2015/10/06

2010年の9月・10月の頃、ふたたび。




 
 
   駿河 昌樹
  (Masaki SURUGA)



 これは、2010年9月17日のエレーヌ。
 来客があって、楽しそうにしている。痩せているが、まなざしも生き生きして、元気そうに見える。

 8月30日に退院してからは、家で療養に励んでいた。
 彼女の回復を願う私や友人たちは、とにかく、ビタミンとタンパク質をしっかりとり続け、筋肉をつけるように、近所の散歩も含めた適切な運動を少しずつ行い、ムリにならない程度に家事も行って、後は休息をとるように勧めていた。
 体力がどうしても落ちているので、しかたないとは言え、実際にはエレーヌは、良質の食事をとる努力はあまりしていなかった。ビタミンCを少しでも多く摂るように、と思ってはいても、胃の不快感があり、あまり食べる気にはならなかったらしい。9月8日(水)の私の手帳には、エレーヌと電話した後の記録がこう記されている。「胃の調子よくない。昨日、嘔吐。夜、胸やけ。家のまわりを歩いている。腹を温め、足湯をするように勧める…」。
 前年の手術で、卵巣と子宮を切除し、ガンが広がっていた腹内の脂肪の大網も切除していたが、エレーヌから胃の不調を聞くたび、胃腸へのガン転移が起こっていないかと心配になった。病院での治療中に逆流性の胃炎が起こっていたので、そこから来た不快感かとも思われたが、いずれにしても、本人としては、あまり積極的に食べる気になれないような感覚が胃には起こっていた。
 この時期、私個人としては、仮にガンの転移や増殖があったとしても、それを根絶するのを考えずに、共生していくような方向を採るしかないと考えており、医療センターの医師も、エレーヌの体力を考えればその方向で行くしかないとの見解だったように思う。
 そうなると、少しでも栄養をつけてもらわねばならないのだが、胃の不快感がこの点で妨げとなってしまっていた。
 ガンが低体温を好むというのはよく知られてきているが、エレーヌはもともと体温が低いたちなので、体温が少しでも上がるよう、筋肉ももっとつけてもらいたかったが、この方向でも、思うようには進んでいかなかった。

 2010年9月や10月は、さまざまなことが、忙しく、慌ただしく錯綜していて、なかなか簡単に記すことができない。エレーヌのガン治療と療養をよりよいものにするために、医療機関を替えるのを予定していたし、そのための引っ越し計画も進めていた。エレーヌ本人はもちろん病身で大変だったが、事務的な統括はすべて私が行っていたし、引っ越し先によさそうな物件を調べてはいちいち不動産やURと折り合いをつけて下見に行くのも私で、毎週、エレーヌの家に見舞いに行く他は、物件めぐりに費やしていた。自分の仕事もその準備もあいかわらず忙しかったので、毎日、3,4時間も眠れればいいほうだった。
 エレーヌの家に行く時でも行かない時でも、日々の生活の全時間が、いわばエレーヌによって占められていたわけだが、エレーヌのほうは実際は、あまり私に対しては協力的ではなかった。エレーヌの家に行けない時には、彼女の体調を電話やメールで知りたかったのだが、こちらから電話して聞かないかぎり、全く情報を上げて来てくれない。状態が大丈夫なら、大丈夫だということを簡単に伝えてほしい、と何度となくくり返しても、たった数行のメールさえ来ない。食事でなにが摂取できているのか、できていなのか、そんなこともこちらとしては常に頭の中で把握しておきたいのだが、こちらが家に行ったり、電話したりしないかぎりは、ほぼ、全くといって知りえない。エレーヌの家に見舞っている友人たちからさえ、なにも情報は入ってこなかった。
 体や意識全般が、なにかと自分の思い通りにならなくなっていく病気のせいもあろうが、見舞いや介護にエレーヌの家に行っていっしょに居る時も、いろいろと齟齬が生じたり、私をないがしろにしたりする態度が募った。あまり会わない他の人たちには、ずいぶん楽しそうに話したり、会ったりするにもかかわらず、いちばん世話をしている私には、ぶっきらぼうになったり、失礼だったりすることがあった。これは、私だけに対してではなく、同じように身近に接する機会の多い友人たちに対しても見られた。重病人が示す態度のひとつなのかもしれないが、これは、いちばん疲れる世話をし続けている者たちにとって、心の底が崩れ落ちていくような落胆を齎す現象といえる。
 しかも、エレーヌのことで一切動こうともしないフランスの親族の態度には、表向き冷静に対処しつつも、さすがに腹に据えかねるものが募った。私はまだいいとしても、母や妻の苛立ちは大変なもので、母は、自分の息子を過酷な隷属状態に落し込んだエレーヌを呪わんばかりだった。それに対して、私が、とにかく大病の緊急事態だから、と抗弁すると電話口では必ず喧嘩になり、2010年の夏以降、エレーヌが死ぬまでは、私と母は絶交状態になった。妻も妻で、2009年以来、家庭の普通の暮らしが一切失われた原因となったエレーヌの存在になんとか耐えていたが、それでも、私がエレーヌの見舞いから24時を過ぎて帰宅したりするのをくり返すのを見ると、こんな状態で私の身が持つのかという話に当然なっていく。それを私が黙らせたり、激しい返答をしないように黙ったりすると、さすがに、こちらはこちらで家庭が崩壊していく寸前の雰囲気になっていっていた。
 今だから記しておくが、こんなふうにともに耐えてきていた妻に、彼女のせいでエレーヌが病気になったのではないか…といった内容の話をした人たちもいた。

 手帳の10月11日のページには、「エレーヌにも、人にも、そう見えずとも、理解されずとも、そのつど効果的に迅速に的確にエレーヌを救う算段を、裏で続けていく態度でいよう。まるで影の救済者のように」と、自分の心境を吐露したメモ書きがある。
 前日の10日には、北区への引っ越しを頼んだ引っ越し屋が見積もりに来る用事があったので、エレーヌの家に長く居たが、その際によほどがっかりさせられることがあって、翌日にこんなメモを書きつけたのだろう。よく覚えているが、このメモをした時、私は心の中で、もうエレーヌの心から離れようとしていた。心の中では離れつつ、身体的・社会的な世話だけをしていこうと思ったのだった。
 今になってふり返ると、自分のことというより、ドラマの登場人物のひとりを客観的に眺めるように見直せる。わがままに、理不尽になっていく病人に、よく耐えたものだと思いさえする。
 そういう私の決意に呼応するように、次の日の12日には、エレーヌは急速に体の硬直や浮腫みの再発に陥る。歩行も起き上がりも困難になり出し、13日には介護ベッドが運び込まれることになる。19日(火)には、妻が駒沢の医療センターの医師に電話して緊急入院を頼み込み、20日(水)、仕事で身動きが取れない私にかわって、やはり妻が、わざわざ朝にエレーヌの家まで出向いて、エレーヌの友人の慶子さんや動物病院のアイリスさんとともに、駒沢の医療センターに連れていくことになる。私もその日の夕方、勤め先から病院に向かい、エレーヌの様子を見たが、ひとりでベッドから起きる力はもう無く、ベッドの上で位置を変える力もなく、トイレに連れて行って排便させたり、歯磨きをさせたりした。
 それから31日の死までは、エレーヌは一直線の衰弱過程をたどって行くことになった。

 エレーヌが最後の入院をしたこの20日、私は天界にいるような夢をはっきり見た。天使たちが太鼓のようなものをいっぱい並べて、そこで忙しく立ち働き、お互いに仕事を分担しあっている夢がひとつ。もうひとつは、大きな病院の上から、下の庭を眺めている夢で、病院の広大な庭には、見知った医師たちや私の友人の医師などが楽しそうにしているのが見えた。そこに私も下りて行って、合流しようかな、と思ったところで、目が覚めた。

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