2015/12/13

抗がん剤が実は発がん物質であるらしいこと

  駿河昌樹
  (Masaki SURUGA)


 エレーヌの闘病、また、ガンによる死去からは、個人的には少なからぬ教訓が得られた。

 そのうちのひとつが、エレーヌの死後にとみに話題になるようになった“ガン治療の嘘”がある。
 ネットで様々な情報が見られるようになった現在、細かいことをここで述べる必要はないだろう。興味のある方は、自分で情報の錯綜したネットの森に分け入り、自分の理性と勘にのみ頼って真偽を探っていったらよい。なにが正しく、なにが間違っているか。それは、自分の頭と体で突きつめていくしかない。
 医療に関わることでもあり、ひとりひとりの自己判断に任されるべきことであるため、これについては私はなにも書かないが、以下に引用するような情報を多量に渉猟した結果として、私個人としては、仮に自分がガンになった場合にも、断じて抗がん剤は使わない決意をするようになった(白血病などの場合は有効のようだし、周囲に実際の成功例を見ている)。

 当時、私自身にも、まだ医師を多少は信じる部分が残っていたため、エレーヌにこうした見地からの助言をつよくできなかったのが残念である。

 ガンが発見された時点で、医師はエレーヌに余命3か月を告げた。
 こうした宣告の内容(つねに「余命3か月」だったり「半年」だったりする)が本当だったとすれば、心身の不快を強め、苦しみを募らせるばかりの抗がん剤投与は、そもそも避けるべきはずだが、抗がん剤投与を行った医師の判断にはじつは大きな矛盾があった。
 この時点で、ガンをめぐる日本の医師たちの曖昧さや悪意を読み取るべきだったが、そこまで冷酷に医師たちを判定することを私は怠ってしまった。

 日本の医師たちだけではない。エレーヌのかつての婚約者である(彼女と同世代の)医師も、彼女に施された抗がん剤治療や手術が妥当だと言っていたので、フランスでも事態はそう変わらなかっただろう。
 つまりは、彼女のかつての婚約者もありきたりの並の医師に過ぎなかったということで、そんな人物がエレーヌの治療に少なからぬ影響を与えてしまったのを、今にすれば、やはり残念に思う。


 [以下、引用]
http://cancer-treatment-with-diet-cure.doorblog.jp/archives/47146544.html

 WHO の発表 抗がん剤が実は発がん物質だった!
 

   癌と食養 自然療法による癌治療
    WHOの公式発表による、癌の原因となる「116種類の要因」
    【「116の一覧」の中に「抗がん剤」がいくつも入っています!「抗がん剤」が癌の原因になる証拠!】


 WHO(世界保健機関)が「癌の原因」となる「116種類の要因」を公式に発表したようです。
 この「116の一覧」の中には、何と「抗がん剤」がいくつも入っています。
 「抗がん剤」は、それ自体が発癌性物質と言い切ってるように思えますね。
 WHOが正式に発表したとなると、なお一層、現実味を帯びて生々しく響いてきます。

 『癌患者の癌を癌患者に悟られないように増癌させ、癌がどうにもならなくなるように仕向け、
  こうしてズルズルと、無知な癌患者から高額医療費を請求しなければ、病院は黒字にならない。

 ということでしょう。

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 癌患者が「抗がん剤」をやった結果、癌が治らなくなってどうにもならなくなり、
 苦しもうが、泣き叫ぼうが、地獄を見ようが、病院はお金が入れば、それで OK です。

 それが証拠に、ほとんどのガン専門医は、この「抗がん剤の正体」をよく知っているため、
 自分や家族が癌になった時には「抗がん剤」などまず使用しません。

 『ガンの特効薬』であるはずの「抗がん剤」が、実は「ガンを増幅させて」います。
 つまり「抗がん剤」は「ガンを悪化させるために投与されている」のです。
 初期癌を末期癌に変えるために投与されているのです。
 ステージ1のガンを、ステージ4のガンに変えるために投与されているのです。

 「抗がん剤」は、最初から「ガン患者を殺す為に開発され、実際に大勢の人を殺してきた」のです。
 ガンを『恐怖の難病死病』とカン違いさせるために!
 その努力があって、日本人の多くはガンを『恐怖の難病死病』と信じ込んでいます。


 全員が全員、このような医者ではないでしょうが、病院も企業です。
 毎月、各学部長が集まり、会議があります。
 何の会議かと言うと、ドラマの様な症例報告でもなく、カンファレンスでもなく、
 「営業報告会議」、または「収支報告会議」です。

 『え~っ! 循環器科、○○ 円、先月に引き続き、○○○ の赤字‥、
  学部長、来月から、もっと検査入院・検査カテーテルを増やすように!

 と、事務長からお叱りとアドバイスを頂きます。

 そして、部下に伝達が渡り、
 来月から、必要なのか必要でないのか意味不明な患者様がぞくぞくと不安な顔で検査に参ります。
 心臓カテーテル検査がどんなものか想像できますか?

 まず、太ももの付け根から太ーいカテーテルを突き刺し、心臓まで管を通し検査するんですけど。
 文字にすると簡単に聞こえますね。
 けぇ~ど、足の付け根からふっとい注射をさされ、心臓をいじくりまわされるんです。
 それも、本当に病気なのか分からないのに。

 医者から「心臓の機能が問題あるかも」と言われたら、誰でも不安になりますよね。
 「先生、お願いします」になります。
 けど、私は「セカンド・オピニオン」をおススメします。
 そういう営業の医者は結構な、いや、大多数いると考えてもいいです。
 みな、本来、そういう医者ではないと思いますが、なんせ(病院・医療機関とは)強烈な縦社会の白い巨塔。

 風邪で受診しても、頼んでもないのに大量の薬。
 「これだけでいいです」と言うと(医者の)露骨な嫌な態度。
 いや、そんなのマシかもしれませんね。

 医者の言うことは話半分で聞き、「セカンド・オピニオン」をおススメします。
 まぁ、「セカンド・オピニオン」も同じ可能性もありますが‥。


 「抗がん剤治療」も、営業です。
 「最低、何クールするのですか?」、それだけ(その癌患者を)病院にとどめて置くことができます。
 長期になり、さらに(その癌患者の癌の)状態が悪化してくれたら、もっと高価な薬や治療もすることができます。
 一般の人は「ドラマみたい~」と思いましょうが、真実なんです。

 元看護師の独り言でした。


2015/12/12

エレーヌとの年末年始一景









          (パンの写真はルヴァンのHPより借用)



  駿河昌樹
 (Masaki SURUGA)


 1980年代、正月には無農薬の食材や無添加の食品を買うことにしている店が閉まってしまうので、エレーヌと私にとって、年末の買い出しはそれなりに忙しかった。
 私たちが夕食で食べるのは、山盛りのサラダ、ほとんど味なしの根菜類蒸し(ほとんど水を加えずに、密閉した鍋の中で野菜から出る水分だけで蒸すもの。食べる時はそこに塩や胡椒をかける)、白身魚やササミに簡単に熱を加えたもの、さらに、玄米や蕎麦粒、ハト麦、インディアンの食べるワイルド・ライスなどだったが、昼食や勤め先に持って行くランチとしては、全粒粉を使って焼いた重く固い角パン、パン・ド・カンパーニュ、ライ麦パンなどが多く、これらはたいてい、下北沢のナチュラルハウスで買っていた。たしか、ルヴァンという製パン所から入荷するものが中心だった。やはり下北沢にあった、サン・ジェルマンのパン・コンプレも定番だった。
 1980年代の正月頃は、商店街の店が3日も4日も休んでしまうのがふつうで、店が始まっても商品が揃わないことも多い。私たちが食べていた欧風のパンは、大量生産でないこともあって、年明け一週間ほどしても、まだ入荷しないこともあった。
 そのため、年末の30日や31日には、これらのパンをたくさん買い集めるのが大事になる。生産は29日頃で終わるので、30日頃にだいたいは手に入れ、31日には売れ残りを予備のために買い集めるという感じだった。
 なにぶん品数が少ないので、クリスマス前には予約を入れておく。だいたい、ふたりで一日250グラムから300グラムを食べる計算で、1500グラムぐらいの分量以上を買っておく必要があった。そうすると、当時一般的だった250グラムの塊を6袋は買っておく必要があり、これが、他の買い物と合わせるとなかなか嵩張った。下北沢で買い物をすると、池ノ上に住んでいた私たちは、買い物袋を提げて15分から20分ほどかけて歩いて帰って行ったものだが、年末の買い物でなくとも、レジ袋の取っ手が細く捩じれて掌に食い込むほど重い量を提げて帰っていくことは多かった。
 正月の食事も、私とエレーヌの場合、いつも通りでほとんど変わらなかった。一年を通じて、朝はフルーツ、ヨーグルト、コーヒー、全粒粉パン、ソビエトやオーストラリアやニュージーランドの蜂蜜、値段の高めの輸入ジャムなどだったが、正月も同じで、雑煮やおせちが加わることはなかった。
 エレーヌは確かに、豆腐や納豆などの日本食が大好きだったが、実際に自宅で食べる様式は、けっして日本式ではなかった。白米は嫌いではないが、家には一切なかったし、味噌汁は好きだったが、作らなかったし、そもそも味噌を買わなかった。焼魚は好きだったが、私が焼いてやらないかぎり自分では作らなかった。漬物は食べなかった。懐石料理も天ぷらも好まなかったし、日本風の洋食も好まなかったし、鰻は嫌いではなかったが、あの脂っこさが苦手で、半分も食べれば十分だったし、だいたい御飯のあの量には辟易していた。
 こんなふうにふり返ると、エレーヌの日本食好きは、じつは豆腐や納豆、少量の蕎麦、魚料理などに限られていたのがわかる。それらを、サラダや蒸し野菜、全粒粉のパンに合わせて食べるのを好んだのだから、全体としては日本食とは言えない、エレーヌ流の無国籍な食べ方になっていた。
 2000年以降、エレーヌが肉食やカレー、ファミレスの料理などを意外と好んでいた、と言う友人たちがいる。私は疑わしく思っている。というのも、そうした外食の後、エレーヌは私に、「たまに外食する時は悪いものも食べます」などと言っていたからで、あくまで相手に合わせてのことだったからだ。不機嫌な顔を惜しげもなく見せられる私のような相手と食べる時、エレーヌは食べるものの内容にうるさく、脂ぎったものや栄養価の低いものを極力避けようとした。いっしょに旅行する時にはこれがよく難儀の元となったし、都内でちょっと買い物に出たり、映画やコンサートの帰りなどに食べる際にも問題となり、どこのレストランに入るのも嫌がるので、私のほうが怒って、もういいから、食べないで帰ろう、などとなることもたびたびだった。ガン宣告をされる頃まで、これは変わらなかった。そのため、同じ時期に、他の友人たちと洋食ふうのレストランに平気で入っているエレーヌの話は、私にはほとんどフィクションのようにしか受けとめられなかった。
 とても際立った、はっきりした個性の持ち主であるエレーヌだったが、ずいぶんと自己を殺して相手に合わせる部分も大きく、食事ひとつにもこんな演技を続けていたということなのか、と思う。
 2000年に入ってから、別に住むことにしたエレーヌの家の寝室の奥に、ワインやビール缶などがたくさん貯め込まれるようになったのに気づき、エレーヌに理由を聞いたことがある。ワインにしてもビールにしても、エレーヌはせいぜいレストランで、その場の雰囲気上のつき合いで、ひとくち口をつける程度で、家でひとりで飲もうとまで思うようなことは一度もなかったからだ。家に来る友だちがビールやワインが好きなので、用意しておいている、その人たちの家に行く時には持って行く、とエレーヌは言っていた。
 そこまで、まわりの“お友だち”に合わせないといけないほど、日本社会の中でひとりきりになるのを恐れているのか、そんな必要はないのに、と私は思ったが、こういうのがエレーヌでもあった。

2015/12/06

人づきあいもガンの理由

     
末期ガン宣告の前の桜の頃。
いま見れば、存在の希薄化が感じられるような。


1999年、フランスのトゥール近くの田舎道で。
生涯、自転車はあまり乗れず、水泳もできないできた。
ここで自転車を教え、はじめて長く乗ることができた。

  
 駿河昌樹
  (Masaki SURUGA)
 

  生まれつき体の丈夫だったエレーヌがガンにかかった理由は、いくつか考えられる。
 なにより、健康への本人の過信。
 そこから来る過労。
 睡眠不足。
 低めの体温。
 体内でひそかに進行していた卵巣の異常。
 すぐに寝つけなくなるような神経質さと過敏さ。
 怒りやすさ。
 他人は気づきづらかったが、けっこう恨みがちで、内に溜め込む性質。
 人づきあい。
 そうして、意外かもしれないが、次々と終わりのない猫たちの世話。

 これらについては、以前からメモしておきたいと思ってきたが、時間がないので書けないでいる。
 それでも、少しずつ書いてみておこう。

 「人づきあい」については、意外に思われるかもしれない。
それが原因?、と。
 しかし、心身の深い休息のためには、すっかりひとりになる時間を十分持つことが大事だというのは、最近の研究で明らかになった。
 気の合う人としゃべりながら寛ぐのでは、いけない。どんなに仲のよい人が相手であっても、神経は刺激を受けたままになる。完全にひとりになって、対人的な刺激をすべてシャットアウトしなければいけない。そういう時間を、毎日、十分にとらなければならない。毎日が無理でも、週の中で見つけてとらなければいけない。
 エレーヌは、フランス語を教える仕事の場では、たくさんの人たちに会い続けていた。それ自体は問題ない。仕事なので、あたり前のことでもある。オフタイムに、ひとりになる時間を十分にとれさえすれば、かまわない。
 ところが、帰宅後や休日、エレーヌはひとりになる時間が少な過ぎた。
 エレーヌが帰宅すると、なにが起こったか。
フランスや日本の友人たちから電話がひっきりなしにかかってきた。夜には、近所の猫仲間との交流もあった。近所の猫たちにエサをやってまわったり、病気の猫たちを病院に連れて行ったりした。
事務的な電話は短いから、べつにかまわない。しかし、エレーヌには、人生相談の電話のかかってくることが多かった。彼女は精度の高い占い能力を持っていたので、それを知っている友人たちがいろいろな人生上の問題をもちかけてきた。ついでに話をすれば、ひとり相手の電話はすぐに30分を超過する。ひとりが終わると、次がかかってくる。また30分、40分と経つ。電話が終わると、猫の世話に外出したり、帰宅すると、2時や3時頃まで、頼まれた問題の占いに時間を割く。それでいて、朝から仕事に出ないといけないことが多かったので、7時頃には起き出る。そうして、ヨガをやる…
結局、毎日の睡眠時間は3、4時間というのがふつうだった。
なんとなく、かかってくる電話や人づきあいを受け入れ過ぎてしまう。エレーヌにはそんなところがあった。これ以上は無理、と拒否することができない性質だった。
ガンで衰弱して、病院で寝たきりになった時でさえ、フランスの友人や家族から電話が携帯電話にかかり、誰もがエレーヌの心配をして、病状を聞きながらも、30分ぐらいは平気でしゃべり続ける。私がそれを阻止して、病状は私のほうに聞いてきてくれ、と壁を作った時には紛糾した。結局、友人や家族たちはエレーヌにじかにかけ続け、エレーヌを衰弱させ続けた。「電話をかけてくること自体が、私を弱らせるのに、誰もそれがわかっていない」とエレーヌは私に言うのだったが、ならば出なければいいのに、と助言しても、電話に出てしまうエレーヌがいた。

こと、フランス人の友人については、エレーヌは恵まれなかった。フランスにも日本にも、ろくな友人がいなかった。
忙しい日々を送っている彼女に、夜な夜な電話をかけてきて、体力も時間も費やす占いを頼むような友人が、よい友人だろうか。
大病で憔悴している時に、長々と電話をしてくる友人や血縁が、はたしてよき人々だろうか。
こういう点で、どうしようもない友人や血縁にエレーヌは取り囲まれていた。頼られるのを好んでしまうところが、エレーヌにはあったのも事実だろう。いつわりの友情やつながりを、いまひとつ見抜けなかった。エレーヌの弱さが、ここにあった。

日本人のエレーヌの友人たちにも、言いたいことはいっぱいある。
私は、五年間、それをわざと言わないできた。
そろそろ言い始めようと思う。
月曜日から休みなしに金曜日まで働きづめのエレーヌには、完全にひとりになる時間が、誰からも連絡も来ない時間が、もっともっと必要だった。私はそれをわかっていたので、エレーヌから電話がこなければ放ったらかしておくことが多かった。このブログにも時々書いたが、1983年以降、日本でのエレーヌという人間の演出は、私がすべて行ってきた。演出家が俳優を放ったらかしておくのも、本当にそれが、空白を持つことが必要だとわかっていたからだ。
猫に全く関わらない時間を、ちゃんと確保してもらいたかった。
帰宅してからは、夜、就寝までひとりで、なにもしゃべらずに暮らしてほしかった。
土曜日にヨガを教えに遠出などしないでほしかった。
これが私の本音で、エレーヌが元気な頃から、時々、本人に言ってきていたことだった。
世田谷から神奈川までヨガをやりに行くのが、一週間働きづめの体にとって、どれほど負担になるか。もちろん、エレーヌ自身が理性的に判断すべきことだったが、残念なことには、彼女はそういう点で理性的ではなかった。

猫にかまけたり、遠出してヨガを教えたりするのもいいが、その前に心身を十分休める時間を取ってほしい。
ずっとエレーヌにこう勧めてきたが、彼女は体の耐久度を甘く見ていた。
猫の世話をもっと減らすように勧める私を、心ない冷たい人間だと言うこともあった。猫たちの世話をやめたら、野良猫たちはどうするのか?とエレーヌはよく私を批判した。
「でも、いずれ歳を取ったり、病気になったりして、あなたは、月に何万円も費やすような猫の世話を続けられなくなる。その時、猫たちはどうするの?今のあなたの生活のしかたでは、そういう時が来る可能性がある。未来のその時点での猫たちは、どうするの?今、あなたがもっと世話を縮小して、あなた自身が健康を維持して、少しずつ世話をしていくのだって、悪くないじゃないの?」
 私のこんな反論には、エレーヌはもちろんうまく答えられなかった。
ヨガについては、それをやらない私には理解できない、と言い張った。
とんでもない。80年代、ふたりの住まいをアシュラムのようにして、毎日エレーヌとヨガをやり続けた私が、理解できないはずはない。ヨガもけっこう。でも、たったひとりで、誰もいないところでやったらいいだろう。ヨガはそういう時こそ、本当に聖性を帯びてくる。
私は、エレーヌが続けていたような西海岸ふうの精神世界の流儀を離れて、菜食主義を捨て、ヨガを捨て、ヒッピーふうの共同生活志向を捨て、「なにを飲み、なにを食おうと、思い煩うな」というイエスの教えに、むしろ徹底して素直に従って、全く別の修行に入っていたに過ぎない。繁華な都市のさなかを歩いていても、うるさい工事現場にいても、さまざまな邪念の渦巻く歓楽街にいても、なんの損害も受けない魂にならなければいけない。静かな清浄なところでのみ何者かでありうるような、脆弱な過敏症行者では意味がないのだ。
2000年以降、エレーヌには、ヨガよりもむしろ、歳をとるにつれていっそう必要になる筋肉をつけるトレーニングを勧め、それによって体を温めるのを勧めたが、エレーヌはまじめに受けとらず、やらなかった。ヨガに打ち込んで菜食になった人たちは、まず長生きしない。生物としての人体の条件や本質をもう一度見直すように、というのが私の勧めだった。『バガバッド・ギータ』で、戦争で人を殺すことなど恐れるな、とアルジュナに説いたクリシュナ神のような思いがあった。もちろん、なにをしようと、どう生きようと、どのくらい生き長らえようと、すべては悦ばしき空無にすぎないという前提で、生などはじめから終りまで冗談にすぎないと見越した上でだったが。