2015/12/13

抗がん剤が実は発がん物質であるらしいこと

  駿河昌樹
  (Masaki SURUGA)


 エレーヌの闘病、また、ガンによる死去からは、個人的には少なからぬ教訓が得られた。

 そのうちのひとつが、エレーヌの死後にとみに話題になるようになった“ガン治療の嘘”がある。
 ネットで様々な情報が見られるようになった現在、細かいことをここで述べる必要はないだろう。興味のある方は、自分で情報の錯綜したネットの森に分け入り、自分の理性と勘にのみ頼って真偽を探っていったらよい。なにが正しく、なにが間違っているか。それは、自分の頭と体で突きつめていくしかない。
 医療に関わることでもあり、ひとりひとりの自己判断に任されるべきことであるため、これについては私はなにも書かないが、以下に引用するような情報を多量に渉猟した結果として、私個人としては、仮に自分がガンになった場合にも、断じて抗がん剤は使わない決意をするようになった(白血病などの場合は有効のようだし、周囲に実際の成功例を見ている)。

 当時、私自身にも、まだ医師を多少は信じる部分が残っていたため、エレーヌにこうした見地からの助言をつよくできなかったのが残念である。

 ガンが発見された時点で、医師はエレーヌに余命3か月を告げた。
 こうした宣告の内容(つねに「余命3か月」だったり「半年」だったりする)が本当だったとすれば、心身の不快を強め、苦しみを募らせるばかりの抗がん剤投与は、そもそも避けるべきはずだが、抗がん剤投与を行った医師の判断にはじつは大きな矛盾があった。
 この時点で、ガンをめぐる日本の医師たちの曖昧さや悪意を読み取るべきだったが、そこまで冷酷に医師たちを判定することを私は怠ってしまった。

 日本の医師たちだけではない。エレーヌのかつての婚約者である(彼女と同世代の)医師も、彼女に施された抗がん剤治療や手術が妥当だと言っていたので、フランスでも事態はそう変わらなかっただろう。
 つまりは、彼女のかつての婚約者もありきたりの並の医師に過ぎなかったということで、そんな人物がエレーヌの治療に少なからぬ影響を与えてしまったのを、今にすれば、やはり残念に思う。


 [以下、引用]
http://cancer-treatment-with-diet-cure.doorblog.jp/archives/47146544.html

 WHO の発表 抗がん剤が実は発がん物質だった!
 

   癌と食養 自然療法による癌治療
    WHOの公式発表による、癌の原因となる「116種類の要因」
    【「116の一覧」の中に「抗がん剤」がいくつも入っています!「抗がん剤」が癌の原因になる証拠!】


 WHO(世界保健機関)が「癌の原因」となる「116種類の要因」を公式に発表したようです。
 この「116の一覧」の中には、何と「抗がん剤」がいくつも入っています。
 「抗がん剤」は、それ自体が発癌性物質と言い切ってるように思えますね。
 WHOが正式に発表したとなると、なお一層、現実味を帯びて生々しく響いてきます。

 『癌患者の癌を癌患者に悟られないように増癌させ、癌がどうにもならなくなるように仕向け、
  こうしてズルズルと、無知な癌患者から高額医療費を請求しなければ、病院は黒字にならない。

 ということでしょう。

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 癌患者が「抗がん剤」をやった結果、癌が治らなくなってどうにもならなくなり、
 苦しもうが、泣き叫ぼうが、地獄を見ようが、病院はお金が入れば、それで OK です。

 それが証拠に、ほとんどのガン専門医は、この「抗がん剤の正体」をよく知っているため、
 自分や家族が癌になった時には「抗がん剤」などまず使用しません。

 『ガンの特効薬』であるはずの「抗がん剤」が、実は「ガンを増幅させて」います。
 つまり「抗がん剤」は「ガンを悪化させるために投与されている」のです。
 初期癌を末期癌に変えるために投与されているのです。
 ステージ1のガンを、ステージ4のガンに変えるために投与されているのです。

 「抗がん剤」は、最初から「ガン患者を殺す為に開発され、実際に大勢の人を殺してきた」のです。
 ガンを『恐怖の難病死病』とカン違いさせるために!
 その努力があって、日本人の多くはガンを『恐怖の難病死病』と信じ込んでいます。


 全員が全員、このような医者ではないでしょうが、病院も企業です。
 毎月、各学部長が集まり、会議があります。
 何の会議かと言うと、ドラマの様な症例報告でもなく、カンファレンスでもなく、
 「営業報告会議」、または「収支報告会議」です。

 『え~っ! 循環器科、○○ 円、先月に引き続き、○○○ の赤字‥、
  学部長、来月から、もっと検査入院・検査カテーテルを増やすように!

 と、事務長からお叱りとアドバイスを頂きます。

 そして、部下に伝達が渡り、
 来月から、必要なのか必要でないのか意味不明な患者様がぞくぞくと不安な顔で検査に参ります。
 心臓カテーテル検査がどんなものか想像できますか?

 まず、太ももの付け根から太ーいカテーテルを突き刺し、心臓まで管を通し検査するんですけど。
 文字にすると簡単に聞こえますね。
 けぇ~ど、足の付け根からふっとい注射をさされ、心臓をいじくりまわされるんです。
 それも、本当に病気なのか分からないのに。

 医者から「心臓の機能が問題あるかも」と言われたら、誰でも不安になりますよね。
 「先生、お願いします」になります。
 けど、私は「セカンド・オピニオン」をおススメします。
 そういう営業の医者は結構な、いや、大多数いると考えてもいいです。
 みな、本来、そういう医者ではないと思いますが、なんせ(病院・医療機関とは)強烈な縦社会の白い巨塔。

 風邪で受診しても、頼んでもないのに大量の薬。
 「これだけでいいです」と言うと(医者の)露骨な嫌な態度。
 いや、そんなのマシかもしれませんね。

 医者の言うことは話半分で聞き、「セカンド・オピニオン」をおススメします。
 まぁ、「セカンド・オピニオン」も同じ可能性もありますが‥。


 「抗がん剤治療」も、営業です。
 「最低、何クールするのですか?」、それだけ(その癌患者を)病院にとどめて置くことができます。
 長期になり、さらに(その癌患者の癌の)状態が悪化してくれたら、もっと高価な薬や治療もすることができます。
 一般の人は「ドラマみたい~」と思いましょうが、真実なんです。

 元看護師の独り言でした。


2015/12/12

エレーヌとの年末年始一景









          (パンの写真はルヴァンのHPより借用)



  駿河昌樹
 (Masaki SURUGA)


 1980年代、正月には無農薬の食材や無添加の食品を買うことにしている店が閉まってしまうので、エレーヌと私にとって、年末の買い出しはそれなりに忙しかった。
 私たちが夕食で食べるのは、山盛りのサラダ、ほとんど味なしの根菜類蒸し(ほとんど水を加えずに、密閉した鍋の中で野菜から出る水分だけで蒸すもの。食べる時はそこに塩や胡椒をかける)、白身魚やササミに簡単に熱を加えたもの、さらに、玄米や蕎麦粒、ハト麦、インディアンの食べるワイルド・ライスなどだったが、昼食や勤め先に持って行くランチとしては、全粒粉を使って焼いた重く固い角パン、パン・ド・カンパーニュ、ライ麦パンなどが多く、これらはたいてい、下北沢のナチュラルハウスで買っていた。たしか、ルヴァンという製パン所から入荷するものが中心だった。やはり下北沢にあった、サン・ジェルマンのパン・コンプレも定番だった。
 1980年代の正月頃は、商店街の店が3日も4日も休んでしまうのがふつうで、店が始まっても商品が揃わないことも多い。私たちが食べていた欧風のパンは、大量生産でないこともあって、年明け一週間ほどしても、まだ入荷しないこともあった。
 そのため、年末の30日や31日には、これらのパンをたくさん買い集めるのが大事になる。生産は29日頃で終わるので、30日頃にだいたいは手に入れ、31日には売れ残りを予備のために買い集めるという感じだった。
 なにぶん品数が少ないので、クリスマス前には予約を入れておく。だいたい、ふたりで一日250グラムから300グラムを食べる計算で、1500グラムぐらいの分量以上を買っておく必要があった。そうすると、当時一般的だった250グラムの塊を6袋は買っておく必要があり、これが、他の買い物と合わせるとなかなか嵩張った。下北沢で買い物をすると、池ノ上に住んでいた私たちは、買い物袋を提げて15分から20分ほどかけて歩いて帰って行ったものだが、年末の買い物でなくとも、レジ袋の取っ手が細く捩じれて掌に食い込むほど重い量を提げて帰っていくことは多かった。
 正月の食事も、私とエレーヌの場合、いつも通りでほとんど変わらなかった。一年を通じて、朝はフルーツ、ヨーグルト、コーヒー、全粒粉パン、ソビエトやオーストラリアやニュージーランドの蜂蜜、値段の高めの輸入ジャムなどだったが、正月も同じで、雑煮やおせちが加わることはなかった。
 エレーヌは確かに、豆腐や納豆などの日本食が大好きだったが、実際に自宅で食べる様式は、けっして日本式ではなかった。白米は嫌いではないが、家には一切なかったし、味噌汁は好きだったが、作らなかったし、そもそも味噌を買わなかった。焼魚は好きだったが、私が焼いてやらないかぎり自分では作らなかった。漬物は食べなかった。懐石料理も天ぷらも好まなかったし、日本風の洋食も好まなかったし、鰻は嫌いではなかったが、あの脂っこさが苦手で、半分も食べれば十分だったし、だいたい御飯のあの量には辟易していた。
 こんなふうにふり返ると、エレーヌの日本食好きは、じつは豆腐や納豆、少量の蕎麦、魚料理などに限られていたのがわかる。それらを、サラダや蒸し野菜、全粒粉のパンに合わせて食べるのを好んだのだから、全体としては日本食とは言えない、エレーヌ流の無国籍な食べ方になっていた。
 2000年以降、エレーヌが肉食やカレー、ファミレスの料理などを意外と好んでいた、と言う友人たちがいる。私は疑わしく思っている。というのも、そうした外食の後、エレーヌは私に、「たまに外食する時は悪いものも食べます」などと言っていたからで、あくまで相手に合わせてのことだったからだ。不機嫌な顔を惜しげもなく見せられる私のような相手と食べる時、エレーヌは食べるものの内容にうるさく、脂ぎったものや栄養価の低いものを極力避けようとした。いっしょに旅行する時にはこれがよく難儀の元となったし、都内でちょっと買い物に出たり、映画やコンサートの帰りなどに食べる際にも問題となり、どこのレストランに入るのも嫌がるので、私のほうが怒って、もういいから、食べないで帰ろう、などとなることもたびたびだった。ガン宣告をされる頃まで、これは変わらなかった。そのため、同じ時期に、他の友人たちと洋食ふうのレストランに平気で入っているエレーヌの話は、私にはほとんどフィクションのようにしか受けとめられなかった。
 とても際立った、はっきりした個性の持ち主であるエレーヌだったが、ずいぶんと自己を殺して相手に合わせる部分も大きく、食事ひとつにもこんな演技を続けていたということなのか、と思う。
 2000年に入ってから、別に住むことにしたエレーヌの家の寝室の奥に、ワインやビール缶などがたくさん貯め込まれるようになったのに気づき、エレーヌに理由を聞いたことがある。ワインにしてもビールにしても、エレーヌはせいぜいレストランで、その場の雰囲気上のつき合いで、ひとくち口をつける程度で、家でひとりで飲もうとまで思うようなことは一度もなかったからだ。家に来る友だちがビールやワインが好きなので、用意しておいている、その人たちの家に行く時には持って行く、とエレーヌは言っていた。
 そこまで、まわりの“お友だち”に合わせないといけないほど、日本社会の中でひとりきりになるのを恐れているのか、そんな必要はないのに、と私は思ったが、こういうのがエレーヌでもあった。

2015/12/06

人づきあいもガンの理由

     
末期ガン宣告の前の桜の頃。
いま見れば、存在の希薄化が感じられるような。


1999年、フランスのトゥール近くの田舎道で。
生涯、自転車はあまり乗れず、水泳もできないできた。
ここで自転車を教え、はじめて長く乗ることができた。

  
 駿河昌樹
  (Masaki SURUGA)
 

  生まれつき体の丈夫だったエレーヌがガンにかかった理由は、いくつか考えられる。
 なにより、健康への本人の過信。
 そこから来る過労。
 睡眠不足。
 低めの体温。
 体内でひそかに進行していた卵巣の異常。
 すぐに寝つけなくなるような神経質さと過敏さ。
 怒りやすさ。
 他人は気づきづらかったが、けっこう恨みがちで、内に溜め込む性質。
 人づきあい。
 そうして、意外かもしれないが、次々と終わりのない猫たちの世話。

 これらについては、以前からメモしておきたいと思ってきたが、時間がないので書けないでいる。
 それでも、少しずつ書いてみておこう。

 「人づきあい」については、意外に思われるかもしれない。
それが原因?、と。
 しかし、心身の深い休息のためには、すっかりひとりになる時間を十分持つことが大事だというのは、最近の研究で明らかになった。
 気の合う人としゃべりながら寛ぐのでは、いけない。どんなに仲のよい人が相手であっても、神経は刺激を受けたままになる。完全にひとりになって、対人的な刺激をすべてシャットアウトしなければいけない。そういう時間を、毎日、十分にとらなければならない。毎日が無理でも、週の中で見つけてとらなければいけない。
 エレーヌは、フランス語を教える仕事の場では、たくさんの人たちに会い続けていた。それ自体は問題ない。仕事なので、あたり前のことでもある。オフタイムに、ひとりになる時間を十分にとれさえすれば、かまわない。
 ところが、帰宅後や休日、エレーヌはひとりになる時間が少な過ぎた。
 エレーヌが帰宅すると、なにが起こったか。
フランスや日本の友人たちから電話がひっきりなしにかかってきた。夜には、近所の猫仲間との交流もあった。近所の猫たちにエサをやってまわったり、病気の猫たちを病院に連れて行ったりした。
事務的な電話は短いから、べつにかまわない。しかし、エレーヌには、人生相談の電話のかかってくることが多かった。彼女は精度の高い占い能力を持っていたので、それを知っている友人たちがいろいろな人生上の問題をもちかけてきた。ついでに話をすれば、ひとり相手の電話はすぐに30分を超過する。ひとりが終わると、次がかかってくる。また30分、40分と経つ。電話が終わると、猫の世話に外出したり、帰宅すると、2時や3時頃まで、頼まれた問題の占いに時間を割く。それでいて、朝から仕事に出ないといけないことが多かったので、7時頃には起き出る。そうして、ヨガをやる…
結局、毎日の睡眠時間は3、4時間というのがふつうだった。
なんとなく、かかってくる電話や人づきあいを受け入れ過ぎてしまう。エレーヌにはそんなところがあった。これ以上は無理、と拒否することができない性質だった。
ガンで衰弱して、病院で寝たきりになった時でさえ、フランスの友人や家族から電話が携帯電話にかかり、誰もがエレーヌの心配をして、病状を聞きながらも、30分ぐらいは平気でしゃべり続ける。私がそれを阻止して、病状は私のほうに聞いてきてくれ、と壁を作った時には紛糾した。結局、友人や家族たちはエレーヌにじかにかけ続け、エレーヌを衰弱させ続けた。「電話をかけてくること自体が、私を弱らせるのに、誰もそれがわかっていない」とエレーヌは私に言うのだったが、ならば出なければいいのに、と助言しても、電話に出てしまうエレーヌがいた。

こと、フランス人の友人については、エレーヌは恵まれなかった。フランスにも日本にも、ろくな友人がいなかった。
忙しい日々を送っている彼女に、夜な夜な電話をかけてきて、体力も時間も費やす占いを頼むような友人が、よい友人だろうか。
大病で憔悴している時に、長々と電話をしてくる友人や血縁が、はたしてよき人々だろうか。
こういう点で、どうしようもない友人や血縁にエレーヌは取り囲まれていた。頼られるのを好んでしまうところが、エレーヌにはあったのも事実だろう。いつわりの友情やつながりを、いまひとつ見抜けなかった。エレーヌの弱さが、ここにあった。

日本人のエレーヌの友人たちにも、言いたいことはいっぱいある。
私は、五年間、それをわざと言わないできた。
そろそろ言い始めようと思う。
月曜日から休みなしに金曜日まで働きづめのエレーヌには、完全にひとりになる時間が、誰からも連絡も来ない時間が、もっともっと必要だった。私はそれをわかっていたので、エレーヌから電話がこなければ放ったらかしておくことが多かった。このブログにも時々書いたが、1983年以降、日本でのエレーヌという人間の演出は、私がすべて行ってきた。演出家が俳優を放ったらかしておくのも、本当にそれが、空白を持つことが必要だとわかっていたからだ。
猫に全く関わらない時間を、ちゃんと確保してもらいたかった。
帰宅してからは、夜、就寝までひとりで、なにもしゃべらずに暮らしてほしかった。
土曜日にヨガを教えに遠出などしないでほしかった。
これが私の本音で、エレーヌが元気な頃から、時々、本人に言ってきていたことだった。
世田谷から神奈川までヨガをやりに行くのが、一週間働きづめの体にとって、どれほど負担になるか。もちろん、エレーヌ自身が理性的に判断すべきことだったが、残念なことには、彼女はそういう点で理性的ではなかった。

猫にかまけたり、遠出してヨガを教えたりするのもいいが、その前に心身を十分休める時間を取ってほしい。
ずっとエレーヌにこう勧めてきたが、彼女は体の耐久度を甘く見ていた。
猫の世話をもっと減らすように勧める私を、心ない冷たい人間だと言うこともあった。猫たちの世話をやめたら、野良猫たちはどうするのか?とエレーヌはよく私を批判した。
「でも、いずれ歳を取ったり、病気になったりして、あなたは、月に何万円も費やすような猫の世話を続けられなくなる。その時、猫たちはどうするの?今のあなたの生活のしかたでは、そういう時が来る可能性がある。未来のその時点での猫たちは、どうするの?今、あなたがもっと世話を縮小して、あなた自身が健康を維持して、少しずつ世話をしていくのだって、悪くないじゃないの?」
 私のこんな反論には、エレーヌはもちろんうまく答えられなかった。
ヨガについては、それをやらない私には理解できない、と言い張った。
とんでもない。80年代、ふたりの住まいをアシュラムのようにして、毎日エレーヌとヨガをやり続けた私が、理解できないはずはない。ヨガもけっこう。でも、たったひとりで、誰もいないところでやったらいいだろう。ヨガはそういう時こそ、本当に聖性を帯びてくる。
私は、エレーヌが続けていたような西海岸ふうの精神世界の流儀を離れて、菜食主義を捨て、ヨガを捨て、ヒッピーふうの共同生活志向を捨て、「なにを飲み、なにを食おうと、思い煩うな」というイエスの教えに、むしろ徹底して素直に従って、全く別の修行に入っていたに過ぎない。繁華な都市のさなかを歩いていても、うるさい工事現場にいても、さまざまな邪念の渦巻く歓楽街にいても、なんの損害も受けない魂にならなければいけない。静かな清浄なところでのみ何者かでありうるような、脆弱な過敏症行者では意味がないのだ。
2000年以降、エレーヌには、ヨガよりもむしろ、歳をとるにつれていっそう必要になる筋肉をつけるトレーニングを勧め、それによって体を温めるのを勧めたが、エレーヌはまじめに受けとらず、やらなかった。ヨガに打ち込んで菜食になった人たちは、まず長生きしない。生物としての人体の条件や本質をもう一度見直すように、というのが私の勧めだった。『バガバッド・ギータ』で、戦争で人を殺すことなど恐れるな、とアルジュナに説いたクリシュナ神のような思いがあった。もちろん、なにをしようと、どう生きようと、どのくらい生き長らえようと、すべては悦ばしき空無にすぎないという前提で、生などはじめから終りまで冗談にすぎないと見越した上でだったが。





2015/11/01

エレーヌ、最後の二週間とその時期の携帯メール

 駿河昌樹
 (Masaki SURUGA)


 2010年10月終わり頃の、死の直前のエレーヌよりの携帯メールを時系列に並べながら、最後の二週間ほどを、私の立場から振り返っておく。
 (このブログの2012年10月27日《2度目の命日にあたって》の2章にも関連記事があるので、参照されたい。)

 8月末の退院以降、エレーヌの調子は比較的よく、食事療法と適切な運動の組み合わせによる療養が目指されていた。長い入院の後での筋力の衰えのため、きびきびと動くことはできないが、最低限の家事や短い散歩などをしていた。
 いっぽう、10月末に北区への引っ越しを決定していたので、引越業者とのやりとりや、旧居の不動産との交渉、新居のUR事務所での手続き、区役所での手続き、固定電話の移転などを進めていた。
 食事療法については、野菜や果実などの新鮮なジュースを毎日作って飲むように勧めていたが、めんどくさがって本人は消極的だった。血中アルブミンの欠乏による浮腫に5か月も苦しめられてきたことから、魚や鶏肉などを摂取してタンパク質を摂るように促したが、食道から胃の不快感のために食は進まなかった。
 
 10月12日(火)
  エレーヌから、歩行や起き上がりの困難を聞く。浮腫や硬直のため。病院でリハビリの運動として教えられたストレッチの手抜きや、足の運動のやり過ぎのためか、と考える。

 10月13日(水)
  エレーヌ宅に介護ベッド搬入。
 
 10月18日(月)
  勤めの後、夜に、渋谷からバスでエレーヌ宅へ。足湯をして温めたりし、マッサージをしてやる。しかし、動くことが困難になっており、病院への再入院が必要と判断する。すでに夜遅いため、明日の朝にアクションを起こすことに。
 エレーヌによれば、日中には古い友人らが来ていたそうだが、その人たちが、急を要するエレーヌの異常を全く見てとらなかったことに驚かされた。固定電話を解約して携帯電話だけにしたほうがどれだけ安くなるかとか、ガンの治療には巨費が必要なのにエレーヌにはどれだけ銀行に残額があるのか、あまり残額がなければもう助からないだろう、といった話だけをして帰ったという。病気で弱まって療養している人のところに来て、長々とこんな話をして帰っていくのが「友だち」なのか?、とエレーヌは私に聞く。 

 10月19日(火) 
 妻が東京医療センターの担当医に電話し、緊急入院の準備をしてもらうことに。世田谷区と北区の介護施設と連絡。フランスのエレーヌの親族たちや友人たち宛てに、緊急入院のことをメールで伝える。
 エレーヌ宅では、友人の中島慶子さんが泊まって、エレーヌに付き添う。

 10月20日(水)
 朝、エレーヌは東京医療センターに再入院。アイリス動物病院の“アイリス先生”こと斎藤都さんと中島慶子さんがエレーヌ宅に向かい、斉藤さんの車で病院に搬送。病院では、妻が迎える。 
 私は勤めの後で、夕方、病院へ。エレーヌの入院用の品物を途中で買い揃えて、向かう。
 エレーヌは食事に出たミカンやトマトを食べず、(酸っぱさに耐えられなくなっている)、ビタミン類の摂取が決定的に欠如してきている。カプセル入りのビタミン剤のようなものを買う必要を覚える。

 10月21日(木)
   病院に行けなかったため、16時55分にエレーヌから次のメールで報告が来る。
 おやつにナシとヨーグルトを食べたこと、朝食+昼食+おやつの三食を食べたこと、8時間かけて点滴をしたこと、慶子さんにロイヤルミルクティーを買って来てくれるように頼んだこと、などが書かれている。
 4月に衰弱がひどくなってから、エレーヌは濃厚なミルクティーを好むようになった。生涯に一度もなかったことだが、タンパク質のアルブミンの低下を補おうとする体の欲求かもしれない。(アルブミンが欠乏すると、細胞膜の目が粗くなり、水分や栄養素が漏れ出てしまう。それが浮腫を引き起こしてしまう。)  
 


10月22日(金)
   仕事のため、病院に行けない。エレーヌからは、二通メールが来る。
 一通は、病院に持って行く本について。エレーヌと話していて、ドゥルーズとガタリの『ミル・プラトー』を読んだらどうかと思い、勧めたら、読みたいと言っていた。
 もう一通は、作家・文芸評論家のモーリス・ブランショ『火の部分』について。舌の病気になった仏文学者の篠沢秀夫がブランショにとても影響された話を聞いて、この本を読みたいと。ブランショは私がほとんど持っているので、次に病院に来る時に持ってきてほしい、と。
 さらに、いいものがあれば、果物も持ってきてほしい、と。この時期、よくブドウを買って持って行った。






10月23日(土)
   やはり、仕事のため、病院に行けない。
 朝、エレーヌの体内のガンを、なんとカネヨのクレンザーで洗い落とす、というリアルな夢を見る。
 じつは、エレーヌについて、夏以来、私はいくらか心霊治療を試みていて、効果を確認していた。この夢には、エレーヌの霊体に侵入して、積極的に病巣を洗い落すべきだという発想を与えられる。このことをエレーヌにメールで告げたら、私のヴィジョンを信頼する、心霊治療をやってもらいたい、どのようなことも可能だから、と返事が来た。点滴を続けている、とも書いてある。




10月24日(日)
 病院で介護保険証が見当たらなくなったと連絡を受け、それを探しにエレーヌ宅へ。重要な書類や証書、物品などをエレーヌがなくすということが頻発していた。
 行ってみると、エレーヌ宅には中島慶子さんと斎藤都さんも居り、エレーヌの着替えなどを取りに来たとのこと。このように、数人がエレーヌのためにつねに動いているというのが普通だった。
 介護保険証は家には見つからず。たびたび起こったように、やはり病院にあるはず。
 斉藤さんの車で、代田のエレーヌ宅から駒沢の病院に向う。徒歩+バス+電車でこの行程を辿ると、いったん渋谷にバスで戻ってから駒沢大学に電車で向かうか、三軒茶屋に徒歩で向かってからバスか電車で駒沢大学に向かうかするしか方法がないため、大変な時間がかかるので、助かった。代田のエレーヌの住まいは、こういう点で交通上の僻地にあった。急ぐ場合はタクシーで行くことになるが、タクシーもなかなか捕まらないことが多かった。こうした交通上の不便さも、引越しの理由のひとつだった。
 病院に着くと、エレーヌは1Fのカフェ《エクセルシオーネ》でコーヒーを飲んでいた。ろくに物も食べず、衰弱していても、車椅子を押してもらって病院内のこのカフェに行ってコーヒーを飲む、というエレーヌの姿勢は顕著だった。少なくとも27日までは、私自身がこれを目にしている。28日と29日についてはわからないが、行った可能性もある。30日は傾眠状態に入っていたので、病室から出なかったと思われる。
 カフェ《エクセルシオーネ》から、固定電話の引っ越し手続きを、エレーヌ自身の声で確認を取らせ、完了する(本人が行わないと受け入れられない)。
 自力で立ち上がったり、座ったりできなくなっているので、トイレを手伝ったり、ベッドに寝かしたりする。
 なお、この日、30年近く書き続けられてきたエレーヌの手帳の記述が終わっている。翌日25日以降は、手帳は白紙のままとなり、二度と記入されることはなかった。
 さらに、この日、長く通っていた下北沢の美容室《ガッツ》の担当美容師カンさんは、病気から回復して元気になったエレーヌの姿を夢で見ている。

10月25日(月)
   仕事のため、病院に行けない。

10月26日(火)
   やはり、仕事のため、病院に行けない。
 11月2日(火)の欠勤届を事前に出す。29日の引越しの後、荷物整理に数日かかるのを予想し、休みを取っておこうとしたもの。しかし、奇しくも現実には、11月2日(火)はエレーヌの葬儀が行われることになる。もちろん予期などしていなかったのに、葬儀のための欠勤をあらかじめ取ったことになる。
 この日の夜に来たメールには、リハビリをやったこと、今後の日々もそれが続くこと、アルブミン点滴を三本やったこと、担当医が「駒込」のことについて私と話したがっていることが書かれている。「駒込」というのはガン治療で有名な北区の駒込病院のことで、そこへの紹介状を書いてもらうことになっていた。新しい引越し先からは駒込病院へは15分から20分ほどで着く距離であり、そうしたことすべて含めて、私は一年前からエレーヌのための引越し計画を少しずつ進めていた。
 もっとも、この日、担当医が私に話したかったのは、エレーヌの衰弱が進行しており、病院を替わるのは困難ではないかということだった。
 




 27日(水):勤めの後、夕方に東京医療センターに向かい、エレーヌを見舞う。少しでもエレーヌにタンパク質を摂らせようと考え、途中でやきとり風弁当やサラダなど買っていく(病院の食事はひどいもので、ご飯や甘いヨーグルト、おひたし、固い焼き魚のようなもののみ。しかも、病種に関係なく、同じ食事)。ビタミンCのカプセルも買っていく。しかし、衰弱がひどく、食欲がない。
 血液の質が急速に落ちており、体内のどこで、いつ致命的な出血が起こってもおかしくない状態になりつつあった。これに対抗するには、積極的なビタミン摂取やタンパク質摂取に努めるしかない。エレーヌにそれを説き、少しでも食べるように勧めたが、ほとんど食べなくなっていた。
 私は翌日の午前から引越しの準備に入るため、エレーヌの夕食後にすぐに辞去した。引越し後の30日頃に、また病院に引越しの報告に来る、と告げたが、エレーヌと会ったのはこの日が最後となった。
 数枚、この時のエレーヌの写真を載せておく。これが生前の最後の写真となった。






 28日(木):引っ越し先の新居のカギを受け取り、新居に入って掃除や整理。
 (医療機関の変更も含め、今後のよりよい療養のために、私の住居近くに越すことが計画されてきており、それが実行段階に入っていた。そういう最中、エレーヌの身体は急激な衰弱へ。もちろん、引越し計画の中止を検討、エレーヌ本人に何度も聞き直したが、彼女はそのまま引越しを遂行したがった。病気に負ける気は全くなく、療養を続けるために、住んだことのない土地に越して新たな人生を始めるという、強い意志があった。身体状況と精神状況のはっきりした乖離が起こっていた、とも見えた。)
夕方、家で奇妙な音がしたので、そのことをエレーヌにメールすると、21時34分にエレーヌより返信。しかし、以下の通りの文面で、もはや意味が読み取れない。文字を書く力も気力も欠如してきているのがわかる。
深夜に異常現象。家の電話機が30分おきに電子音を鳴らし続ける。呼び出し音が鳴るのではなく、誰かが電話機のボタンを押さないと鳴らない音がする。まるで、そこに人がいて押しているように鳴る。エレーヌの霊が来てなにかを告げて鳴らしているような感じで。




 29日(金):世田谷代田から王子神谷のUR11階への引越し(朝9時より)。入院中のエレーヌは来れないので、すべて私と引越業者とで行った。しかし、エレーヌは自ら引っ越しに来て采配を揮うつもりだったらしく、どうして自分を連れに来ないのかと言っていたという。
世田谷代田の旧居には、比較的近くに住む友人の於保好美さんが掃除手伝いに来てくれた。やはり近くに住む南さんに、粗大ゴミの処理をお願いする。新居のほうには、友人の中島慶子さんと大林律子さんが手伝いに来てくれた。
 引越しの最中に、エレーヌから、次のような奇妙なメールが来た。まるで、すでに遠いところに行ってしまっていて、たまの挨拶をしてきたかのようなメールだった。私はこれを見た瞬間、エレーヌはもうダメだ…と思った。
 中島慶子さんと大林律子さんは、帰途、医療センターに寄ってエレーヌを見舞った。友人たちがエレーヌに会ったのは、これが最後となった。引越しを無事済ませたことを伝えると、エレーヌは涙を流して喜んでいたという。
 私はひとりでエレーヌの新居に残り、夜遅くまで整理を続けた。




 30日(土):台風14号接近のため、東京は朝から暴風雨。雨の止んだ後は強風となる。電車の不通や混乱があり、エレーヌの世話をしている人たち皆が見舞いを諦めた。
午前8時の回診記録では、意識に変わりなく、食欲もあったとのこと。
午後2時52分、「疲れる…」と洩らしていたとの記録。
午後4時57分、「大変…」と看護師に言っていたとの記録。
看護師たちによれば、時間によって、眠りがちだったり、起きていたりをくり返していた。亡くなる前に現われることの多い傾眠現象が始まっていたらしい。

 31日(日)午前3時に意識レベル低下。回診の看護師が声をかけたが、反応がなかった。傾眠を超えた状態に入ったことになる。個室に移し、処置の開始へ。
午前4時57分、血圧低下始まる。
午前7時10分、亡くなる。
当直医師側の不手際で、私の家の固定電話に連絡が来なかったため、異常を知ったのは6時過ぎだった。この時点で数名に連絡したが、誰も臨終には間に合わず、最も近い友人も間に合わなかった。
私が到着したのも7時40分だった。
ベッドの上のエレーヌに呼びかけると、エレーヌの目から涙が流れ出た。死の直後の遺体が見せる現象だろうが、こちらの声に反応したように見えた。













2015/10/31

エレーヌ、5年目の命日

 駿河 昌樹
  (Masaki SURUGA)


 2010年10月31日日曜日、ハローウィンの日、午前7時10分、駒沢公園脇にある入院先の東京医療センターで、エレーヌ・セシル・グルナックは68歳で亡くなった。
 暦の情報めいたことを記しておけば、小潮、月齢23.3、友引、旧9月24日だった。

 ずいぶん時間も経ったので、エレーヌの最期の遺像を目にしても、人びとも、はるかに落ち着いた感情で接してくれるようになっているだろう、と推測する。期間を限定して、亡くなった当日に病院で撮った写真の一部を特別に掲載する。
 一枚はピントがずれて、エレーヌがぼけてしまっているが、今になってみると、このぼけ方も、却って、よかったようにも思える。


2010年10月31日、東京医療センターで。

2010年10月31日、東京医療センターで。

  

 今日で5年になる。
 生きていれば73歳ほどで、仕事面では大学を退職しているはずだから、カルチャーセンターの授業だけをいくつか続けていたかもしれない。あるいは、仕事はすべて辞めて、好みの文学や古今の神秘主義の書籍の読書やヨガや執筆などだけに集中していたかもしれないし、フランスに帰国していたかもしれない。いずれにしても、エレーヌがやることは読書とヨガを中心としたものになったはずで、どこに身をおいても基本的には変わらなかっただろう。
 どの場合も、ガン治療を通過した後の、療養を続けながらの生活となっていたはずで、体調によって左右されるものになっていたのは疑いない。

5年前の今日、午前6時過ぎに病院からの電話を受けた私は、北区の住まいからタクシーで目黒の医療センターまで乗りつけたが、7時40分に着いたため、臨終には間に合わなかった。
 こうした遅れには事情がある。エレーヌの容態はすでに午前3時半頃から異状となっていて、当直の若い医師が私の携帯電話にくり返し掛け続けていたらしいが、私は携帯電話を書斎に置いて寝るので、呼び出し音は離れた寝室までは聞こえなかった。もちろん、病院には私の家の固定電話の番号も携帯電話の番号も正式に知らせてあり、家の電話に掛けてくれればすぐに起きたのだが、当直の若い医師は、なぜか携帯電話にだけ掛け続けた。私が、個人的に看護師のひとりに伝えておいた携帯電話の番号にばかり掛け続けたものらしい。当日、妻が重要な香席を控えていて、はやく起きて準備をする必要があったため、私も6時前に起きた。そこへ鳴った携帯電話で、はじめて事態が知れたのである。気のきかないこの若い医師の落ち度は、場合によっては訴訟に持って行けるほどのものだが、その時は落ち着いて考え直す暇もなかったし、後では、これもエレーヌと私の間の運命かと思い、大ごとにしないで済ました。かといって、忘れるというわけもない。
 じつは、この若い医師は、少し前からエレーヌを担当するようになっていたのだが、エレーヌは私に、この医師はどうもよくない気がする、ダメだ、と語っていた。彼がなにかミスをしたわけでもないので、大丈夫だよ、と私はエレーヌに言ったのだが、なるほど、最後という最後に、決定的なミスをやらかしてくれたわけだった。こういう最期になることを、エレーヌは早くから感知していたのかもしれない。

 病院に着いた時からすぐに、まずは、エレーヌの療養や世話に関わった人たちに知らせることからいろいろと始まって、忙しい朝となった。葬儀の手配だけでなく、死亡に関わる手続きのため、日が暮れるまで忙殺された。
エレーヌはたまたま、よりよい療養にむけての新しい生活を始めるために29日に北区へ引っ越しを完了していたので(手配や実際の段取りは私が行った)、すでに世田谷区に転出届を出していた。しかし、北区にはまだ転入届を出していなかった。しかも、亡くなった医療センターは目黒区だったので、死亡届の手続きをどの区役所で行い、埋葬及び火葬許可書を発行してもらうか(これがないと火葬はできない上、当日中に葬儀会社に郵送する必要があった)で紛糾した。世田谷区役所はこの点を不明とし、北区か目黒区へ行け、と拒否した。北区区役所は、まだ住民票を移していないので管轄外と言い、結局、目黒区役所から法務省に問い合わせてもらって、やりとりを数回繰り返した揚句に、ようやく目黒区役所で手続きを完了した。こういうケースは世田谷区役所、目黒区役所、法務省の公務員たちも初めてだったとのことで、そのため、措置を決定するのに時間がかかった。事務手続きが完了した時には、目黒区役所の営業時間は終わっていて、所内の明かりは大かた消され、所々に灯された明かりが廊下に水のように落ちていた。すっかり日も暮れて、区役所を出ると、夜の帰宅時間頃の目黒の喧騒が始まっていた。
疲労困憊し、夜の目黒から車で帰宅の途に就きながら、ずいぶん皮肉なものだと思った。事務手続きを異常なほど嫌悪し、大の苦手でもあったエレーヌが、死去にあたって、生き残っている私にこれほどまでの面倒を残していった…と思い、これがもし逆の立場だったら、エレーヌはなにひとつ事務手続きをやり遂げることなどできなかっただろう、と考えた。こう書くと、私が不愉快に思っていたという印象を与えかねないが、不愉快に感じている暇もない一日だった。

午前中に世田谷区役所に赴いたり、銀行に寄って費用を引き出したりする際には、豪徳寺のアイリス動物病院の院長の“アイリス”先生こと斎藤都さんの車に乗せてもらい、ずいぶんお世話になった。こういう咄嗟の場合、銀行ひとつに寄るのも容易ではない。自分たちの使っている銀行が近所にはなかったりするし、繁華街の銀行に行こうとすれば、交通上の小さな問題が重なっていたりする。
午後からは妻の母が、その日の用事をぜんぶ投げ出して車で駆けつけてくれて、都内をあちらこちら回るという面倒な運転を引き受けてくれた。
「あなたの死に際して、いろいろな人たちがこんなに動いてくれている…」と、都内の風景の中を廻る車の中で、内心でエレーヌに呼びかけた。人の生き死には、記録されることさえないたくさんの出来事の積み重ねや事象の連鎖によってのみ、物理的には成り立っている。どんなに小さなことであれ、どれかひとつでも欠ければ、事態はもちろん、そのようなかたちにはならない。物理的なそれらの出来事のひとつひとつは、そのまま行為者である人びとの心であり、思いや感情にじかに繋がっている。エレーヌの死に際して、すべてを記録することはできなくても、関係してくるすべての人びとの内心や背景にまで可能な限り入り込むようにして、少しでも多くのことを私が見聞きし、私が記憶し続けていくことはできるだろう、と思った。死んでしまったエレーヌの葬儀や死後にまつわるすべてのことは、いわば、エレーヌの身体と見なせるので、今はそれらを洩らさず見続けて行こう、と思っていた。

夜も遅くなって帰宅した後、埋葬及び火葬許可証と葬儀用の写真を速達で送るために、自転車で郵便局の本局まで妻と出かけた。
 その後、家から10分ほどのところにあるエレーヌの新居にひとりで赴いた。将来の療養と、エレーヌのための効果的な世話を考えて、10月29日に引っ越しをしておいた11階の住居だった。
まだ十分に荷を解いてもいない状態で、段ボール箱がいっぱい積まれ、エレーヌが持ち続けてきたもの、集めてきたものだけで埋っている。
不思議な空間だった。私にすべてが任せられていたので、エレーヌ自身は一度も来たことがなく、しかも、エレーヌの物だけで満たされ、主をその日に失ってしまった空間。
エレーヌが30年以上使い続けてきたテーブルや椅子を台所に置いていたので、そこに就いて、カーテンを開けた窓から、エレーヌが見るはずだった夜景を眺めた。エレーヌがすべきだったことを、今は代わりに、私が私の身体を使ってするしかないのが痛感された。
事実、この時から約10か月、この部屋でのエレーヌの遺品整理が続くことになった。遺品を見に来たり、受け取りに来たりする人たちが時どきはあったものの、仕分けや整理や処分は、私ひとりで行い続けた。この作業は“エレーヌの思い出に浸りながら…”などと形容できるほど楽なものでもセンチメンタルなものでもなく、忙しい生活の合間の時間を見つけて、主に土日や祝日、平日なら深夜に行われ続けた。大きな段ボールに物を詰めたり、詰め直したり、それを積み重ねたり、移動させて整理の作業場となる小さな広がりを新たに拵えたり、それが済むとまた作業場を別のところに拵えたりの連続だった。中腰になって、爪先立ちの姿勢で行うことが多かったため、数か月後には、両足の親指の爪裏に血が鬱血し、黒くなってしまっていた。
遺品には細かいものもいっぱいあった。数えきれないメモや書類、書簡、未使用の絵葉書、テキスト、小物などを、座ってコツコツと分類して数時間もすると、疲れ切って、よく足腰が立たなくなった。時どき、水ぐらいは飲まなければ、と思うものの、思いは整理のほうに集中しているので、心身ともに、そんなちょっとした切りかえさえ容易にはできなくなってしまう。多量の本の整理の場合も、大きさで揃えたり、内容で揃え直したりを試行錯誤しながら繰り返すうち、頭がなにも考えられなくなっていく。ある程度の整理が終わると、掃除機を持ってきて小さなゴミを取り、また次の作業にかかる。こんなことが延々と続いた。しかも、自分自身の生活のほうでは、期限のある厄介な仕事をいくつも抱えている上、家事もあって、エレーヌの遺品の整理で疲れ切って帰っても、すぐに寝ることなどできなかった。

私は、今でもこの時期を“静かなひとりだけの地獄の10か月”と呼んでいるが、亡くなったエレーヌの思い出に悠長に耽っていられる彼女の友人たちとは、ここを境に、まったく別の心境に入っていったのを認識している。誰ひとり手助けにも来ないエレーヌのフランスの親族への憎悪は言い表せないほどだったし、のんびりとエレーヌ喪失の悲しみに浸っているだけのお友だちたちへの不快感も、言語を絶していた。エレーヌへの私自身の哀惜の思いも、もちろん強かった。そうした様々な感情や思念を内部にすべて抱えて、しかも圧し隠しながら、遺品の現実的な肉体労働に貴重な時間を浪費していくのは、苦役以外の何物でもなかった。エレーヌの大病や死の衝撃はもちろん大きかったが、その後に私個人を襲った時間的・肉体的な損害にもきわめて大きなものがあった。

2011年に入ると、エレーヌの遺品整理に纏わる心労や過労はいっそう耐えがたくなり、街を歩いていたり、どこに行ったりしても、普通の生活を営んでいるかに見える世間の人々が不愉快に映ってしかたがなかった。私は時に、なにか世の中がひっくり返るような大事件が起こってしまえばいいのに、と強く念じるようにもなった。いくらエレーヌのこととはいえ、ここまで、こんな非生産的な下らない物品整理や様々な手続きなどで、どうして長々と煩わされねばならないのか、どうして自分自身の生を奪われ続けなければならないのか(事実、フランスの友人たちは、エレーヌのことは残念だったが、しかしもう忘れて、「あなた自身の人生に戻るべきだ」と助言してきていた。これがフランス人流なのか、と再発見させられたものだった…)、そんなふうに、どうしても思いは募ってしまった。私は、そんな自分の心境を観察しながら、こんなふうに、予想もしなかったきっかけから、人の心というものは怨霊のようになっていくのか、こういうこともあるというわけか、と心の推移を追い続けていた。
東日本大震災が起こったのは、そんな時だった。ちょうど確定申告の時期で、自分の申告だけでなく、亡くなったエレーヌの面倒な申告書も、一週間ほどかけて神経を擦り切らしながら作成し、ようやく終わって午前中に提出を終えた、その午後のことだった。
あのような大災害に際して抱く感慨としては不謹慎なものながら、しかし、私は、あゝ、ちゃんと運命の均衡は取られるものなのだ、不幸なのは私だけではない、不幸が他の人たちにも、少しは平等に分かち与えられたのだ…と、一気に心が晴れるような気持ちになった。あの大災害の起こった夕方からその後の期間、私は、自分ひとりが…という苦痛から解放されて、急速に晴れ晴れとした心持ちになっていった。津波被害や地震被害の後のさまざまな光景が、私が毎日ひとりで時間を費やしているエレーヌの新居の中の混乱ぶりや一種の廃墟ぶりと重なって、東北にも、私と気持ちを分かち合える人びとがたくさん出現した、と感じた。

こう記したところで、私に起こったことのほんの一端を記すにすぎない。私にとって確かなのは、5年前の今日、エレーヌのことに深く関係しながらも、誰ひとり分かち合える者のいない、私ひとりだけの孤独な物語が始まった、ということだった。
エレーヌに関わる厖大な塵労のこの個人的な物語は、じつはまだまだ幕を閉じていない。今日もこれから支払いに赴くが、エレーヌの残した多量の書籍や遺品がまだ数十箱分あり、トランクルームに保管されている。5年間を経ても、月々の出費は続いており、すべてを処分してしまえば済むには違いないものの、そのためには一品ずつ判断を下さねばならず、希少価値のあるものも多量に含まれている以上、手放すにしても然るべき人や業者の手に渡るように配慮したくもある。しかしながら、ゆっくりそうした作業のできる時間は私には全くなく、ある意味、仕方なしに保管だけが続けられている。
エレーヌのすべてはとうに終わってしまっている、とも言えるかもしれないが、少なくとも私にとっては、まだまだなにも終わっていない、とも言える。


今日は、こんな5年目の、エレーヌの命日である。



2015/10/06

2010年の9月・10月の頃、ふたたび。




 
 
   駿河 昌樹
  (Masaki SURUGA)



 これは、2010年9月17日のエレーヌ。
 来客があって、楽しそうにしている。痩せているが、まなざしも生き生きして、元気そうに見える。

 8月30日に退院してからは、家で療養に励んでいた。
 彼女の回復を願う私や友人たちは、とにかく、ビタミンとタンパク質をしっかりとり続け、筋肉をつけるように、近所の散歩も含めた適切な運動を少しずつ行い、ムリにならない程度に家事も行って、後は休息をとるように勧めていた。
 体力がどうしても落ちているので、しかたないとは言え、実際にはエレーヌは、良質の食事をとる努力はあまりしていなかった。ビタミンCを少しでも多く摂るように、と思ってはいても、胃の不快感があり、あまり食べる気にはならなかったらしい。9月8日(水)の私の手帳には、エレーヌと電話した後の記録がこう記されている。「胃の調子よくない。昨日、嘔吐。夜、胸やけ。家のまわりを歩いている。腹を温め、足湯をするように勧める…」。
 前年の手術で、卵巣と子宮を切除し、ガンが広がっていた腹内の脂肪の大網も切除していたが、エレーヌから胃の不調を聞くたび、胃腸へのガン転移が起こっていないかと心配になった。病院での治療中に逆流性の胃炎が起こっていたので、そこから来た不快感かとも思われたが、いずれにしても、本人としては、あまり積極的に食べる気になれないような感覚が胃には起こっていた。
 この時期、私個人としては、仮にガンの転移や増殖があったとしても、それを根絶するのを考えずに、共生していくような方向を採るしかないと考えており、医療センターの医師も、エレーヌの体力を考えればその方向で行くしかないとの見解だったように思う。
 そうなると、少しでも栄養をつけてもらわねばならないのだが、胃の不快感がこの点で妨げとなってしまっていた。
 ガンが低体温を好むというのはよく知られてきているが、エレーヌはもともと体温が低いたちなので、体温が少しでも上がるよう、筋肉ももっとつけてもらいたかったが、この方向でも、思うようには進んでいかなかった。

 2010年9月や10月は、さまざまなことが、忙しく、慌ただしく錯綜していて、なかなか簡単に記すことができない。エレーヌのガン治療と療養をよりよいものにするために、医療機関を替えるのを予定していたし、そのための引っ越し計画も進めていた。エレーヌ本人はもちろん病身で大変だったが、事務的な統括はすべて私が行っていたし、引っ越し先によさそうな物件を調べてはいちいち不動産やURと折り合いをつけて下見に行くのも私で、毎週、エレーヌの家に見舞いに行く他は、物件めぐりに費やしていた。自分の仕事もその準備もあいかわらず忙しかったので、毎日、3,4時間も眠れればいいほうだった。
 エレーヌの家に行く時でも行かない時でも、日々の生活の全時間が、いわばエレーヌによって占められていたわけだが、エレーヌのほうは実際は、あまり私に対しては協力的ではなかった。エレーヌの家に行けない時には、彼女の体調を電話やメールで知りたかったのだが、こちらから電話して聞かないかぎり、全く情報を上げて来てくれない。状態が大丈夫なら、大丈夫だということを簡単に伝えてほしい、と何度となくくり返しても、たった数行のメールさえ来ない。食事でなにが摂取できているのか、できていなのか、そんなこともこちらとしては常に頭の中で把握しておきたいのだが、こちらが家に行ったり、電話したりしないかぎりは、ほぼ、全くといって知りえない。エレーヌの家に見舞っている友人たちからさえ、なにも情報は入ってこなかった。
 体や意識全般が、なにかと自分の思い通りにならなくなっていく病気のせいもあろうが、見舞いや介護にエレーヌの家に行っていっしょに居る時も、いろいろと齟齬が生じたり、私をないがしろにしたりする態度が募った。あまり会わない他の人たちには、ずいぶん楽しそうに話したり、会ったりするにもかかわらず、いちばん世話をしている私には、ぶっきらぼうになったり、失礼だったりすることがあった。これは、私だけに対してではなく、同じように身近に接する機会の多い友人たちに対しても見られた。重病人が示す態度のひとつなのかもしれないが、これは、いちばん疲れる世話をし続けている者たちにとって、心の底が崩れ落ちていくような落胆を齎す現象といえる。
 しかも、エレーヌのことで一切動こうともしないフランスの親族の態度には、表向き冷静に対処しつつも、さすがに腹に据えかねるものが募った。私はまだいいとしても、母や妻の苛立ちは大変なもので、母は、自分の息子を過酷な隷属状態に落し込んだエレーヌを呪わんばかりだった。それに対して、私が、とにかく大病の緊急事態だから、と抗弁すると電話口では必ず喧嘩になり、2010年の夏以降、エレーヌが死ぬまでは、私と母は絶交状態になった。妻も妻で、2009年以来、家庭の普通の暮らしが一切失われた原因となったエレーヌの存在になんとか耐えていたが、それでも、私がエレーヌの見舞いから24時を過ぎて帰宅したりするのをくり返すのを見ると、こんな状態で私の身が持つのかという話に当然なっていく。それを私が黙らせたり、激しい返答をしないように黙ったりすると、さすがに、こちらはこちらで家庭が崩壊していく寸前の雰囲気になっていっていた。
 今だから記しておくが、こんなふうにともに耐えてきていた妻に、彼女のせいでエレーヌが病気になったのではないか…といった内容の話をした人たちもいた。

 手帳の10月11日のページには、「エレーヌにも、人にも、そう見えずとも、理解されずとも、そのつど効果的に迅速に的確にエレーヌを救う算段を、裏で続けていく態度でいよう。まるで影の救済者のように」と、自分の心境を吐露したメモ書きがある。
 前日の10日には、北区への引っ越しを頼んだ引っ越し屋が見積もりに来る用事があったので、エレーヌの家に長く居たが、その際によほどがっかりさせられることがあって、翌日にこんなメモを書きつけたのだろう。よく覚えているが、このメモをした時、私は心の中で、もうエレーヌの心から離れようとしていた。心の中では離れつつ、身体的・社会的な世話だけをしていこうと思ったのだった。
 今になってふり返ると、自分のことというより、ドラマの登場人物のひとりを客観的に眺めるように見直せる。わがままに、理不尽になっていく病人に、よく耐えたものだと思いさえする。
 そういう私の決意に呼応するように、次の日の12日には、エレーヌは急速に体の硬直や浮腫みの再発に陥る。歩行も起き上がりも困難になり出し、13日には介護ベッドが運び込まれることになる。19日(火)には、妻が駒沢の医療センターの医師に電話して緊急入院を頼み込み、20日(水)、仕事で身動きが取れない私にかわって、やはり妻が、わざわざ朝にエレーヌの家まで出向いて、エレーヌの友人の慶子さんや動物病院のアイリスさんとともに、駒沢の医療センターに連れていくことになる。私もその日の夕方、勤め先から病院に向かい、エレーヌの様子を見たが、ひとりでベッドから起きる力はもう無く、ベッドの上で位置を変える力もなく、トイレに連れて行って排便させたり、歯磨きをさせたりした。
 それから31日の死までは、エレーヌは一直線の衰弱過程をたどって行くことになった。

 エレーヌが最後の入院をしたこの20日、私は天界にいるような夢をはっきり見た。天使たちが太鼓のようなものをいっぱい並べて、そこで忙しく立ち働き、お互いに仕事を分担しあっている夢がひとつ。もうひとつは、大きな病院の上から、下の庭を眺めている夢で、病院の広大な庭には、見知った医師たちや私の友人の医師などが楽しそうにしているのが見えた。そこに私も下りて行って、合流しようかな、と思ったところで、目が覚めた。

2015/08/15

マリア像の移動の思い出





  駿河昌樹
  (Masaki SURUGA)


 このマリア像は、エレーヌとルルドLourdes*を訪れた時に買った、ごくありふれた安い土産物で、ふだんは私の家に安置して、毎日、感謝礼拝をしている。
  *https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%AB%E3%83%89

 このマリア像にはふしぎな逸話がある。

 2010年夏、エレーヌの衰弱が激しくなった頃、回復を祈って、このマリア像を病室に持って行ったことがあった。
 マリア好きのエレーヌが気持ちを集中する一助になるようにと、ベッド脇の棚に置いてきた。

 ところが、しばらくして、このマリア像は忽然と姿を消してしまうことになる。病室は、着替えや書類などでなにかとごたごたするもので、しかもエレーヌは、お世辞にも整理上手とは言えない。たぶん、バッグのどこかか、紙袋のどこかにでもまぎれ込んでしまったのだろうと思い、病室内のすべてを探してみたが、いっこうに見つからない。
 エレーヌに聞いても、自分はまったく触っていない、どこにもしまった覚えはない、ということで、所在がすっかりわからなくなってしまった。

 数週間してから、書類を取りに行く必要かなにかで、炎暑のさなか、エレーヌの家に出かけて行った時、主人不在の家のぜんぶを一応見まわってみたら、寝室の奥のほうの木床の上に、このマリア像がぽつねんと立っていた。
 病院に居て家に戻っていないエレーヌが置くわけもないし、もちろん、私でもない。時々、エレーヌの荷物をこの家に置きに来たり、別の荷物を取りに来たりしてくれるエレーヌの友人たちに訪ねたが、誰もこのマリア像のことは知らなかった。病室にあるのは見ていても、バッグにしまったりはしていないし、ましてや、エレーヌの家に運んで、わざわざ寝室の奥のほうに安置するようなことはしていない。
 みんなの話を総合すると、奇妙なことながら、マリア像はひとりでに移動して、エレーヌの家の寝室に立ったということになる。

 これだけでもとんでもない話だが、マリア像が立っていたあたりが、じつは、いわくのある場所だった。「いわくのある」などというと、ちょっと言い過ぎかもしれないが、私がだいぶ前から何かあると感じていた場所で、近寄るだにちょっと不気味な、異様な感じのあるあたりだった。

 このことを話し出すと長くなるので、ごくかいつまんで言うと、私の霊視によれば、ここは巨大な動物霊が居座っている場所だった。
 話が話なので、眉に唾つけて読んでいただいてけっこうだし、これが他人から聞かされる話なら私も信じはしないが、自分が経験したことなので、真実などという大仰な言い方はしないまでも、自分が感じ、認識し、経験した、という点では本当のことだった、という他ない。
 エレーヌの家の寝室のそのあたりと、壁を隔てて、外の庭まで広がったあたり、つまり家の中と外とを跨ぐようにして、狸のような、猫のような、そのどちらでもないような、両方をあわせたようでもあるような、そんな巨大な動物が居座っているのが私には見えていた。ひょっとしたら、昔の伝説に出てくるヌエのようなものだったかもしれない。
 肉眼でいくら睨んでみても、そこにはなにも見えない。そこから目を離し、心の目でそこを振り返ると、ありありと見える。特に、夜に自宅で寝る時、エレーヌの家を想像すると、よく見える。
 想像の産物と言ってしまえば、もちろん、それで済む。ふつうなら、そう考えて済ます。しかし、生活のおりおりで、ふとこれが思い浮かび、ありありと見えて、気になってしかたがなかった。 

 エレーヌの衰弱がいよいよ募り、病院の担当医師からも、もう何が起こっても覚悟しておいてください、ホスピスに本当は移ったほうがいいのだが…と言われ、治療行為もすべて放棄された時点で、私はこの動物霊に対して、自分で働きかけてみることにしたのだが、…この後は長くなるので、また別の機会に書こうと思う。
 ここでは、とにかくも、まさにこの動物霊が居座っていた場所に、どういう具合でだか、マリア像がひとりで赴いて、そうしてぽつんと立っていたことを記しておきたいと思う。寝室に立っているマリア像を見つけた時、もちろん私はたったひとりで、しかも、動物霊を感じる場所に向かっていたわけだが、恐ろしいような、畏れ多いような、ふしぎな感覚に襲われた。
 エレーヌは、結果的には、この時の衰弱の危機を奇跡的に乗り越えたが、マリア像はその後もこの場所に残しておき、8月末にエレーヌが退院して来るまで、そのままにしておいた。

 マリア像のこの移動現象については、真相を知ろうとして(やはり、誰かがひそかにエレーヌの家に持って行ったのではないか?寝室の奥に安置してきたのではないか?etc.)、数人に話したが、誰もこのことについては知らなかった。
 もちろん、エレーヌにも言ったが、彼女の答えはいつものようで、「そういうこともあります」とか「きっと、必要があって移動したんでしょう」…だった。

 現在、このマリア像に対しては、毎日、水を交換して、感謝礼拝をしている。

(感謝礼拝とは、神道の礼拝法で、現状について、すべてについて、「生かしていただいてありがとうございます」との念だけを捧げるもので、生活上・人生上の一切の世俗利益についての要求を行わない祈り方である。一般に、世界中のあらゆる神仏に対しては、世俗のいかなる願望も欲望も向けてはならないため、この方法以外は許されない。念はチャンネルなので、願望や欲望の成就を祈ると、ただちに、そうしたレベルの、願望や欲望の圏域の霊たちに繋がってしまう。)




右上の装飾品は、エレーヌが若い日に旅した中近東で買ったもの。
これも、ごく安いありふれた土産物。
左上の木の十字架は、ルルドで買ったもの。
これはしばしば、日本の住居での浄霊の役に立った。





 












2015/08/14

8月18日、エレーヌの名の日「聖エレーヌ」


ともに故郷のローゼル県、サン=シェリー・ダプシェ近郊の山中で。
ブルーベリーやラズベリーを摘みに。
ついでに…
エレーヌによく似た聖アンナ像
(レオナルド・ダ・ヴィンチ画)



駿河昌樹
(Masaki SURUGA)



 フランスには、ふつう、個人の記念日がふたつある。誕生日と名の祝いの日だが、後者は、名付けに用いられた聖人の記念日である。
 子どもの誕生日を祝うのはもちろんだが、大の大人たちの場合でも、歳をとってさえ、家族や友人たちが集まってお祝いの食事会を続けるのがごくふつうのフランスの生活で、このあいだ誰かの祝いが済んだと思っていたら、今度はこっちの人の…というふうに、なにかと忙しい。なにを買って持って行こうか悩まされるので、楽しいような、面倒なような、というのが、けっこう本音ではないだろうか。

 エレーヌの名前の日、聖エレーヌの記念日が近づいている。8月18日がその日、Sainte Hélèneだ。
 「エレーヌ」という名は、ギリシア語のhelêから来ており、温かさや熱を意味する。名前としては、紀元前9世紀、ホメーロスの『イーリアッド』に初出。よく知られるように、ゼウスとレダの娘の名で、ギリシア神話上の重要な名前であり、世界で最も美しい女性を意味する。20世紀には、よく用いられる名前50のうちの16位となった。
 8月18日が記念日とされる聖エレーヌは、ローマ皇帝コンスタンチヌスの母で、寛大で気前がよいので知られ、キリスト教の聖所を保護するために大聖堂を三つも建築させたことで知られる。
 さて、名前としての「エレーヌ」、その性格面は、…まぁ、このあたりは通俗的な占いに似て眉唾ものだとしても、夢見がちで理想主義者が多い、ということになっているらしい。皮膚の表面までぴりぴりと敏感で、世の残酷さや不条理に我慢がならない。こうした面の感情が激しいので、自分を守るためにしばしば象牙の塔に籠りがちになる。誇り高い振る舞いが近づきがたく見せるが、美しさの裏には、往々にして、恥ずかしがりな性格が隠されている。ひとたび心の壁を乗り越えてきた相手には、「エレーヌ」という名を持つ女性は、もう、何ひとつ隠し立てはしない。自発的で、人間味に溢れている彼女は、愛する相手を助ける機会を逸することはない。友情や愛情は長く続き、「エレーヌ」という名を持つ女性は、近くにいる人たちに、いつまでも誠実で献身的であろう…
 こういった記述が、フランス版の名前の占い辞典的なものにはいっぱい見つかる。

 話半分にこうした記述を読んでみていると、それでも、我らがエレーヌ・グルナックは、けっこうこれを体現した人物に近かったような気になってくる。ふしぎなもので、通俗な占い本などが、案外と馬鹿にできない気にさせられる。



 ここでは、くわえて、エレーヌがいつも暗唱していた祈りを紹介しておこう。
 最初の写真は、エレーヌの自筆で、聖母マリアへの祈りと、父なる神への祈りが書かれている紙片を撮ったもの。どちらもカトリックの伝統的な祈り方で、内容的には、エレーヌ独自のものではない。





 「 聖母マリアへの祈り

  マリア様、あなたを讃えます。
  聖寵の女神よ。
  神はあなたとともにおられ、イエス様はあなたの祝福された胎の実り。
  聖なる処女マリア様、神の母よ、哀れな罪人であるわれら(私)を憐れみたまえ。
  アメン」

 「われらの父なる神への祈り

  天にまします我らが父よ、
  御名が尊ばれんことを。
  御国が到来し、
  天と同じく地にも御意志が為されますように。
  今日われらに日々の糧をお与えください。
  われらの非礼をお許しください。
  われらがわれらに非礼を働く者を許すごとく。
  われらが誘惑に屈するがままになさらず、
  われらを悪から解き放ってください。
  アメン」
  
  それぞれの教会の訳があるが、 ここではフランス語に近い訳を掲げておいた。
  これは、エレーヌの遺骨をフランスに送る際、引き取りに来たフランス領事フィリップ・マルタン氏の前でも唱えたが、さすがに、あらゆるフランス人が暗唱している祈りで、いっしょに唱和してもらえたのを覚えている。

 カトリックにしろ、プロテスタントにしろ、エレーヌはキリスト教徒ではなく、むしろ、宗教としてのキリスト教にはきびしく批判的だった。しかし、幼時からのフランス社会とのふつうのつき合いの過程で、もちろんキリスト教にはつねに接しており、キリスト教の神秘主義には格段の関心と熱意を持っていた。マイスター・エックハルトをはじめ、さまざまなキリスト教神秘主義の書籍を耽読し、今も私の手元に多くの本が残されている。
 非キリスト教徒として、しかし、霊性探求の求道者として、直接にイエスや聖母マリアに繋がる道をエレーヌは選んでいた。まとめて言うと、キリスト教の地上の権力組織の闇と澱みを避けて、じかに聖性にアクセスする試みが、エレーヌにおける対キリスト教課題だった。
 彼女の神秘体験の中に、聖母マリアの出現やイエスの出現がたびたびあったことについては、すでにこのブログの他のところでも触れた。それを聞かされるたびに、いちばん厳しい批評者でもあった私は、それは寝ぼけていたのではないか、とか、つよい見神願望が齎した幻覚ではないか、とか言ったものだった。しかし、エレーヌがある段階以上の霊能者であることはよく知っていたので(私自身、人生上の多くの問題について、彼女の霊能力の恩恵に与った)、こうした、一見意地のわるい批判は、エレーヌの実体験に纏わりついてくる幻影や意識内での誤魔化しをいっそうきれいに取り除きたいからこそのものだった。
 
 二つ目の写真には、インドの女性聖者アーナンダマイ・マー*の短い祈りが見られる。生きながらにして、神とじかに繋がり続け、多くの弟子たちに取り巻かれていた有名な聖者で、エレーヌはこの聖者についての書籍も数冊、本が崩れるほど読み込んでいる。
 やはりエレーヌ自筆で書かれたこの紙片には、アーナンダマイが弟子たちに与えた、効果的な力強い祈りの文句が記されている。
 * (アーナンダマイ・マーについてはウィキペディアにも記されている。
   なお、アーナンダという名自体は、もちろん、仏陀の十大弟子のひとり阿難にも関わっている。) 
    https://en.wikipedia.org/wiki/Anandamayi_Ma 


 「アーナンダの祈り

 神よ、あなたに完全に私を捧げます。私を、あなたのお気に召すようになさってください。あなたのお望みになるすべてに私が耐えられるように、純粋な喜ばしい力だけをお与えください。」

 だいたいこんな内容の祈りで、求道者や信仰家、霊能者たちならすぐにわかる、簡潔で短い見事な祈りとなっている。ここに掲げた訳はとりいそぎの一応のものなので、役立てたいと考える人があれば、自分なりに訳し直して使ってもらいたい。
 というのも、よく言霊という言い方がされる通り、祈りや呪術の際の言葉の選択、配列、口調などは、まさに命そのもの、力を発揮できるかできないかのスイッチそのもの、門や扉そのものだからだ。
 エレーヌは、占いにおいて、とりわけクリスタルの振り子による手法に秀で、つねに百発百中で予言を行った。その際、質問内容を頭の中で簡潔に言語化するのだが、その言語化の仕方が、驚くほどパフォーマンスに影響する。
 たとえば、「8月18日は晴れる」と「8月18日の天気はよい」は、ふつうの生活者にとってはまったく同じ意味だが、振り子は同じようには反応しない。
 占いのすべてが、こうした言語配列の妙にかかっているのを、エレーヌのさまざまな占い実践の現場に立ち会った私は実地で見続けた。言葉の選択・配列は概念の選択・配列であり、言葉や概念はそのまま宇宙真理の見えない流れにそのまま繋がっているので、それらの選択・配列をちょっとでも間違うと、真理の別の扉を開けてしまうことになる。
 言葉や概念、思い、感情は、それ自体が力であり、鍵であって、用い方や扱い方に注意をしないと、いっこう効果がでないということにもなれば、大変なことにもなる。

 こんなふうに、キリスト教の祈りも唱えるかと思えば、同時にインドの聖者の祈りも唱えるというのが、エレーヌだった。
 宗教を混淆していたというわけではない。
 彼女には、いわば、聖者主義とでもいうところがあった。
 霊能者として、見神者として、しっかりした個人的な能力を持った人々だけを尊重し、彼らと直に繋がって(聖者たちには生死の区別も時空の差異もない)、教えや助けを求めるという姿勢がエレーヌには強かった。
 あらゆる宗教は、そうした聖者たちの言行を記録し伝承するための器であり、それ以上のものではありえない。聖書も、聖人たちの言行録も、一字一句に拘って読み過ぎれば、かならず誤りに陥り、狂信を生む。信者たちというのは、能力もないのに、元祖の霊能者たちの権威に縋ろうという人々であり、この人々にはそれなりの価値や役割があるにしろ、それを超えることを許すべきではないというところが、自身霊能を持つ神秘家であったエレーヌにはあった。
 聖者たちは、どの宗教に属する人であれ、たがいに聖者どうしの直接的な繋がりが可能であり、キリスト教や仏教や神道といった差異を個人の能力において超越している。

 大病に罹ってからのエレーヌは、事実、日々の礼拝としては、私が勧めた神道の礼拝を中心的に行っていた。これは、日本列島に居るかぎり、神道のアマテラスオホミカミの名がもっとも強い力を与えてくれるためで、ヨーロッパに行けば、たちまちこのアマテラスの名の力が弱まるのは、霊能のある者ならみな体験している事実である。ヨーロッパでは、聖母マリアの名の強さが絶対である。

 このページでは、ふだん隠している神秘主義的な話に踏み入ったが、これこそ、まさに、いかにもエレーヌらしい領域の話ではある。