむけて、薔薇の写真を送りたい。

エレーヌがもし、自分でこのブログを書くことになったとしたら、たぶん、自分で撮った季節の花々の写真や猫たちの写真で埋め尽くすことになったのではないか。
そういう意味では、今回は、もっともエレーヌらしいブログになるといえそうだ。


旧古河庭園はエレーヌとも何度か薔薇を見に行ったところで、
彼女自身にとっても懐かしい場所だろうと思う。
エレーヌは、薔薇をはじめ、さまざまな花そのものも好きだったが、
さまざまな色合いのピンク系やムラサキ系の色をとても好んだ。
60代に入ってからは、その好みは激しくなった。
自信を持っていても、体のうちに疲れを感じるようになっていたのか、
それを癒すようにそれらの色をつよく求めていたのか、とも思う。


Le jardin "Kyu-Furukawa Teien"à Tokyo, 
 il est plein de roses d'automne en ce moment. 
Hélène connaissait bien ce jardin et elle aimait à s'enivrer du parfum des roses.