2015/10/31

エレーヌ、5年目の命日

 駿河 昌樹
  (Masaki SURUGA)


 2010年10月31日日曜日、ハローウィンの日、午前7時10分、駒沢公園脇にある入院先の東京医療センターで、エレーヌ・セシル・グルナックは68歳で亡くなった。
 暦の情報めいたことを記しておけば、小潮、月齢23.3、友引、旧9月24日だった。

 ずいぶん時間も経ったので、エレーヌの最期の遺像を目にしても、人びとも、はるかに落ち着いた感情で接してくれるようになっているだろう、と推測する。期間を限定して、亡くなった当日に病院で撮った写真の一部を特別に掲載する。
 一枚はピントがずれて、エレーヌがぼけてしまっているが、今になってみると、このぼけ方も、却って、よかったようにも思える。


2010年10月31日、東京医療センターで。

2010年10月31日、東京医療センターで。

  

 今日で5年になる。
 生きていれば73歳ほどで、仕事面では大学を退職しているはずだから、カルチャーセンターの授業だけをいくつか続けていたかもしれない。あるいは、仕事はすべて辞めて、好みの文学や古今の神秘主義の書籍の読書やヨガや執筆などだけに集中していたかもしれないし、フランスに帰国していたかもしれない。いずれにしても、エレーヌがやることは読書とヨガを中心としたものになったはずで、どこに身をおいても基本的には変わらなかっただろう。
 どの場合も、ガン治療を通過した後の、療養を続けながらの生活となっていたはずで、体調によって左右されるものになっていたのは疑いない。

5年前の今日、午前6時過ぎに病院からの電話を受けた私は、北区の住まいからタクシーで目黒の医療センターまで乗りつけたが、7時40分に着いたため、臨終には間に合わなかった。
 こうした遅れには事情がある。エレーヌの容態はすでに午前3時半頃から異状となっていて、当直の若い医師が私の携帯電話にくり返し掛け続けていたらしいが、私は携帯電話を書斎に置いて寝るので、呼び出し音は離れた寝室までは聞こえなかった。もちろん、病院には私の家の固定電話の番号も携帯電話の番号も正式に知らせてあり、家の電話に掛けてくれればすぐに起きたのだが、当直の若い医師は、なぜか携帯電話にだけ掛け続けた。私が、個人的に看護師のひとりに伝えておいた携帯電話の番号にばかり掛け続けたものらしい。当日、妻が重要な香席を控えていて、はやく起きて準備をする必要があったため、私も6時前に起きた。そこへ鳴った携帯電話で、はじめて事態が知れたのである。気のきかないこの若い医師の落ち度は、場合によっては訴訟に持って行けるほどのものだが、その時は落ち着いて考え直す暇もなかったし、後では、これもエレーヌと私の間の運命かと思い、大ごとにしないで済ました。かといって、忘れるというわけもない。
 じつは、この若い医師は、少し前からエレーヌを担当するようになっていたのだが、エレーヌは私に、この医師はどうもよくない気がする、ダメだ、と語っていた。彼がなにかミスをしたわけでもないので、大丈夫だよ、と私はエレーヌに言ったのだが、なるほど、最後という最後に、決定的なミスをやらかしてくれたわけだった。こういう最期になることを、エレーヌは早くから感知していたのかもしれない。

 病院に着いた時からすぐに、まずは、エレーヌの療養や世話に関わった人たちに知らせることからいろいろと始まって、忙しい朝となった。葬儀の手配だけでなく、死亡に関わる手続きのため、日が暮れるまで忙殺された。
エレーヌはたまたま、よりよい療養にむけての新しい生活を始めるために29日に北区へ引っ越しを完了していたので(手配や実際の段取りは私が行った)、すでに世田谷区に転出届を出していた。しかし、北区にはまだ転入届を出していなかった。しかも、亡くなった医療センターは目黒区だったので、死亡届の手続きをどの区役所で行い、埋葬及び火葬許可書を発行してもらうか(これがないと火葬はできない上、当日中に葬儀会社に郵送する必要があった)で紛糾した。世田谷区役所はこの点を不明とし、北区か目黒区へ行け、と拒否した。北区区役所は、まだ住民票を移していないので管轄外と言い、結局、目黒区役所から法務省に問い合わせてもらって、やりとりを数回繰り返した揚句に、ようやく目黒区役所で手続きを完了した。こういうケースは世田谷区役所、目黒区役所、法務省の公務員たちも初めてだったとのことで、そのため、措置を決定するのに時間がかかった。事務手続きが完了した時には、目黒区役所の営業時間は終わっていて、所内の明かりは大かた消され、所々に灯された明かりが廊下に水のように落ちていた。すっかり日も暮れて、区役所を出ると、夜の帰宅時間頃の目黒の喧騒が始まっていた。
疲労困憊し、夜の目黒から車で帰宅の途に就きながら、ずいぶん皮肉なものだと思った。事務手続きを異常なほど嫌悪し、大の苦手でもあったエレーヌが、死去にあたって、生き残っている私にこれほどまでの面倒を残していった…と思い、これがもし逆の立場だったら、エレーヌはなにひとつ事務手続きをやり遂げることなどできなかっただろう、と考えた。こう書くと、私が不愉快に思っていたという印象を与えかねないが、不愉快に感じている暇もない一日だった。

午前中に世田谷区役所に赴いたり、銀行に寄って費用を引き出したりする際には、豪徳寺のアイリス動物病院の院長の“アイリス”先生こと斎藤都さんの車に乗せてもらい、ずいぶんお世話になった。こういう咄嗟の場合、銀行ひとつに寄るのも容易ではない。自分たちの使っている銀行が近所にはなかったりするし、繁華街の銀行に行こうとすれば、交通上の小さな問題が重なっていたりする。
午後からは妻の母が、その日の用事をぜんぶ投げ出して車で駆けつけてくれて、都内をあちらこちら回るという面倒な運転を引き受けてくれた。
「あなたの死に際して、いろいろな人たちがこんなに動いてくれている…」と、都内の風景の中を廻る車の中で、内心でエレーヌに呼びかけた。人の生き死には、記録されることさえないたくさんの出来事の積み重ねや事象の連鎖によってのみ、物理的には成り立っている。どんなに小さなことであれ、どれかひとつでも欠ければ、事態はもちろん、そのようなかたちにはならない。物理的なそれらの出来事のひとつひとつは、そのまま行為者である人びとの心であり、思いや感情にじかに繋がっている。エレーヌの死に際して、すべてを記録することはできなくても、関係してくるすべての人びとの内心や背景にまで可能な限り入り込むようにして、少しでも多くのことを私が見聞きし、私が記憶し続けていくことはできるだろう、と思った。死んでしまったエレーヌの葬儀や死後にまつわるすべてのことは、いわば、エレーヌの身体と見なせるので、今はそれらを洩らさず見続けて行こう、と思っていた。

夜も遅くなって帰宅した後、埋葬及び火葬許可証と葬儀用の写真を速達で送るために、自転車で郵便局の本局まで妻と出かけた。
 その後、家から10分ほどのところにあるエレーヌの新居にひとりで赴いた。将来の療養と、エレーヌのための効果的な世話を考えて、10月29日に引っ越しをしておいた11階の住居だった。
まだ十分に荷を解いてもいない状態で、段ボール箱がいっぱい積まれ、エレーヌが持ち続けてきたもの、集めてきたものだけで埋っている。
不思議な空間だった。私にすべてが任せられていたので、エレーヌ自身は一度も来たことがなく、しかも、エレーヌの物だけで満たされ、主をその日に失ってしまった空間。
エレーヌが30年以上使い続けてきたテーブルや椅子を台所に置いていたので、そこに就いて、カーテンを開けた窓から、エレーヌが見るはずだった夜景を眺めた。エレーヌがすべきだったことを、今は代わりに、私が私の身体を使ってするしかないのが痛感された。
事実、この時から約10か月、この部屋でのエレーヌの遺品整理が続くことになった。遺品を見に来たり、受け取りに来たりする人たちが時どきはあったものの、仕分けや整理や処分は、私ひとりで行い続けた。この作業は“エレーヌの思い出に浸りながら…”などと形容できるほど楽なものでもセンチメンタルなものでもなく、忙しい生活の合間の時間を見つけて、主に土日や祝日、平日なら深夜に行われ続けた。大きな段ボールに物を詰めたり、詰め直したり、それを積み重ねたり、移動させて整理の作業場となる小さな広がりを新たに拵えたり、それが済むとまた作業場を別のところに拵えたりの連続だった。中腰になって、爪先立ちの姿勢で行うことが多かったため、数か月後には、両足の親指の爪裏に血が鬱血し、黒くなってしまっていた。
遺品には細かいものもいっぱいあった。数えきれないメモや書類、書簡、未使用の絵葉書、テキスト、小物などを、座ってコツコツと分類して数時間もすると、疲れ切って、よく足腰が立たなくなった。時どき、水ぐらいは飲まなければ、と思うものの、思いは整理のほうに集中しているので、心身ともに、そんなちょっとした切りかえさえ容易にはできなくなってしまう。多量の本の整理の場合も、大きさで揃えたり、内容で揃え直したりを試行錯誤しながら繰り返すうち、頭がなにも考えられなくなっていく。ある程度の整理が終わると、掃除機を持ってきて小さなゴミを取り、また次の作業にかかる。こんなことが延々と続いた。しかも、自分自身の生活のほうでは、期限のある厄介な仕事をいくつも抱えている上、家事もあって、エレーヌの遺品の整理で疲れ切って帰っても、すぐに寝ることなどできなかった。

私は、今でもこの時期を“静かなひとりだけの地獄の10か月”と呼んでいるが、亡くなったエレーヌの思い出に悠長に耽っていられる彼女の友人たちとは、ここを境に、まったく別の心境に入っていったのを認識している。誰ひとり手助けにも来ないエレーヌのフランスの親族への憎悪は言い表せないほどだったし、のんびりとエレーヌ喪失の悲しみに浸っているだけのお友だちたちへの不快感も、言語を絶していた。エレーヌへの私自身の哀惜の思いも、もちろん強かった。そうした様々な感情や思念を内部にすべて抱えて、しかも圧し隠しながら、遺品の現実的な肉体労働に貴重な時間を浪費していくのは、苦役以外の何物でもなかった。エレーヌの大病や死の衝撃はもちろん大きかったが、その後に私個人を襲った時間的・肉体的な損害にもきわめて大きなものがあった。

2011年に入ると、エレーヌの遺品整理に纏わる心労や過労はいっそう耐えがたくなり、街を歩いていたり、どこに行ったりしても、普通の生活を営んでいるかに見える世間の人々が不愉快に映ってしかたがなかった。私は時に、なにか世の中がひっくり返るような大事件が起こってしまえばいいのに、と強く念じるようにもなった。いくらエレーヌのこととはいえ、ここまで、こんな非生産的な下らない物品整理や様々な手続きなどで、どうして長々と煩わされねばならないのか、どうして自分自身の生を奪われ続けなければならないのか(事実、フランスの友人たちは、エレーヌのことは残念だったが、しかしもう忘れて、「あなた自身の人生に戻るべきだ」と助言してきていた。これがフランス人流なのか、と再発見させられたものだった…)、そんなふうに、どうしても思いは募ってしまった。私は、そんな自分の心境を観察しながら、こんなふうに、予想もしなかったきっかけから、人の心というものは怨霊のようになっていくのか、こういうこともあるというわけか、と心の推移を追い続けていた。
東日本大震災が起こったのは、そんな時だった。ちょうど確定申告の時期で、自分の申告だけでなく、亡くなったエレーヌの面倒な申告書も、一週間ほどかけて神経を擦り切らしながら作成し、ようやく終わって午前中に提出を終えた、その午後のことだった。
あのような大災害に際して抱く感慨としては不謹慎なものながら、しかし、私は、あゝ、ちゃんと運命の均衡は取られるものなのだ、不幸なのは私だけではない、不幸が他の人たちにも、少しは平等に分かち与えられたのだ…と、一気に心が晴れるような気持ちになった。あの大災害の起こった夕方からその後の期間、私は、自分ひとりが…という苦痛から解放されて、急速に晴れ晴れとした心持ちになっていった。津波被害や地震被害の後のさまざまな光景が、私が毎日ひとりで時間を費やしているエレーヌの新居の中の混乱ぶりや一種の廃墟ぶりと重なって、東北にも、私と気持ちを分かち合える人びとがたくさん出現した、と感じた。

こう記したところで、私に起こったことのほんの一端を記すにすぎない。私にとって確かなのは、5年前の今日、エレーヌのことに深く関係しながらも、誰ひとり分かち合える者のいない、私ひとりだけの孤独な物語が始まった、ということだった。
エレーヌに関わる厖大な塵労のこの個人的な物語は、じつはまだまだ幕を閉じていない。今日もこれから支払いに赴くが、エレーヌの残した多量の書籍や遺品がまだ数十箱分あり、トランクルームに保管されている。5年間を経ても、月々の出費は続いており、すべてを処分してしまえば済むには違いないものの、そのためには一品ずつ判断を下さねばならず、希少価値のあるものも多量に含まれている以上、手放すにしても然るべき人や業者の手に渡るように配慮したくもある。しかしながら、ゆっくりそうした作業のできる時間は私には全くなく、ある意味、仕方なしに保管だけが続けられている。
エレーヌのすべてはとうに終わってしまっている、とも言えるかもしれないが、少なくとも私にとっては、まだまだなにも終わっていない、とも言える。


今日は、こんな5年目の、エレーヌの命日である。



2015/10/06

2010年の9月・10月の頃、ふたたび。




 
 
   駿河 昌樹
  (Masaki SURUGA)



 これは、2010年9月17日のエレーヌ。
 来客があって、楽しそうにしている。痩せているが、まなざしも生き生きして、元気そうに見える。

 8月30日に退院してからは、家で療養に励んでいた。
 彼女の回復を願う私や友人たちは、とにかく、ビタミンとタンパク質をしっかりとり続け、筋肉をつけるように、近所の散歩も含めた適切な運動を少しずつ行い、ムリにならない程度に家事も行って、後は休息をとるように勧めていた。
 体力がどうしても落ちているので、しかたないとは言え、実際にはエレーヌは、良質の食事をとる努力はあまりしていなかった。ビタミンCを少しでも多く摂るように、と思ってはいても、胃の不快感があり、あまり食べる気にはならなかったらしい。9月8日(水)の私の手帳には、エレーヌと電話した後の記録がこう記されている。「胃の調子よくない。昨日、嘔吐。夜、胸やけ。家のまわりを歩いている。腹を温め、足湯をするように勧める…」。
 前年の手術で、卵巣と子宮を切除し、ガンが広がっていた腹内の脂肪の大網も切除していたが、エレーヌから胃の不調を聞くたび、胃腸へのガン転移が起こっていないかと心配になった。病院での治療中に逆流性の胃炎が起こっていたので、そこから来た不快感かとも思われたが、いずれにしても、本人としては、あまり積極的に食べる気になれないような感覚が胃には起こっていた。
 この時期、私個人としては、仮にガンの転移や増殖があったとしても、それを根絶するのを考えずに、共生していくような方向を採るしかないと考えており、医療センターの医師も、エレーヌの体力を考えればその方向で行くしかないとの見解だったように思う。
 そうなると、少しでも栄養をつけてもらわねばならないのだが、胃の不快感がこの点で妨げとなってしまっていた。
 ガンが低体温を好むというのはよく知られてきているが、エレーヌはもともと体温が低いたちなので、体温が少しでも上がるよう、筋肉ももっとつけてもらいたかったが、この方向でも、思うようには進んでいかなかった。

 2010年9月や10月は、さまざまなことが、忙しく、慌ただしく錯綜していて、なかなか簡単に記すことができない。エレーヌのガン治療と療養をよりよいものにするために、医療機関を替えるのを予定していたし、そのための引っ越し計画も進めていた。エレーヌ本人はもちろん病身で大変だったが、事務的な統括はすべて私が行っていたし、引っ越し先によさそうな物件を調べてはいちいち不動産やURと折り合いをつけて下見に行くのも私で、毎週、エレーヌの家に見舞いに行く他は、物件めぐりに費やしていた。自分の仕事もその準備もあいかわらず忙しかったので、毎日、3,4時間も眠れればいいほうだった。
 エレーヌの家に行く時でも行かない時でも、日々の生活の全時間が、いわばエレーヌによって占められていたわけだが、エレーヌのほうは実際は、あまり私に対しては協力的ではなかった。エレーヌの家に行けない時には、彼女の体調を電話やメールで知りたかったのだが、こちらから電話して聞かないかぎり、全く情報を上げて来てくれない。状態が大丈夫なら、大丈夫だということを簡単に伝えてほしい、と何度となくくり返しても、たった数行のメールさえ来ない。食事でなにが摂取できているのか、できていなのか、そんなこともこちらとしては常に頭の中で把握しておきたいのだが、こちらが家に行ったり、電話したりしないかぎりは、ほぼ、全くといって知りえない。エレーヌの家に見舞っている友人たちからさえ、なにも情報は入ってこなかった。
 体や意識全般が、なにかと自分の思い通りにならなくなっていく病気のせいもあろうが、見舞いや介護にエレーヌの家に行っていっしょに居る時も、いろいろと齟齬が生じたり、私をないがしろにしたりする態度が募った。あまり会わない他の人たちには、ずいぶん楽しそうに話したり、会ったりするにもかかわらず、いちばん世話をしている私には、ぶっきらぼうになったり、失礼だったりすることがあった。これは、私だけに対してではなく、同じように身近に接する機会の多い友人たちに対しても見られた。重病人が示す態度のひとつなのかもしれないが、これは、いちばん疲れる世話をし続けている者たちにとって、心の底が崩れ落ちていくような落胆を齎す現象といえる。
 しかも、エレーヌのことで一切動こうともしないフランスの親族の態度には、表向き冷静に対処しつつも、さすがに腹に据えかねるものが募った。私はまだいいとしても、母や妻の苛立ちは大変なもので、母は、自分の息子を過酷な隷属状態に落し込んだエレーヌを呪わんばかりだった。それに対して、私が、とにかく大病の緊急事態だから、と抗弁すると電話口では必ず喧嘩になり、2010年の夏以降、エレーヌが死ぬまでは、私と母は絶交状態になった。妻も妻で、2009年以来、家庭の普通の暮らしが一切失われた原因となったエレーヌの存在になんとか耐えていたが、それでも、私がエレーヌの見舞いから24時を過ぎて帰宅したりするのをくり返すのを見ると、こんな状態で私の身が持つのかという話に当然なっていく。それを私が黙らせたり、激しい返答をしないように黙ったりすると、さすがに、こちらはこちらで家庭が崩壊していく寸前の雰囲気になっていっていた。
 今だから記しておくが、こんなふうにともに耐えてきていた妻に、彼女のせいでエレーヌが病気になったのではないか…といった内容の話をした人たちもいた。

 手帳の10月11日のページには、「エレーヌにも、人にも、そう見えずとも、理解されずとも、そのつど効果的に迅速に的確にエレーヌを救う算段を、裏で続けていく態度でいよう。まるで影の救済者のように」と、自分の心境を吐露したメモ書きがある。
 前日の10日には、北区への引っ越しを頼んだ引っ越し屋が見積もりに来る用事があったので、エレーヌの家に長く居たが、その際によほどがっかりさせられることがあって、翌日にこんなメモを書きつけたのだろう。よく覚えているが、このメモをした時、私は心の中で、もうエレーヌの心から離れようとしていた。心の中では離れつつ、身体的・社会的な世話だけをしていこうと思ったのだった。
 今になってふり返ると、自分のことというより、ドラマの登場人物のひとりを客観的に眺めるように見直せる。わがままに、理不尽になっていく病人に、よく耐えたものだと思いさえする。
 そういう私の決意に呼応するように、次の日の12日には、エレーヌは急速に体の硬直や浮腫みの再発に陥る。歩行も起き上がりも困難になり出し、13日には介護ベッドが運び込まれることになる。19日(火)には、妻が駒沢の医療センターの医師に電話して緊急入院を頼み込み、20日(水)、仕事で身動きが取れない私にかわって、やはり妻が、わざわざ朝にエレーヌの家まで出向いて、エレーヌの友人の慶子さんや動物病院のアイリスさんとともに、駒沢の医療センターに連れていくことになる。私もその日の夕方、勤め先から病院に向かい、エレーヌの様子を見たが、ひとりでベッドから起きる力はもう無く、ベッドの上で位置を変える力もなく、トイレに連れて行って排便させたり、歯磨きをさせたりした。
 それから31日の死までは、エレーヌは一直線の衰弱過程をたどって行くことになった。

 エレーヌが最後の入院をしたこの20日、私は天界にいるような夢をはっきり見た。天使たちが太鼓のようなものをいっぱい並べて、そこで忙しく立ち働き、お互いに仕事を分担しあっている夢がひとつ。もうひとつは、大きな病院の上から、下の庭を眺めている夢で、病院の広大な庭には、見知った医師たちや私の友人の医師などが楽しそうにしているのが見えた。そこに私も下りて行って、合流しようかな、と思ったところで、目が覚めた。