2015/08/15

マリア像の移動の思い出





  駿河昌樹
  (Masaki SURUGA)


 このマリア像は、エレーヌとルルドLourdes*を訪れた時に買った、ごくありふれた安い土産物で、ふだんは私の家に安置して、毎日、感謝礼拝をしている。
  *https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%AB%E3%83%89

 このマリア像にはふしぎな逸話がある。

 2010年夏、エレーヌの衰弱が激しくなった頃、回復を祈って、このマリア像を病室に持って行ったことがあった。
 マリア好きのエレーヌが気持ちを集中する一助になるようにと、ベッド脇の棚に置いてきた。

 ところが、しばらくして、このマリア像は忽然と姿を消してしまうことになる。病室は、着替えや書類などでなにかとごたごたするもので、しかもエレーヌは、お世辞にも整理上手とは言えない。たぶん、バッグのどこかか、紙袋のどこかにでもまぎれ込んでしまったのだろうと思い、病室内のすべてを探してみたが、いっこうに見つからない。
 エレーヌに聞いても、自分はまったく触っていない、どこにもしまった覚えはない、ということで、所在がすっかりわからなくなってしまった。

 数週間してから、書類を取りに行く必要かなにかで、炎暑のさなか、エレーヌの家に出かけて行った時、主人不在の家のぜんぶを一応見まわってみたら、寝室の奥のほうの木床の上に、このマリア像がぽつねんと立っていた。
 病院に居て家に戻っていないエレーヌが置くわけもないし、もちろん、私でもない。時々、エレーヌの荷物をこの家に置きに来たり、別の荷物を取りに来たりしてくれるエレーヌの友人たちに訪ねたが、誰もこのマリア像のことは知らなかった。病室にあるのは見ていても、バッグにしまったりはしていないし、ましてや、エレーヌの家に運んで、わざわざ寝室の奥のほうに安置するようなことはしていない。
 みんなの話を総合すると、奇妙なことながら、マリア像はひとりでに移動して、エレーヌの家の寝室に立ったということになる。

 これだけでもとんでもない話だが、マリア像が立っていたあたりが、じつは、いわくのある場所だった。「いわくのある」などというと、ちょっと言い過ぎかもしれないが、私がだいぶ前から何かあると感じていた場所で、近寄るだにちょっと不気味な、異様な感じのあるあたりだった。

 このことを話し出すと長くなるので、ごくかいつまんで言うと、私の霊視によれば、ここは巨大な動物霊が居座っている場所だった。
 話が話なので、眉に唾つけて読んでいただいてけっこうだし、これが他人から聞かされる話なら私も信じはしないが、自分が経験したことなので、真実などという大仰な言い方はしないまでも、自分が感じ、認識し、経験した、という点では本当のことだった、という他ない。
 エレーヌの家の寝室のそのあたりと、壁を隔てて、外の庭まで広がったあたり、つまり家の中と外とを跨ぐようにして、狸のような、猫のような、そのどちらでもないような、両方をあわせたようでもあるような、そんな巨大な動物が居座っているのが私には見えていた。ひょっとしたら、昔の伝説に出てくるヌエのようなものだったかもしれない。
 肉眼でいくら睨んでみても、そこにはなにも見えない。そこから目を離し、心の目でそこを振り返ると、ありありと見える。特に、夜に自宅で寝る時、エレーヌの家を想像すると、よく見える。
 想像の産物と言ってしまえば、もちろん、それで済む。ふつうなら、そう考えて済ます。しかし、生活のおりおりで、ふとこれが思い浮かび、ありありと見えて、気になってしかたがなかった。 

 エレーヌの衰弱がいよいよ募り、病院の担当医師からも、もう何が起こっても覚悟しておいてください、ホスピスに本当は移ったほうがいいのだが…と言われ、治療行為もすべて放棄された時点で、私はこの動物霊に対して、自分で働きかけてみることにしたのだが、…この後は長くなるので、また別の機会に書こうと思う。
 ここでは、とにかくも、まさにこの動物霊が居座っていた場所に、どういう具合でだか、マリア像がひとりで赴いて、そうしてぽつんと立っていたことを記しておきたいと思う。寝室に立っているマリア像を見つけた時、もちろん私はたったひとりで、しかも、動物霊を感じる場所に向かっていたわけだが、恐ろしいような、畏れ多いような、ふしぎな感覚に襲われた。
 エレーヌは、結果的には、この時の衰弱の危機を奇跡的に乗り越えたが、マリア像はその後もこの場所に残しておき、8月末にエレーヌが退院して来るまで、そのままにしておいた。

 マリア像のこの移動現象については、真相を知ろうとして(やはり、誰かがひそかにエレーヌの家に持って行ったのではないか?寝室の奥に安置してきたのではないか?etc.)、数人に話したが、誰もこのことについては知らなかった。
 もちろん、エレーヌにも言ったが、彼女の答えはいつものようで、「そういうこともあります」とか「きっと、必要があって移動したんでしょう」…だった。

 現在、このマリア像に対しては、毎日、水を交換して、感謝礼拝をしている。

(感謝礼拝とは、神道の礼拝法で、現状について、すべてについて、「生かしていただいてありがとうございます」との念だけを捧げるもので、生活上・人生上の一切の世俗利益についての要求を行わない祈り方である。一般に、世界中のあらゆる神仏に対しては、世俗のいかなる願望も欲望も向けてはならないため、この方法以外は許されない。念はチャンネルなので、願望や欲望の成就を祈ると、ただちに、そうしたレベルの、願望や欲望の圏域の霊たちに繋がってしまう。)




右上の装飾品は、エレーヌが若い日に旅した中近東で買ったもの。
これも、ごく安いありふれた土産物。
左上の木の十字架は、ルルドで買ったもの。
これはしばしば、日本の住居での浄霊の役に立った。





 












2015/08/14

8月18日、エレーヌの名の日「聖エレーヌ」


ともに故郷のローゼル県、サン=シェリー・ダプシェ近郊の山中で。
ブルーベリーやラズベリーを摘みに。
ついでに…
エレーヌによく似た聖アンナ像
(レオナルド・ダ・ヴィンチ画)



駿河昌樹
(Masaki SURUGA)



 フランスには、ふつう、個人の記念日がふたつある。誕生日と名の祝いの日だが、後者は、名付けに用いられた聖人の記念日である。
 子どもの誕生日を祝うのはもちろんだが、大の大人たちの場合でも、歳をとってさえ、家族や友人たちが集まってお祝いの食事会を続けるのがごくふつうのフランスの生活で、このあいだ誰かの祝いが済んだと思っていたら、今度はこっちの人の…というふうに、なにかと忙しい。なにを買って持って行こうか悩まされるので、楽しいような、面倒なような、というのが、けっこう本音ではないだろうか。

 エレーヌの名前の日、聖エレーヌの記念日が近づいている。8月18日がその日、Sainte Hélèneだ。
 「エレーヌ」という名は、ギリシア語のhelêから来ており、温かさや熱を意味する。名前としては、紀元前9世紀、ホメーロスの『イーリアッド』に初出。よく知られるように、ゼウスとレダの娘の名で、ギリシア神話上の重要な名前であり、世界で最も美しい女性を意味する。20世紀には、よく用いられる名前50のうちの16位となった。
 8月18日が記念日とされる聖エレーヌは、ローマ皇帝コンスタンチヌスの母で、寛大で気前がよいので知られ、キリスト教の聖所を保護するために大聖堂を三つも建築させたことで知られる。
 さて、名前としての「エレーヌ」、その性格面は、…まぁ、このあたりは通俗的な占いに似て眉唾ものだとしても、夢見がちで理想主義者が多い、ということになっているらしい。皮膚の表面までぴりぴりと敏感で、世の残酷さや不条理に我慢がならない。こうした面の感情が激しいので、自分を守るためにしばしば象牙の塔に籠りがちになる。誇り高い振る舞いが近づきがたく見せるが、美しさの裏には、往々にして、恥ずかしがりな性格が隠されている。ひとたび心の壁を乗り越えてきた相手には、「エレーヌ」という名を持つ女性は、もう、何ひとつ隠し立てはしない。自発的で、人間味に溢れている彼女は、愛する相手を助ける機会を逸することはない。友情や愛情は長く続き、「エレーヌ」という名を持つ女性は、近くにいる人たちに、いつまでも誠実で献身的であろう…
 こういった記述が、フランス版の名前の占い辞典的なものにはいっぱい見つかる。

 話半分にこうした記述を読んでみていると、それでも、我らがエレーヌ・グルナックは、けっこうこれを体現した人物に近かったような気になってくる。ふしぎなもので、通俗な占い本などが、案外と馬鹿にできない気にさせられる。



 ここでは、くわえて、エレーヌがいつも暗唱していた祈りを紹介しておこう。
 最初の写真は、エレーヌの自筆で、聖母マリアへの祈りと、父なる神への祈りが書かれている紙片を撮ったもの。どちらもカトリックの伝統的な祈り方で、内容的には、エレーヌ独自のものではない。





 「 聖母マリアへの祈り

  マリア様、あなたを讃えます。
  聖寵の女神よ。
  神はあなたとともにおられ、イエス様はあなたの祝福された胎の実り。
  聖なる処女マリア様、神の母よ、哀れな罪人であるわれら(私)を憐れみたまえ。
  アメン」

 「われらの父なる神への祈り

  天にまします我らが父よ、
  御名が尊ばれんことを。
  御国が到来し、
  天と同じく地にも御意志が為されますように。
  今日われらに日々の糧をお与えください。
  われらの非礼をお許しください。
  われらがわれらに非礼を働く者を許すごとく。
  われらが誘惑に屈するがままになさらず、
  われらを悪から解き放ってください。
  アメン」
  
  それぞれの教会の訳があるが、 ここではフランス語に近い訳を掲げておいた。
  これは、エレーヌの遺骨をフランスに送る際、引き取りに来たフランス領事フィリップ・マルタン氏の前でも唱えたが、さすがに、あらゆるフランス人が暗唱している祈りで、いっしょに唱和してもらえたのを覚えている。

 カトリックにしろ、プロテスタントにしろ、エレーヌはキリスト教徒ではなく、むしろ、宗教としてのキリスト教にはきびしく批判的だった。しかし、幼時からのフランス社会とのふつうのつき合いの過程で、もちろんキリスト教にはつねに接しており、キリスト教の神秘主義には格段の関心と熱意を持っていた。マイスター・エックハルトをはじめ、さまざまなキリスト教神秘主義の書籍を耽読し、今も私の手元に多くの本が残されている。
 非キリスト教徒として、しかし、霊性探求の求道者として、直接にイエスや聖母マリアに繋がる道をエレーヌは選んでいた。まとめて言うと、キリスト教の地上の権力組織の闇と澱みを避けて、じかに聖性にアクセスする試みが、エレーヌにおける対キリスト教課題だった。
 彼女の神秘体験の中に、聖母マリアの出現やイエスの出現がたびたびあったことについては、すでにこのブログの他のところでも触れた。それを聞かされるたびに、いちばん厳しい批評者でもあった私は、それは寝ぼけていたのではないか、とか、つよい見神願望が齎した幻覚ではないか、とか言ったものだった。しかし、エレーヌがある段階以上の霊能者であることはよく知っていたので(私自身、人生上の多くの問題について、彼女の霊能力の恩恵に与った)、こうした、一見意地のわるい批判は、エレーヌの実体験に纏わりついてくる幻影や意識内での誤魔化しをいっそうきれいに取り除きたいからこそのものだった。
 
 二つ目の写真には、インドの女性聖者アーナンダマイ・マー*の短い祈りが見られる。生きながらにして、神とじかに繋がり続け、多くの弟子たちに取り巻かれていた有名な聖者で、エレーヌはこの聖者についての書籍も数冊、本が崩れるほど読み込んでいる。
 やはりエレーヌ自筆で書かれたこの紙片には、アーナンダマイが弟子たちに与えた、効果的な力強い祈りの文句が記されている。
 * (アーナンダマイ・マーについてはウィキペディアにも記されている。
   なお、アーナンダという名自体は、もちろん、仏陀の十大弟子のひとり阿難にも関わっている。) 
    https://en.wikipedia.org/wiki/Anandamayi_Ma 


 「アーナンダの祈り

 神よ、あなたに完全に私を捧げます。私を、あなたのお気に召すようになさってください。あなたのお望みになるすべてに私が耐えられるように、純粋な喜ばしい力だけをお与えください。」

 だいたいこんな内容の祈りで、求道者や信仰家、霊能者たちならすぐにわかる、簡潔で短い見事な祈りとなっている。ここに掲げた訳はとりいそぎの一応のものなので、役立てたいと考える人があれば、自分なりに訳し直して使ってもらいたい。
 というのも、よく言霊という言い方がされる通り、祈りや呪術の際の言葉の選択、配列、口調などは、まさに命そのもの、力を発揮できるかできないかのスイッチそのもの、門や扉そのものだからだ。
 エレーヌは、占いにおいて、とりわけクリスタルの振り子による手法に秀で、つねに百発百中で予言を行った。その際、質問内容を頭の中で簡潔に言語化するのだが、その言語化の仕方が、驚くほどパフォーマンスに影響する。
 たとえば、「8月18日は晴れる」と「8月18日の天気はよい」は、ふつうの生活者にとってはまったく同じ意味だが、振り子は同じようには反応しない。
 占いのすべてが、こうした言語配列の妙にかかっているのを、エレーヌのさまざまな占い実践の現場に立ち会った私は実地で見続けた。言葉の選択・配列は概念の選択・配列であり、言葉や概念はそのまま宇宙真理の見えない流れにそのまま繋がっているので、それらの選択・配列をちょっとでも間違うと、真理の別の扉を開けてしまうことになる。
 言葉や概念、思い、感情は、それ自体が力であり、鍵であって、用い方や扱い方に注意をしないと、いっこう効果がでないということにもなれば、大変なことにもなる。

 こんなふうに、キリスト教の祈りも唱えるかと思えば、同時にインドの聖者の祈りも唱えるというのが、エレーヌだった。
 宗教を混淆していたというわけではない。
 彼女には、いわば、聖者主義とでもいうところがあった。
 霊能者として、見神者として、しっかりした個人的な能力を持った人々だけを尊重し、彼らと直に繋がって(聖者たちには生死の区別も時空の差異もない)、教えや助けを求めるという姿勢がエレーヌには強かった。
 あらゆる宗教は、そうした聖者たちの言行を記録し伝承するための器であり、それ以上のものではありえない。聖書も、聖人たちの言行録も、一字一句に拘って読み過ぎれば、かならず誤りに陥り、狂信を生む。信者たちというのは、能力もないのに、元祖の霊能者たちの権威に縋ろうという人々であり、この人々にはそれなりの価値や役割があるにしろ、それを超えることを許すべきではないというところが、自身霊能を持つ神秘家であったエレーヌにはあった。
 聖者たちは、どの宗教に属する人であれ、たがいに聖者どうしの直接的な繋がりが可能であり、キリスト教や仏教や神道といった差異を個人の能力において超越している。

 大病に罹ってからのエレーヌは、事実、日々の礼拝としては、私が勧めた神道の礼拝を中心的に行っていた。これは、日本列島に居るかぎり、神道のアマテラスオホミカミの名がもっとも強い力を与えてくれるためで、ヨーロッパに行けば、たちまちこのアマテラスの名の力が弱まるのは、霊能のある者ならみな体験している事実である。ヨーロッパでは、聖母マリアの名の強さが絶対である。

 このページでは、ふだん隠している神秘主義的な話に踏み入ったが、これこそ、まさに、いかにもエレーヌらしい領域の話ではある。


2015/08/12

エレーヌの夏姿

フランス、オルレアンで


 駿河 昌樹
 (Masaki SURUGA)



 夏のエレーヌほど、どこへ行くにも日本の団扇を手放さなかった人はいない。
 仕事であれ、人に会うのであれ、東京ではもちろんのこと、日本国内のどこへ旅行する時でも、どこかで貰って来た広告のついた団扇を持って出た。

 フランスの方々を旅する際にも同じで、風を顔に送るのにももちろん役立つが、手頃な日よけにも持ってこいだということで、かならず片手に握っていた。
 畳めるから便利だということで扇子も持ってはいたが、いざ旅立ちとなると団扇を持って行く。特別製のきれいな細工のある団扇でなく、壊れようが落とそうがかまわない宣伝の入った団扇というのが、どうも使い勝手がよかったらしい。
 
 夏は、なにも今年や2010年だけが暑かったわけではなく、それぞれに暑い夏はいっぱいあって、世田谷でのんびりしている時もあったが、わざわざ暑いさなかに京都や奈良に出かけて行ったこともあった。

 健康な時のエレーヌは、(といっても、2009年にガンと診断されるまでは外面的には病気ひとつしたことがなかったので、ほぼ一生涯を通じて、ということになるが)、夏の暑さにもめっぽう強く、「今日は暑いです」などと言いながらも、他の人間がバテているかたわらで、けっこう平気で団扇を煽いでいたりした。汗も、比較的少なかったように覚えている(汗が少なめなのは、けっしていいことではないわけだが)。

 ここには、団扇を持っていることの多い、夏のエレーヌの写真をいくつか並べてみた。どの場合も、たいてい30何度以上の気温の時の写真である。


八王子の森で
アルビで?

八王子の森で


町田リス園
町田リス園


アルビで
アングレームで?


京都、大徳寺で
飛鳥で


室生寺で?


飛鳥、石舞台古墳で
たぶん室生寺で?

飛鳥、岡寺より炎暑の中を下りる

飛鳥、岡寺よりの帰り、あまりの暑さに一息。

飛鳥、甘樫の丘で


2015/08/09

やはり暑かった2010年のあの夏…

布団を干すエレーヌ。
1983‐85年頃、世田谷・池ノ上の借家で。


駿河 昌樹
(Masaki SURUGA)


 エレーヌの知人だったピアニストのひとりに時どき会うが、おそらく心の目に映じるのだろう、エレーヌさんが出てきたわ、昨日はこんなふうだった、と言われることがある。カフェで話していても、「あ、エレーヌさんが今そこに来たわ」などとふいに言ったりする。
 その人によれば、最近見えるエレーヌは、亡くなった頃のような白髪ではなく、ぐっと若返って、髪もすっかり栗色になって…ということらしい。屈託なく、楽しげにしているような雰囲気だという。あの世にいって、もう5年になろうとするのだから、そりゃそうでしょう、むこうにもすっかり慣れて、仲間もできて楽しくやっているでしょう、と話がはずむことになる。
 
 エレーヌが亡くなった2010年の夏もものすごく暑く、彼女は8月末まで入院していて、あの大変な暑さを経験しないで済んだが、入院中の彼女の世話をする私や数人の彼女の友人たちは、ずいぶん苦しめられた。病院の最寄駅は駒沢大学駅だったが、そこから15分ほどは歩かなければならない。途中で買い物をし、それを持って炎天下を歩いて行くのは、数日置きとしても楽ではなかった。美しい夏雲が出ていたり、つよい日差しがビルのガラスに反射したりしている日など、それを見ながら、こんな光景を後になって思い出すんだろうな、とよく思った。

 退院してから9月に世田谷区代田の自宅に戻って療養が始まることになったが、生涯を通じてエアコンを嫌い、一度も家に設置したことのなかったエレーヌのために、さすがに大病中ということでエアコンを設置しなければと思い、8月半ばからひとりで東京中の大型電気店を駆けまわった。記録的な猛暑の夏ということで、たいていの店でエアコンが足りない状態になっており、かろうじてある店で確保し、退院の数日前に設置できた。
 設置工事のために、もちろんエレーヌの家に行って待っていなければならず、請負業者からは午前か午後かしか指定できないと言われて、数時間無為のままにエレーヌの家で待って、設置工事に立ち会った。エアコンのない家は、いくら窓を開け放っても途方もない暑さで、扇風機にあたりながら、こちらはこちらで差し迫った仕事をいくつも持っていたので、本を読んだりメモを取ったりを続けた。エレーヌという主のいない家にそうしてひとりでいると、しかし、なかなか集中などできず、あっちを片づけたりこっちを整理したり、彼女はこんな本を最近見ていたのかとか、こんなノートを取っていたのかとか、いろいろと気が散ってならなかった。

 エレーヌの家とはいうものの、そこは私の家であり、私の名義で借り続けていた。11年前まで私もそこに住んでいたので、すべてを知り尽くしていた。だいたい、なにかが壊れたり、エレーヌの手に余るようなことが起こったり、電球のひとつを取り換えるのでさえ、私が来て作業をし続けていた。
 どうして私がエレーヌと離れて暮らすことになったのか、このことについてはいろいろと詮索され、噂され、中には不愉快な忖度をされている場合もあったようだが、非常に簡単なことで、50代も終わりに近づいたエレーヌが、ひとりの空間を持ちたがったからだった。最後の10年間ほどを彼女はプルーストやデュラスなどの読解に集中し、神秘主義の多様な読書にもさらに打ち込み、日々のヨガの練習を朝や夜にある程度長い時間を取って続けたがった。いっしょに暮らしていた私がそれらを邪魔したことはないが、広くもない家にふたりでいると、朝から夜までなにかと障りになるのは事実だった。
 私は5分ほどのところに書斎を持っていたので、そちらに住むことにし、多くの場合、夕飯の料理は私がし、仕事帰りのエレーヌが私の書斎に寄って食べ、彼女が家に帰ってから私が皿洗いをするというようなかたちになった。エレーヌは自宅で魚を焼くようなことは絶対にしなかったが、サンマやブリの塩焼きなどは大好きで、秋には私が毎日のようにそれを作って食べさせた。外で会食があるような時は別だったが、それでもちょっと私のところによって、本当に外ではろくなものが食べられないなどとこぼして、コーヒーを飲んだり、大学やカルチャーセンターでの授業での問題を相談してきたりした。

 エレーヌは極度の秘密主義者だったので、こうした私事は誰にも語らなかったし、語ったとしてもかなり断片的に、しかも歪曲して語っていたらしかった。病気になってから、彼女の話に出てくる人物たちの幾人かと出会うことになったが、そうしたエレーヌの秘密主義から生じた誤解や不審の念を通して、そういう人たちが私を見ているのをつよく感じた。エレーヌは、多くのフランス人たちのように、表面的には非常に友好的でも、本心はすさまじく批判的な見方をあらゆる人々にしていたので、こちらに語られる辛口のそうした話を通してエレーヌ世界の人物たちの像を作っていた私も、初めのうちは、かなりの偏見を通して彼らと接する他なかった。私はそういうことをあまり表に出さないように注意しながら接したつもりだが、エレーヌの病中と死後、こうした事柄はいちばん私が苦しんだことのひとつだった。
 エレーヌの生徒だった何人かの年配の婦人からは、「なぜエレーヌさんと結婚しなかったんですか?」と詰問されるように問われたものだが、私にしてみれば、それはむしろエレーヌ自身に向けられるべき質問ですよ、と言いたかった。1980年代、私が結婚を望んだのに、エレーヌは拒み続けた。サルトルとボーボワールのようなamisの関係を望んだのは彼女だった。国家に書類を提出する結婚なるものへの嫌悪は、エレーヌには強かった。ふたりの関係は、ふたりがわかっていればいいだけのことで、外的形式を取るべきでもないし、他人に言うべきでもないし、すべてはふたりだけの秘密だというのがエレーヌの考え方だった。それは、若かった私にも魅力的と映らないこともなかった。
 だから、私からすれば、「なぜエレーヌさんと結婚しなかったんですか?」と質問してくるような人というのは、エレーヌからそれだけの開示しかされていなかった人だと見えた。エレーヌと私の関係は、ごく数人のフランス人だけが知っていた。日本人の生徒や学生には一切明かされていなかった。そこにエレーヌという人間の謎もあれば、ある種の残酷さもあった。人間関係の彼女なりの徹底した管理ぶりがあった。病気になったり亡くなった後は、私がその被害を蒙った。この点では、じつは、私はずいぶん亡きエレーヌを責めた。もう少し私のことを話しておいてくれれば、いろいろなことがうまく行ったのに、と思った。

 フランスの故郷のエレーヌの妹と私の関係は、エレーヌの死後、完全に崩れたが、これもエレーヌの説明不足のためだった。もともと理解力に偏りのある人物で、さほどの信者でもないながら、いざとなるとカトリックの倫理感や価値観に縋る人で、生前のエレーヌはこの妹を愛してはいたが、精神面ではどうにもならない人物として扱っていた。故郷に帰った時など、物珍しさから楽しんでいる私と違って、エレーヌは翌日から「もう発ちましょう、私は我慢できない、息ができなくなる」と、故郷の田舎町の雰囲気や、この妹の家族を嫌った。それでいて、誰に対しても、妹を悪くは言わないし、おそらく日本の自分の生徒たちには、故郷に行って楽しかった、などと話していたに違いない。これがエレーヌだった。私だけが、エレーヌのすべての面を見、あらゆる場面につきあい続けた。
 故郷のこの妹、マリ=テレーズを、私たちはマリテと呼んでいたが、彼女は私がエレーヌと結婚しないことについて、ひどく恨みがましいことを言い続けた。エレーヌにも、どうして結婚しないの?と聞き続けていたらしいが、エレーヌは、私の自由を束縛したくないから、とかいろいろな理由を語り、結局、本音を語ることはなかったらしい。結婚もできずに、日本で孤独に死んでいくことになったエレーヌ、その原因は私にある…という理解にマリテの頭の中ではなったらしく、エレーヌ死後のいろいろな電話でのやりとりにおいて、私は非常に不愉快な会話を余儀なくされた。
 あなたがたの家族主義をエレーヌは嫌悪していたんですよ、と私は言いたかったが、死後の数年間、見栄っ張りというか、少しでも紳士的に振る舞おうと努め過ぎたというか、ついにそう告げないままに済ましてしまった。客観的に見れば、エレーヌの病中にも葬儀にも、死後のさまざまな整理の際にも、ただの一度も、誰ひとりも、日本に来ることのなかった血縁者たちの非礼と非常識は覆い隠しようもない。フランス領事も、エレーヌの血縁者たちに関しては、「本当にフランスの恥です。フランス人として、日本の皆さんにお詫びとお礼を申し上げたい」と私に語ったものだったが、エレーヌの家族については私なりの分析と考察をずっと続けてきたので、いずれ、書き留めておきたいとは思っている。ただし、なかなか複雑で、きれいごとで済まない点が多く、どううまく表現するか、非常に思い悩むところがある。デュラスの世界そのもののような家族でもあり、アニー・エルノーの厳しい書き方がちょうどふさわしいと思うような家族でもある。

 ひとつだけ記しておけば、エレーヌの母親は酷かった。エレーヌに勉強する必要はないと告げ、お前は一生私の傍で家事をするように生まれてきた、学校は行かなくていい、と言い続けた人物だった。
 エレーヌは、中等教育のリセに入る前に、じつは一年間の空白がある。友だちたち皆に、通うことになるリセから通知が来るのに、エレーヌには来なかった。おかしく思ったエレーヌに、母は、お前は上の学校に行く必要はないから、私が断っておいた、と言う。ショックを受けたエレーヌはこの時、食事を拒否して、衰弱死することを選んだ。状態が本当に酷くなってきたので、父親が、来年から行かせるから、と取り成す。翌年、ロゼール県の県庁所在地のマンドのリセの寄宿寮に行くことになったエレーヌは、この時はじめて、家から離れるという至上の喜びを知ることになり、以後、二度と家に帰ることはなかった。学校が休みになるヴァカンスの時にさえ、家には戻らない場合が多かったという。大学はパリに決め、ごくたまにしか、確信犯的に家族の元には戻らない、徹底した反家族主義者エレーヌが生まれてくることになった。
 もし妊娠したら?…という話は1980年代の私たちには、時どき出た話題だった。エレーヌの雰囲気を引く美しいハーフの娘を持つのを私は夢見た。しかし、エレーヌの答えはつねにかたくなで、すぐに中絶します、というものだった。自分が母になるのは絶対に嫌だ、断じて受け入れられない、いい母になる自信はない、私の母みたいになってしまうのではないかと不安だし…というのが理由だった。
 一生涯、心の中で母と戦い続けてきた一面がエレーヌにあり、死が近くなっても、私はどうしても母を許せない…と私には語り続けていた。エレーヌがデュラスに没頭したのは、純粋に文学的な興味もあったには違いないが、デュラス世界のあの母親像に自分のそれを重ねていたのも確かだった。もう少し生き続けていれば、エレーヌ自身で自分の物語を紡ぎ出したことだろうと思う。

 私だけがはっきりと知っていて、何度となくエレーヌと話しあったこんな話題が、本当にいっぱいある。どうにかうまくまとめたいと思うが、私の忙しすぎる生活の中では、なかなか時間を割くわけにもいかないでいる。
 写真も多量にあって、このブログに掲載していないものも多過ぎるほどで、それらをここに出す必要もべつにないのだが、それでもできるだけは…と思いながら、日々が過ぎていく。
 今日はひさしぶりに、少し写真を載せ、思うことをそのまま書いてみた。
 下の写真は、すでに掲載したものもあるが、どれも1980年代、エレーヌと世田谷の池ノ上に住んでいた頃のものである。エレーヌが写っているということは、つねにそこにいっしょにいて、彼女を見続け、撮り続けていた私がいたということだから、そのまま私の個人史でもある。

 今年の10月31日は、エレーヌ没後5年を迎える。