2013/10/27

エレーヌ・グルナック逝って3年




パリで

故郷サン=シェリー・ダプシェの家族の墓の前で。
エレーヌ自身の遺骨もここに埋葬された。





 駿河 昌樹 
 (MasakiSURUGA)                                   



 エレーヌ・グルナックが逝って、今年20131031日でちょうど3年が経つことになる。


 仏教的な「三回忌」という言い方は、あえて、しないでおきたい。
日本人は「三回忌」というような表現に慣れていて、うっかり口に出しがちだし、エレーヌも仏教にはとても興味があったが(死ぬ間際まで、道元や空海に関心があった)、しかし、あまりに多くの宗教や心霊関係のさまざまに興味があり過ぎたがために、仏教だけを選ぶということはできなかったし、日本のほうがフランスなどより遥かに肌に合っていたとはいえ(だいたい、彼女は最後の10年ほどをフランスに帰らなかったし、文学や思想や芸術面を除いて、フランスへの興味を完全に失っていた…)、日本人的なあり方にぴったり自分を重ねようともしなかったので、「3年目だ」とか、「もう3年が経つのか」とか、そんなシンプルな言い方のほうがよいように感じる。日本ふうの言い方や仏教ふうの言い方を避けるというわけではなく、そうした表現を受け入れた瞬間に他のものにむけて思いを閉じてしまう感じ、特定のかたちを成して他のものをそれとなく排除してしまうような雰囲気、そういったものをエレーヌがことのほか嫌ったことを忘れないでおこうと思うのだ。


2011年も2012年も、1031日には、エレーヌゆかりの散歩をしてみた。彼女が亡くなった東京医療センター(目黒区だが、駒沢公園のすぐ隣り)の産婦人科病棟に行って、そこから三軒茶屋まで歩き、さらに代田1-7-14の彼女の家まで歩く。そうして、エレーヌがよく行った近くのガストでなにか食べてみる。あるいは、三軒茶屋で食べてみる。そんなふうにして、エレーヌの最後の10年ほどのあいだの時間に戻って、思い出の湧くのに任せてみようとした。
今年2013年は、10月末から11月まで個人的に忙しいので、こうしたエレーヌ散歩ができないが、ちょっと日をずらして、同じようなエレーヌ巡礼を、やはり、やってみようと思っている。


エレーヌのことを、彼女の馴染んだ地を訪ねながら思い出したいと思っている人には、エレーヌが長く住んだ世田谷区代田、よく買い物に出た下北沢、三軒茶屋、道としては代田から下北沢までの道や途中の北沢川緑道(春は桜がすばらしいので、エレーヌは桜道と呼んでいた)、三軒茶屋から代田までの茶沢通りや、代沢十字路のサミットを曲がって家に到るまでの淡島通りあたりが、もっともエレーヌらしい場所としておススメできる。
もちろん、10年ほど住んだ世田谷区北沢1124の池ノ上の二階建ての住まいや、なにかといえば歩きまわった渋谷、それも特に東急プラザの紀伊国屋書店や若林折返所行きのバス停、同じように新宿の到るところ、特に新旧の紀伊国屋書店、新宿郵便局近くのかつてのフランス図書あたり、野良猫の保護などで馴染みになった豪徳寺あたり、長いことフランス語やフランス文学を講じた横浜朝日カルチャーセンター、新宿朝日カルチャーセンター、藤沢の慶應大学SFC、四ツ谷の上智大学、池袋の立教大学、駒場の東京大学、少し古いところでは、鶴川の和光大学や品川の旧東京水産大学などもある。映画館に到っては…、彼女が出没しなかったところはない。ロードショー館ばかりか、たいていの名画座にも通っていたので、エレーヌより先に逝ってしまった映画館もいっぱいだ。
エレーヌがヨガを指導していた大船(と藤沢のあいだ)の長福寺も、エレーヌ自身の霊にとってなじみ深いところだろう。


逝った人を思い出すのには、心の中だけで十分という考え方もある。もっともだと思うが、実際の場所というのが、やはり、思い出しの強力なスイッチの役割をするのも事実だ。あそこをあんなふうにして歩いていた、あそこに凭れかかっていた、あそこでなにか食べていた、などという記憶が、場所によってつよく呼び起されることも多い。場所には、過ぎ去った(と一般には思い込まれがちな)時間のあれこれもぴったりとこびり付いていて、そこに行くと、それらが立ち上がってくる。過ぎ去ってなどいない現在そのもののように。時間をどう考えるか、これもさまざまだが、過去や現在や未来という便宜上の区分けはどうやら正しいわけでもないと、そんな時には思わされる。


逝った人を思い出し供養するのが望ましいし、そうするのは当然のことだという考え方は、日本人には馴染みがあるものの、いや、思い出す必要はない、生きている人は生きている自分の生活に集中すればいいのだ、という考え方もある。
そう考える人が、エレーヌについてのこの文を見ることは殆どないだろうが、そういう考え方もありだろうと思う。さびしい態度でもないし、合理的かもしれない。むしろ、正確でもあるかもしれない。というのも、死者を思い出すといっても、思いの中に現われるのはこちらの持っている記憶や好みから作り上げられたイメージなので、けっして死者自身でなどないのだから。勝手なイメージを作り出したり、保とうとし続けたりするほうが、よほど死者とのつながりを妨げるのかもしれない。だいたい、死者は死を経て、すでに生前の性格や方向性から解放されているはずなのだ。生前のイメージや生前の情報から得られた“その人らしさ”に死者を固定し続けることほどの冒涜は、本当はないのかもしれない。
しかも、古今東西の宗教的思考のうちでも、最高峰のものがつねに提示してくるように、けっきょく、生も死もたいしたことではない、それらに縛られるな、といった助言を思い出せば、死者を「死んだ」と思うことさえ、大いに間違った態度かもしれない。
少なくとも、エレーヌ自身は、これに近い考え方をしていた。


以前にも少し書いたと思うが、エレーヌが死んだ時、わたしに言い残されたエレーヌの遺言めいた言葉に、あえて従わなかった部分が、じつはある。
ひとつは、誰にも死を教えないでほしいということ。
また、葬式をしないでほしいということ。小さな葬式をしたとしても、誰も呼ばないでほしいということ。
また、墓はいらないということ。どこか「そのへんに」骨を捨ててほしいということ…
葬儀をしない?誰にも死を伝えない?
…とんでもない、とわたしは思った。エレーヌがそこそこ幸せに日本で生きられたのは、彼女の友だちや学生たち、同僚たちがいてくれたからだし、まさしく日本人的に親切に接してくれたからではないか。北原白秋の『からたちの花』の歌詞ではないが、エレーヌを取り巻いていた日本人たちは、「みんなみんなやさしかったよ」なのではないか。死の時に臨んで、そういう人びとにちゃんと報告し、できれば別れに出向いてもらって、それなりのけじめをつけるべきではないか。
こう判断したので、わたしはこの点について、エレーヌの遺志を修正した。なんでも故人の遺志を尊重するというわけにはいかないのだ。けっきょく、わたしはなるべく多くの人に死を知らせることにし、葬儀の日時も知らせようと努めたし、葬式は小さなものどころか、100人以上が集ったそれなりの規模のものになりもした。
墓はいらないから「そのへんに」骨を…という要望も、エレーヌの身勝手な妄想からきているものと判断して、無視した。だいたい、「そのへんに」という要望とともにエレーヌが望んだ提案は、できればエベレストの上に骨を撒いてほしいとか、それが無理ならアルプス山系のどこかとか、ロッキーとか、富士山の頂上でもいいとかいうもので、ずいぶんとトンデモな要求ばかりだった。エレーヌにこういう突飛なところがあったのは、そろそろ、知人たちに知らせてもかわまないだろうと思う。
わたしとしては、都内や近辺に墓を作ったり、うちの墓に入れたりしようとも考えたが、彼女の死後4カ月して、まるで日本の守りがエレーヌの旅立ちとともに壊れたかのように東北の大地震と福島原発事故が起こったため、都内にエレーヌの墓を作ったりしたら、将来、放射能汚染のために墓参りにさえ来れなくなるのではないかと危ぶんだ。そのため、フランスの故郷の家族の墓地に送るほうがよいだろうと思うようになったが、ちょうど、故郷の妹が遺骨の返還を強行に要求してきてもいたので、(エレーヌの病気や死に関してなにもしなかったこの妹が…という思いに、当時はずいぶん苛立たされたが…)、これ幸いとばかりに、フランス領事を通じて移送した。
こんな後日談も、まだ語り尽くしていないエピソードもいっぱいあるが、忙しさの合間を見つけて、今後、記せる時には記しておきたいものと思う。


彼女は死の時まで、あらゆる宗教や心霊関係の蔵書を手放さなかったが、晩年の2年ほどの間、宗教的な関心としては、お馴染のクリシュナムルティ、空海、道元、イスラム神秘主義、キリスト教神秘主義、中国の宗教思想、シャーマニズム、ネイティヴ・アメリカンの宗教・世界観、女性魔術師や女性神秘家などに主に向かっていた。これらに関しての多量の本は、今もわたしの手もとに残されている。
他方、日々の“信仰”的行為としては、日本神道の感謝礼拝をするのを旨としていた。毎日、水を供えて天照大御神に礼拝し、また、線香を焚いて先祖への感謝礼拝をしていた。これはわたしが勧めたものだが、一切の頼みごとをせず、ただ〈在ること〉への感謝だけをする神道の礼拝のしかたを最上のものとして受け入れていた。
キリスト教的な枠組みから外れたかたちで、イエスと聖母マリアに親しんでもいた。2009年から2010年、とりわけ死の近い頃によく聞かされたのは、イエスとマリアがたびたびエレーヌを見舞ったという話だ。病院に見舞いに行った際、エレーヌとふたりだけになると、彼女は入院中の病室のカーテンの隙間を指さして、「昨夜、イエスがそこに来て、黙ってわたしを見続けていた」といった話をよくした。ふつうには妄想とか幻想とのみ受け取られるたぐいの話だろうが、30年間をいっしょに神秘修行に費やしてきたわたしとエレーヌの間では、十分に意味のある話だった。
もちろん、重病のさなかのエレーヌが見た幻想にすぎないのでは、という疑いを挟まなかったわけではないが、マリア像の不可思議な移動現象がこの頃実際に起こっていたり、わたし自身の力でエレーヌの腹水を心霊治療し得たことなどもあって、世間一般の心霊現象否定の立場を採らずに、わたしはエレーヌの病気と死に関するいろいろな現象を今でも再考し続けている。


エレーヌの遺骨はフランスの故郷ロゼール県に送られ、サン=シェリー・ダプシェの墓地のグルナック家の墓に埋葬された。
が、重要部分の骨は、じつは都内のわたしの手もとに安置されており、毎日礼拝を欠かさないでいる。エレーヌ自身から手渡された髪の毛も、同様に手もとにある。
エレーヌが物質的にすっかり日本を離れてしまったと思っている人には、だから、思いを改めてもらってよい。


エレーヌは、生きていれば71歳になる。1122日の誕生日には72歳になるはずだった。
しかし、70を越えた身体で生き続けるのを望んだとは、やはり思えない。なにごとにも軽さと簡素さを望んだ彼女のことだし、なによりも健康維持を求めていたのを思えば、老いていく身体や病んだ身体から早々に去るのは彼女らしい選択だったとも思える。最後の2年ほどを重病とともに生きたとはいえ、なんといってもそれまでの66年ほどの間、まったく病気らしい病気もせずに、わがままに身体を酷使し続けた生涯だったのだ。



1983年頃、池ノ上の自宅で。

ブルターニュの小さな教会で。







2013/10/19

10月20日前後とエレーヌ

                            

   (エレーヌ・グルナック こんなこと 11)








 
 駿河 昌樹
 (Masaki SURUGA)


 10月に入ると、エレーヌ・グルナックのことがいっそう多く思われる。今生で長いつきあいだったので、どの季節も思い出でいっぱいだし、晩年の2年ほどの闘病期間だけが浮かんでくるわけではもちろんないのだが、1031日に亡くなる前のひと月ほどのあいだは、やはりたくさんのことが凝縮して押し寄せてきていた。
このところ、エレーヌをめぐる文章をここに掲載しなくなっているが、どれほどひとつのテーマを絞って短く書こうとしても、他のいろいろな事柄にたちまち思いも記述も広がっていくので、纏めるのに窮するためだ。軽く短く書けばいいとは思いつつ、短くも軽くもなってくれない。
病中だけでなく、誰よりも健康だった頃のエレーヌの数十年の無数の姿やエピソードの数々も、切れ目もなく際限なく押し寄せ続けるので、なにか一言言ったり書き記したりしようものなら、まとまりがつかなくなる。


 すでになんども書いたが、2010年の1020日(水)にエレーヌ・グルナックは再入院した。末期ガンから来る重度の腹水や浮腫が奇跡的に収まって8月末に退院しており、自宅でリハビリを続けながら療養していたが、10月に入ってから急速な衰弱が襲ってきていた。1012日の私の手帳には「エレーヌ、起き上がりや歩行困難。浮腫や硬直のためか。リハビリのための足の運動のやり過ぎ?ストレッチの手抜きのためか?」とのメモがある。翌日、13日には介護施設より介護ベッドが届いている。
 十日後の30日(土)には台風14号が東京に接近し、交通機関のストップもあって大荒れになり、誰も病院にエレーヌを見舞いに行けなくなった。この日のエレーヌの状態はブログの他のページに記してある。非常な疲れを感じ、傾眠が生じていたらしい。食事はいつも通りに多少とったという。31日の3時頃から意識を失い、710分に亡くなることになったのは周知のとおりである。


 死去の年の一年前、2009年の1020日(火)のことも思い出しておこう。この日には、公証役場でエレーヌの遺言公正証書を作成し終えている。
この年の6月に末期ガン宣告をされたものの、抗がん剤が一応(表面的にも)功を奏して驚異的な回復をし、仕事もそのまま継続していた頃である。遺言状作成は、手術を前にしての万が一のための準備のためだった。
公証役場では一悶着あった。
エレーヌは複数の銀行に生活資金の預金を置いていたが、万が一の場合それらを私が相続し、整理や支払いなどを担うことになる。しかし、三菱UFJ銀行の場合だけは相続手続きが極めて困難で、日本人の家族に対しても三代前からの戸籍確認を求められる。そのため、全国で紛争が起こっているとの情報を、特別に公証人が教えてくれた。エレーヌの場合、両親がチェコやポーランドからフランスに移住した家族であり、すでに両親が死去していて、長兄や長姉も他界していて祖父母の関係について知る者が皆無となっている以上、三代前まで遡るのは至難のわざである。まして、第二次大戦の戦禍で祖父母の地の家族情報はすっかり失われたか、混乱したままになってしまっている。不可能ではないまでも、チェコ語やポーランド語で私が戸籍を取りよせなければならなくなるのか、と思うと、気が遠くなるようだった。
公証人は好意からこの点を教えてくれ、できればUFJからは預金を早急に移動させたほうがよいとアドバイスしてくれた。
これに対して、エレーヌが激怒したのである。公証人や、来てもらった証人ふたりを前にして、エレーヌは、遺言証書に署名などしないと突っぱねた。預金してあるのは自分のお金だというのに、それを自由に使わせないような理不尽な銀行を野放しにしておく日本という国は何なのだ、と怒った。そうして、なんでそういう情報をもっとはやく言ってくれないのか、と公証人をなじった。
30分ほどは膠着状態となり、私はエレーヌの説得にかかりきりになった。遺言証書への署名を拒むことで損をするのはエレーヌ自身であること、さらに言えば、UFJの預金も動かせないまま、一切の整理や処理をせざるをえなくなる私こそが最大の被害者となること等などを言い聞かせ、ようやく署名させたものの、公証役場を出るまで、エレーヌはもうニコリともせず、公証人に目も合わせず、挨拶さえしなかった。「性格もあるし、重病で気分も疲れているのもあるので、あんな態度で申し訳ない」と公証人に私が頭を下げ続けたが、公証人もさばけた人で、「いやあ、実際、ひどい銀行なんですよ。それにこの国もひどい。怒るのは当然です。でも、怒っても現実というのは動かせないから…」といったことを言ってくれた。


公証役場でのこのような出来事は、じつは日常茶飯事だった。エレーヌは本当に年中怒っている人間で、いっしょにいる時には、私はたびたび仲介役をやらざるを得なかった。亡くなってから、葬儀などの場面でお会いしたエレーヌの生徒さんたちや、お茶友だちだったような人たちには見えていない場合が多かったようだが。
闘病の際に手伝ってくれた人たちは、さすがに、エレーヌのこうした面にも付き合わざるをえなかった。タクシーで医療機関などに出向く際など、いろいろな人たちがエレーヌに付き添ってくれたが、道のよくわからないタクシー運転手や煙草くさいタクシーには癇癪が爆発することが少なくなかったし、ブツブツと不平や批判を言い続けることもあった。「タクシーはいっぱいあるから、それじゃ、降りよう。次に来るのに乗ろう」ときつくエレーヌに言うと、目が覚めたようにようやくハッとなって、「私が言い過ぎた」と静かになった。


ついでに1979年の1021日のことも思い出しておきたい。
34年前のこの日、私ははじめてエレーヌと出会った。ある哲学教授と学生たちが集まって、秋の一日、鎌倉散歩を行ったことがあったが、エレーヌは、他のフランス人とともに、そこにひょいとやってきたのだった。
背の低い、鼻のやけに高いフランス人女性だと思っただけで、特別な印象は受けなかった。ただ、政治や平和問題について話した時に、核軍備は絶対に必要であると主張し、アメリカの核の傘の下にいる日本が平和国家を自称するのは矛盾していておかしいと、この「エレーヌさん」は言っていた。当時、やはり日本の右傾化が危険視され、その問題にも思うところ多かった私は、小さなフランス女のこうした発言にあまり心穏やかではなかった。
この時の初対面の印象はこれだけで、エレーヌに特別関心もわかず、4年間はなんの音沙汰もなく過ぎることになる。


言っても誰も信じないだろうし、信じられない人たちといまさら付き合う気もないが、1983年の3月のある日、目が覚めようとしていた時、半醒半夢の中で、私は突然、「エレーヌさんに電話しろ」という男の声を聞いた。
エレーヌのことなど、まるまる4年間は忘却していたので、なにより私自身が不思議でもあり、不審にも思った。下らない夢を見たものだともちろん思ったが、そういえば「エレーヌさん」の電話など控えていたっけ?と思い、4年前の手帳のページを繰ると、どういうわけか、メモがあった。まだ日本にいるのだろうか、どうしているんだろう、などと思い、電話だけでもしてみるかと、家の黒電話でダイヤルした(当時は、子機などなく、携帯電話もスマホもなかった)。
なにを話すでもなく、それでは喫茶店で雑談でもしましょうか、ということで、4月のある日、新宿の紀伊国屋で待ちあわせをすることを決めたが、そこから互いの人生が変わるすべてが始まることになったものだった。








2013/07/20

エレーヌの闘病を記録したフォトサイト

   (エレーヌ・グルナック こんなこと 10)



le 23 juillet 2010


 駿河 昌樹
  (Masaki SURUGA)

  
   2009年から2010年、エレーヌの闘病中、フランスの親族に状況を伝える一環として、ネット上のフォトサイトPhotobucketにある程度の数の写真を掲載し続けた。

 当時、エレーヌとどこの医療機関に行くにもカメラを携えて動き、それ自体なかなか面倒な作業となったが、彼女の親族に現状を伝えて、しかるべき行動を促すためには必要な措置であると考えていた。

 この時に使用していたPhotobucketへのリンクをここに載せておく。日本のエレーヌの友人たちにも、病中のエレーヌの姿をふつうに見てもらってもよい頃になったと考える。
 http://s852.photobucket.com/user/MasakiS/library/?sort=3&page=0

 このフォトサイトの写真は、エレーヌの親族によってかなり熱心に見られていたが、エレーヌの体調が悪化していった時点で、故郷の妹から病気のエレーヌの状態を見たくないとのメールが来た。
  私は自分の生活時間を大きく削って、写真ばかりでなく、数日おきにメールで病状報告をフランスの全親族と友人たちに送り続けていたが、この身勝手なメールには激怒させられた。東京ではエレーヌの友人たちだけが彼女を支えているというのに、血のつながった親族がなにを言うのか。若くない兄や姉妹に対して、遠い日本に来てすべてをやれとまでは望まないにしても、数多いエレーヌの甥や姪のひとりぐらい、様子を見に来てもいいのではないか。

 病気のエレーヌの精神状態にあまり影響を与えないように、こういう親族たちをそのまま「泳がす」ことにしたが、妹からのこの発言を機会に、私は病状報告や写真の掲載をあえて減らすことにした。エレーヌの病気の現状からは目をそらし、それでいてエレーヌ自身には「元気になって。わかっているだろうけれど、誰よりも愛しているから」との電話をしてくるような親族たちについての私の認識も、彼らへの対応も、これを境に、大きな変化を強いられることになった。

 フランスの親族は、ついに闘病中も、葬儀にも、死後のさまざまな整理の間にも来日しなかった。現在の私は、彼らになんの困惑も怒りも感じず、人間というものの多様な振舞いかたの一例を思わされるばかりである。

 彼らのひとりひとりをよく知っている私としては、他ならぬ私に、エレーヌのすべてを先ずは任せるのが最良、との考えを彼らが持っていただろうと思う一方、そういう考えをたくみに隠れ蓑として利用しつつ、面倒なことは他人にしっかり押しつけるという見事な振舞いかたをしたのだとも思う。
 はじめから彼らのこうした目算をほぼ見抜いていて、ひたすら「泳が」せ、人間の醜さをいつもながらに観察するのを楽しんだ人間喜劇好きの私も、それなりの振舞いかたをしたことにはなるかもしれないが…

 エレーヌの親族のような振舞いはどこの国でも見られる人間模様で、こういう振舞いかたに秀でた人間には事欠かないのがこの世というものには違いないが、それにしてもフランス人には、ことの他こういう者たちが多いナァ、…
 …とここで呟いてしまえば、はたして、言い過ぎということになるだろうか…

 在東京フランス領事は、エレーヌの親族について、このように私に語ったものだった。
 「フランスの代表としてお伝えしたいのですが、日本の友人の方々には本当にお世話になりました。この親族というのは…、まったくフランスの恥です…」

 これを思い出せば、もちろん、フランス人全般に話をひろげて考えるべきではないだろうとは思われるのだが…

 






2013/04/14

2010年7月9日のエレーヌ

(エレーヌ・グルナック こんなこと 9)


愛猫ミミ。ベッドがわりの座布団の上で。1994年。


      

  駿河 昌樹
 (Masaki SURUGA)


  入院中の201079日のエレーヌをとらえた短い映像をアップした。駒沢公園わきの東京医療センターの病室である。

 ちょうど衰弱のひどかった頃で、すでに抗がん剤治療はストップし、他の補完的な治療も停止していた。いつ死んでもおかしくないと見えた。せめて、わずかでも映像に残しておこうと思い、撮った。

 数週間前までは、瀬田クリニックでの免疫治療や健康増進クリニックでの高濃度ビタミンC治療などにタクシーで出かけていたが、まったく歩行ができなくなり、しかも、静脈注射をくりかえしてきていた血管が扁平になって、注射針が入りづらくなってしまっていた。
 溜まり続ける多量の腹水を毎日のようにとり(日に2000から3000ccほどとることが多かった)、胸水も溜まりはじめていた。治療めいたものとしては、かろうじてアルブミン点滴だけ。それで、腹水を抑えようとしていた。

 痛々しい映像ではあるが、すでに3年が経とうとしていて、エレーヌのことに興味をもつ人びともそろそろ減ってきた頃あいだろうと考えてのアップである。

 いまだにネットを検索して、わざわざエレーヌについて何ごとかをさがし続けようという人びとにのみ、この映像は向けられている。
そういう人びとにとっては、エレーヌにかかわるすべてが、彼女をさらに知る上での貴重な資料ともなり、じぶんと彼女とのかかわりを考え直すためのよすがともなりうるだろう。また、彼女のことを忘れはしないながらも、闘病や死の生々しさはさすがに薄れた頃だろうから、これまで出さなかったものを、今になっていくらか提供していこうかと考えた。
変動のはげしい時代に入っているので、こちらが保存しているデータ類も、いつ失われるか知れない。ネット上にアップしたり、少しずつでもクラウドに移したりしておくべき頃あいだろうと考えている。

 エレーヌはフランスの中央山塊に生れたひとりの女だったが、そういう彼女が、流れ着くようにしてやってきた東京で、フランス語やフランス文学を教え続けて死んでいった。そうしたひとつの生き方を見直し、検討していこうとの考えから、このブログは、じつは設けられた。彼女を偲び、記念し、思い出を集めていこうとの意図は、はじめからカモフラージュにすぎなかった。
すでに没後3年が経とうとする現在、エレーヌは社会的にも単なるひとりの人間であるのをやめて、始点と終点を持つひとつの人生の物語として扱われるべき対象となった、と考えている。

エレーヌへの思いの薄い人びと、興味本位だけの人びと、にもかかわらず、死に際してなにかと自己主張してくるような人びとがまつわりついてくるのを、3年という時間の経過によって削ぎ落そうとした。

彼女の死後、しばらくは、われこそがエレーヌの理解者、われこそがエレーヌの友と自称するたくさんの人びとによって不快な思いをさせられた。人びとにそう思わせる魔力のようなものが、エレーヌにはあったらしい。
いま、そういった人びとはどこへ行ってしまったか。けっきょく、彼らはなにをしたのか、しなかったのか。
 そういう人びとのひとりひとりの言動の蒐集も、エレーヌ研究の一部だった。3年間、黙って彼らの言動も集め続けた。彼らがしたこと、しなかったこと、そのすべてが、厖大な資料として、今、手もとにある。

 彼女の闘病中も、死の時も、ついに一度として来日せず、なにもしなかったフランスの血縁者たちについては、とりわけ、検討し直し、書くべきことが多いだろう。
故郷の墓地への遺骨移送の際、みずから労をとってくれた在東京フランス領事フィリップ・マルタン氏でさえ、エレーヌの血縁者たちについて、「ほんとうにフランスの恥です」と語ったものだったが、エレーヌ物語の登場人物たちであるそういう血縁者たちひとりひとりを検討し直すのは、率直にいって、なかなか楽しい作業だと言っておきたい。

フィクションは一切交ぜないが、エレーヌをめぐる物語世界にいっそう踏み込んでいくということになろう。




動画のエレーヌをYouTubeに

(エレーヌ・グルナック こんなこと 8)


愛猫ミミ。定位置の窓際の座布団の上で。1998年。

                         
                                   
  駿河 昌樹
 (Masaki SURUGA)



 2009年6月7日のエレーヌ。
 その姿をとらえた短いビデオをアップした。



 はじめて抗がん剤治療を受ける前夜、持っていた小さなデジカメで撮影したビデオだ。生前のエレーヌを動画でとらえた貴重な映像となった。

 抗がん剤治療による副作用は、エレーヌの場合意外に少なかったが、それでも髪の毛はほとんど失うことになった。後で生え直し出してきたものの、すっかり元に戻る前に亡くなったので、ふつうに髪のある状態の最後の頃の姿でもある。
  ずいぶん黒い髪をしているが、これは、発病直前に本人が望んで美容室で染めた色だった。もともとブラウンの色の髪のエレーヌは、年齢とともに白髪になったが、黒く染めたことは生涯に一度もなかった。美容室で勧められでもしたのかと思ったが、亡くなった後、行きつけだった美容室で聞くと、エレーヌ自身が染料を持ちこんで染めたものだったという。発病前には、すこし奇異な行動がいくつか見られたが、そのうちのひとつと言えるかもしれない。

 
 エレーヌはビデオで撮られるのを嫌ったので、撮れた映像は、ほんの少しの短いものにすぎない。ビデオの中で、現に、撮らないでほしい、とこちらに言っている。
 しかし、末期ガンと宣告されており、治療をしないと3カ月しか余命がないとも告げられていたので、こちらとしては全く映さないというわけにもいかない気持ちになっていた。
 それまで30年近くにわたってエレーヌを写真に記録してきたが、それとはべつの思いで写真に残すようにもなった。
 悲観視ばかりしていたわけでもない。
 誰よりも頑健だったエレーヌのことなので、ガンの治療など乗り切るだろうとも思えた。彼女の治療と療養がうまくいったら、その時には、大変だった頃の思い出として本人に見てもらおうとも思っていた。

 このビデオには、エレーヌの当時の家の中の一部の様子も撮影されている。勉強や調べもの、さらには毎日のヨガをするのに使った書斎がわりの6畳部屋。そして台所の様子が収められている。
 本や書類などで雑然とした書斎部屋の様子は、エレーヌ宅の特徴をなすものだった。
 家の中を小ぎれいに整えて、そこで生活を楽しむといった考えを全くもっておらず、その時々に興味のあるテーマを中心とした書籍、ビデオ、DVDなどが積み重ねられ、仕事関係の書類やテキストがそのわきに積み重ねられるというぐあいだった。家というより、仕事場や学び続ける学生の下宿に一生涯住み続けたようなところがある。
 ヨガの指導もしていたエレーヌだが、彼女自身の日々のヨガは、すべて、台所から入ってすぐの場所の、この部屋のわずかな畳スペースの上でのみ行われていた。

 家の中が、どうしてこのように、雑然としたままにされていたのか。 

 ふつうの家庭に見られるような居間の整え方を、エレーヌが嫌っていたということもある。
 友人や知りあいの家に行った際、小ぎれいな居間のしつらえを見ると、エレーヌはよく、窒息するような思いに苛まれた。
 家庭や家族というものにすっかり幽閉され、その中での妻や母という位置づけに安住した女性のありかたを本心から哀れんでいた。もちろん、彼女はそんなことを相手には言わない。すてきな家だ、きれいなサロンだ、と褒めて帰って来る。しかし、エレーヌが、内心、どれほど家族や家庭に関するすべてを忌み嫌っていたか、これは、ほとんど激越と言えるほどのレベルだった。
 かといって、エレーヌは、大学の研究室や廊下などに見られるような味気ないグレーや白の冷たいコンクリート空間も嫌った。どんな場合にも、彼女がもっとも嫌悪するのが役所という空間だったが、少しでもそれに通じる雰囲気のある場所については、いつも、顔をしかめながら語ったものだった。
 
 映像の中で、パソコンの後ろの書棚に、桜の風呂敷のかかったものが置かれているのが見られる。これは、平成16年に死んだ愛猫ミミの遺骨である。いずれ、自然の野山のどこかに埋めにいくか、ペットの墓でも作って安置しようかなどと考えながら、なかなか決められないまま、エレーヌ自身の死まで、7年もこのように書架に置かれ続けることになった。
 書斎の奥の窓際には、猫のための座布団が置かれている。ミミが生きていた頃の定席だったが、死んでからは他の猫がここで寝るようになった。エレーヌが病気になった頃は、「マリちゃん」というふくよかな丸々したきれいな外猫が夜にここに戻ってきて、寝るようになっていた。
 テレビの後ろの壁には、私の友だった歌人、書家の坂本久美から購入した書が二点かかっている。この友も、2009年時点ではすでにガンで死去していた。
 映像の終わり近くには台所の様子が見られるが、ガス台の上にはタオルが吊るされ、ガス台はものを置く台のようになっている。エレーヌらしい懐かしい情景だが、むしろ、これこそがエレーヌだった、とさえ言えそうに思う。最後の数年はあまり料理をせず、ガス台はまれにしか使っていなかった。ガスの真上にタオルをかけてあるのは、それをよく示している。お湯も電気自動湯沸かし器で作っていた。

 これを撮影してからすでに4年近く経ち、エレーヌ自身はもちろんだが、この映像に見られるエレーヌの家の中の情景もすっかり消滅してしまっている。あたりまえのことで、これについて特別な感慨があるわけではない。しかし、見るたびにいろいろな思いが湧き、思い出す中での発見というものもある。

 エレーヌが亡くなってからは3年になろうとしており、今年の10月31日でいわゆる三回忌となる。
 エレーヌのことを思い出す人たちも、もう、少なくなってきただろうか。
 ネット上でエレーヌ自身に興味をむける人たちも、そろそろ減っていく頃あいだろうか。
 エレーヌという人格はだんだんと個人性を失い、さらに失い続け、ネットでこのサイトを偶然に目にした人がいたとしても、こんな人もいたのかという程度の扱いをされる時期に入ってきているかもしれない。
 これは、しかし、エレーヌのことを思い出し続ける人びとにとっては、よい時期に入ってきたとも言えそうに思える。彼女がどんどん忘れられていけば、むしろ、いっそう個人的な話や資料が公然とネット上に保管されることが可能になる。
 エレーヌとは誰だったのか、何だったのかとの、さらに多面的な検討に、いよいよ入っていけるように思う。





2013/01/25

2009年の春から初夏、ガンを原因とする症状の発現の頃

 (エレーヌ・グルナック こんなこと 7)


猫を抱いて、エレーヌの友人たちにとってはお馴染みの姿。
これを見ていると、すぐにも近くにやって来そうで、もういなくなってしまったとは思えない。
この猫は、文中に出てくる“リスちゃん”ではないが、名前はなんだったか…





    駿河 昌樹
   (Masaki SURUGA)

  

 エレーヌが末期ガンと告げられたのは2009年の520日だった。

友人の於保好美さんと5月の連休に出かけ、バーベキューで焼肉を食べた。おいしく食べたというが、その数日後に、下半身の浮腫がひどくなった。
あまり肉を食べない彼女なので、食べあわせの問題でも起こったのかと私は考えた。そうかもしれない、とエレーヌも答えた。

515日(金)の夕方、三軒茶屋の西友でエレーヌと会い、その週の火曜日より始まったという両足と下腹のむくみについて、直接話を聞いた。妻も合流した。若林に住んでいる於保さんに連れられて行ったクリニックで検査を受けたが、X線で見るかぎり、水が溜まっているものの、他の異常は認められないと言われたという。しかし、駒沢の東京医療センターに行くよう勧められた。
西友がまだウォールマートふうになる前の店構えの頃で、無駄なスペースもあるものの、どこか長閑さのある雰囲気が各階に残っていた。一階には総菜屋がならび、飲料の自販機がならんでいた奥には、客用の簡易テーブルとイスがあって、小さな子供を連れた母親や老人のひとときの休息の場になっていた。エレーヌと私は買い物に疲れると、よくここで休憩し、同じフロアのパン屋で買った菓子パンを食べたり、缶コーヒーを飲んだりした。エレーヌはこの頃までの西友を好んでいたが、改装されてウォールマートふうになってからは、非人間的になったと嫌い、病気になったこともあったが、ほとんど行かなくなってしまった。
急に降ってわいたようなエレーヌの体調の異変について、少し詳しく聞いたのも、今はもうなくなってしまった西友のこの小さな休憩所でだった。
とにかく精密検査に向けて日程調整などしていかねば、ということで話は終わったと思う。その後、エレーヌはいつものように歩いて、キャロットタワーと西友のあいだの道を辿って代田の自宅まで帰っていった。
翌日16日(土)、於保さんより電話があり、クリニックの見立てでは、最悪の場合、ステルス性胃ガンの可能性も、と聞く。夜、エレーヌ宅に行き、腹水の溜まった様子や足のむくみを確認した。
この夜、人から貰ったものの、パンやミルクが多過ぎるというのでおすそ分けされ、さらに、近月分の水道代の支払いを受ける(エレーヌの水道代は私の口座からの引き落としになっていた)。
貸してあったアニエス・ヴァルダの映画『5時から7時までのクレオ』のビデオも返してもらった。

病気発覚のこの時期、気になった不思議なことのひとつに、このビデオがあった。

4月にこのビデオを図書館から借り出して見た私は、返す前、興味があるかとエレーヌに聞いた。昔見た映画だが、ひさしぶりに見直したいとエレーヌは言うので、419日(日)に彼女の家に行って置いてきた。
この時、同時に、当時の経済政策だった定額給付金(全国民に12000円を給付するというもの)の振込指定の用紙をエレーヌのために記入した。
辞去する際、エレーヌ宅の玄関で使った鉄の靴ベラが滑り、左手人差し指を異様なほど大きく切ったのを覚えている。数カ月ほど、傷が残った。いまから思えば、エレーヌの生活に起こる大きな異変に、私の手がはじめて触れたかのようだった。

先触れといえば、この時の冬、エレーヌ宅の玄関近くの廊下に並べていた小鉢のポトスが、すべて根腐れして枯れてしまうということがあった。
エレーヌは家の中に観葉植物を置くようなことをあまりしなかったが、私は、家の中が殺風景に過ぎて、もう少し生気を入れないといけないと前年に感じていた。私の家にポトスが繁茂していたので、切り取って数株の小鉢を作り、エレーヌ宅の玄関の棚の上に置いた。台所の窓辺には、トルココーヒーのガラスのカップや、もうひとつ別のコップに挿し木したものを置いた。全部で五つほどになったが、これで、エレーヌの家の中に少しはみどりが見られるようになった。
玄関の棚は陽の当らない場所なので、そこのポトスが根腐れしても不思議はない。しかし、毎週のように見ているものが急にダメになったのを見て、奇妙な思いを持った。なにか、悪いものが通過したのではないかとエレーヌと話した。

映画『5時から7時までのクレオ』では、体調に異変を覚えたパリ住まいの女性ポップシンガーが診察を受け、ガンの疑いが出る。
生体組織検査の結果を待つ間、自分がガンかもしれないという恐れと孤独と虚無感を抱いたまま数時間を過ごすが、そういう思いで歩きまわるパリが、これまで見たことのないようなまったく別の風景として捉えられる。彼女はしだいに自分を取り戻し直し、たとえガンだったとしても病気に立ち向かっていこうと決意して、医師に会いに行く…
よりによって、末期ガン宣告がなされる直前に、エレーヌの手もとにこういう映画ビデオが到来し、彼女は自ら望んでこれを見直していたことに、私は強い印象を受けた。私にこれを返却した後、ひと月もしないうちに、エレーヌはヒロインと同じ状況を経験することになったのだ。
偶然だろうとは、もちろん言える。しかし、急に根腐れしたポトスのこともあったし、他にも気になることがあった。

この年の初春、私は食道から胃に違和感を感じていた。大した症状があるわけでもなく、事実、初夏になって検査した結果、小さな胃炎だったことがわかった程度だが、しきりに「ガン」という思いが浮かんでならなかった。
ガンが近づいている、もうガンになっている、という思いが、波のように寄せて来る。自分が知らず知らずのうちにガンに罹っていて、それがついに発現してきたと感じていた。
検査をするわけでもなく、結果が出たわけでもないのに、いま送っている自分の生活をどう整理しようかと思いが進んだ。不思議なもので、なんの結論も出ていないのに、そういう考えだけがどんどん進む。数カ月をこうした精神状態で過ごした。
エレーヌに相談した。もちろんエレーヌは、この時点では、まだ自分がガンとわかっておらず、なんの不調も出ていなかった。人びとには隠していたし、私が口外することも厳禁されていたのだが、エレーヌはかなり精度の高い霊的認知の能力を持っていたので、こうした問題が起こった際には、いつも尋ねることにしていた。神秘主義と心霊全般への強い関心をを分かちあうごく少数の友人たちのみがこの能力の恩恵に浴していた。
私の症状はガンではないし、他の病気でもない、との結論をエレーヌは得た。後の検査でこれは証明されたわけだが、しかし、こんなことがあったために、この時点で、私の意識のなかに初めて「ガン」というものが強く入りこんできた。ガンに罹ることになったのは私自身ではなかったわけだが、この後2年にわたってエレーヌのガン治療一色になっていく私の近未来の時間と意識が、いま思えば、この時に始まっていたという気がする。

2009年5月、ガンによる異状の出始める直前から、
ガン告知を受ける頃までのエレーヌの手帳の記入ぐあい。



予兆やシンクロニシティとも呼べるようなものが、こうして、現実のガン告知の周辺で起こっていたのだった。

細かく思い出せば、他にもいろいろなものがある。なかでも、311日に見た奇妙な雲の出現は忘れがたい。
30年もの間、毎年、エレーヌの確定申告は私が行ってきた。複数の大学やカルチャーセンター、時にはNHKのフランス語講座への出演や録音、外務省での授業など、いろいろな収入先があったため、彼女は確定申告を行う必要があったが、金銭面での計算や事務作業がとにかく苦手だったため、私が代行するかたちになっていた。私はこの時期になると、自分の確定申告に加え、エレーヌのものも請け負うので、毎年、忙しく辛い思いをした。
この日、エレーヌの確定申告書類をようやく作成し、彼女の住まいの税務署に当たっている梅ヶ丘の北沢税務署まで、私の自宅のある三軒茶屋から歩いて行った。途中、光明養護学校前で、ふと北の空を見ると、三つ巴の龍が輪を作ったような奇妙な雲が出ているのに気づいた。しかも、空高くではなく、すぐ近く、ビルの屋上ぐらいのところに出ている。驚くほどはっきりとかたちを成しており、なにかの表象のように見え、ふつうの雲には見えなかった。他の人たちは気づかないのだろうかとまわりを見まわしたが、税務署に行き来する人たちで人通りの多い歩道なのに、誰もその雲を見ていない。誰かに話しかけようかと思ったが、ヘンに思われるかもしれないと思い、やめた。
立ちどまって見続けるうち、雲はだんだん薄れてきたが、この頃になってようやく、当時使っていたPHSで撮影しておこうと思い立った。撮ってみたが、すでに薄れてしまっており、その上、拡大写真が撮れない機種だったので、いちおうかたちがわかる程度にしか写真には残せなかった。


2009年3月11日に梅ヶ丘で目撃した三つ巴の龍の雲。
すでに消えかかっているが、中央にまだ名残が見られる。


この不思議な三つ巴の雲は、かならずしも悪いなにかを予兆するものとは思えなかったが、特別ななにかを知らせようとしているのではないかとは思われた。

 税務署からの帰路、エレーヌの家に寄って申告書の控を渡し、コーヒーを入れてもらい、ちょうど家にあった肉まんをいっしょに食べた。帰りがけには、パンやチーズをもらった。
どうということもない些事だが、今となっては、平穏だったエレーヌの日々の最後の頃の思い出のひとつとして記憶に残っている。

 ところで、ガンとわかる前、411日、エレーヌは馴染みのネコを失っている。“リスちゃん”と呼んでいた雌の野良猫で、長いこと、エレーヌの家のまわりに来ていた。尻尾がとても長い点でもリスのようだったが、茶色の胴にシマリスのように白いぼかされた筋がいくつか入り、いつもスリムで、きれいな猫だった。なんどか出産したが、それでも体型も敏捷な身のこなしもかわらなかった。15歳ほどではないかと推定されていた。
 10日ほど、豪徳寺のアイリス動物病院に委ねられ、穏やかに死んだ、とエレーヌの手帳には記されている。
 たくさんの猫を世話してきたエレーヌだが、この“リスちゃん”との別れは、特に悲しかった別れのひとつだった。


2013/01/15

雪の吉野でのエレーヌ

(エレーヌ・グルナック こんなこと 6)



雪の奥吉野山中を行くエレーヌ。
タヌキだろうか、キツネだろうか、小さな足跡が右についている。
1999年12月28日。

   駿河  昌樹
   (Masaki SURUGA )




 2013年1月14日、東京としてはひさしぶりの多めの雪になったが、1999年に最後にエレーヌと奈良・飛鳥・吉野を訪れた際にも、雪に見舞われた。

 二上山に上った時にも途中から吹雪になり、それほど雪量は多くなかったため問題はなかったものの、大津皇子の墓所として名高い山で、吹雪で見通しのきかない中を上り下りするのは、なかなか珍しい経験となった。

 それよりもさらに印象深かったのは、12月28日、雪の降った後の吉野に上って奥千本を抜け、西行庵まで行った時の行程だった。
 普通ならマイクロバスで奥千本入口まで乗り、そこから金峯神社に上っていくのが便利だが、前日に降った初雪のために、この日はバスが途中の竹林院までしか行かなかった。
 そこで降り、上千本の山道を上って行ったが、年末も押しせまり、初雪の後ということもあって、まったく人に出会うことのない雪の山道だった。さいわい、天気だけはよく、青空に向かって山の杉が伸びる中、時どき木から落ちてくる雪のかたまりだけが音を立てる他は、ほとんど音のすることのない吉野行となった。自分たちの息や靴で雪を踏みしめる音だけが響くが、雪の中ではそれらもすぐに吸われてしまい、無音が支配する。
 道にはよくタヌキやキツネのもののような足あとがついており、時どきは鹿かイノシシかの足あともある。無心で歩いている目の前を、急に山鳥が横切って、驚かされることもあった。桜の頃や紅葉の頃なら人で混む道だが、誰にも出会わずに雪の降り敷いた山中を歩き続けていると、夢心地のような、どこか悟りのような、不思議な感覚になってくる。どこにいても誰かに上から見られているようで、こういうところには本当に天狗がいるかもしれないとか、山の精霊が方々から見ているのだろうとか、エレーヌと時おり話しながら進んでいった。



山道の途中の祠の前で。1999年12月28日。

 そうするうち、吉野水分(みくまり)神社に着き、趣のある、どこか怖い不思議な魅力を湛える境内をゆっくり見てから、金峯神社へと進んでいく。


吉野水分神社にて。1999年12月28日。
写真にある日付は9月になっているが、カメラの故障によるもの。

吉野金峯神社。1999年12月28日。

 奥吉野に行った人は知っているだろうが、金峯神社に上っていく急坂は、それまでの長い山道を登ってきた身には相当にこたえる。まして、雪が降り敷いているとあっては、滑らないように登っていくのはかなりの苦行になる。最近は、この道の両側の杉木立が伐採され、視界が開けて明るくなったが、1999年当時はなかなかうっそうとした木立があり、人里離れた吉野の山奥で雪の中を登っていると、精神的にさらに不思議な状態になっていく。雪の中を、誰にも出会わずに竹林院から歩いて登ってきただけでも疲れており、気持ちもいくらか普通でない状態になっているところへ、金峯神社への雪の急坂、そして大きな杉の木々にずっと視界を遮られ続けるとなると、深山幽谷に近いところへやって来ているという気分は頂点に達してくる。
 エレーヌは、しかし、二上山でもそうだったが、雪が降り敷いていようが、山道をけっこう楽々と進んでいく。身体が軽いからだろうが、足腰はかなり強かった。パリでの学生時代、メトロやバス代の節約を兼ねて、パリの中ならどこへ行くにもほとんど歩いたというし、東京でもほうぼうを歩いてまわっていたが、そういう点の体力は並々ならぬものがあった。それにもかかわらず、68歳でガンに倒れることになるとは…とも思うのだが、考え方を変えれば、そうした体力があればこそ、あのようなリハビリでの頑張りを見せたのかもしれないし、死の前日まで、補助器具を使いながらではあっても、洗面所やトイレに歩いて行くような力を保っていたのかもしれない。

 金峯神社からしばらく行くと、西行が住んだという西行庵に着く。しかし、普通でもなかなか大変な滑りやすい細い下り道で、雪道ともなると、かなり危ない。注意しながらなんとか下り、たどり着いた。
 西行庵の前には広場があり、やはり一面の雪で、しかも誰も来ておらず、足跡ひとつない純白が広がっていた。ここから遠くの山々をしばらく見渡す。雪があらゆる音を吸い、さらに、山々の遠さも音を吸うようで、雪を踏んで歩く音が、すっ、すっと消えていく。
 ここまで来るのはたいへんだったが、雪といい、出会う人のなさといい、本当に稀な機会を与えられたという気がした。

西行庵に向かう道で。1999年12月28日。

西行庵の広場の端に立って。向こうは谷。
1999年12月28日。


復元された西行庵の前で。1999年12月28日。

   ところが、西行庵を後にして金峯神社まで戻り、これからずっと下っていこうというあたりで、急に天気が崩れた。さっきまで青空が見えているほどだったところに急に雲がかかり、嘘のような猛吹雪になってしまった。
  地図もあり、道はわかっているので、吹雪でもちゃんと道をたどっていけば大丈夫だと考えて進んでいったのだが、どこを間違ったか、しばらく行くと、さっき歩いた場所に戻ってしまっているという奇妙な事態になった。山でよく経験するような堂々めぐりに入ってしまったようで、エレーヌと少し怖い思いになったが、ちょうどそこに自動車が来て止まり、神社にお参りにきたという老夫婦がドアを開けてくれて、吹雪で大変だろうから、途中まで乗っていったらいい、と車に乗せてくれた。
 乗せてもらった距離はわずかだったが、見覚えのあるところで下ろしてもらったので、後は迷わなかった。あれほど大変だった吹雪も、その場所では起こった様子さえなく、山の上の方の一部で起こった吹雪だったとわかった。だんだんと夕暮れの迫ってくる上千本を急ぎ足で下り、土産物屋や食事処などが並ぶ道に入ってきて、ようやくホッとした。
 途中、太田桜花堂という店に立ち寄って、お茶を出してもらいながら店主と話をし、吉野名産の吉野葛を買った。
 吉野山駅からロープーウエイで下の千本口駅に降りる頃にはすっかり日も暮れていた。暗くなった駅から、人もほとんど乗っていない列車で奈良へと発った。


吉野中千本あたり。むこうに如意輪寺が見える。
1999年12月28日。

吉野中千本あたり。1999年12月28日。

  吉野のものではないが、この旅の際の、他の場所の写真もいくつか掲載しておくことにする。

奈良、長谷寺回廊で。1999年12月25日。

飛鳥、酒舟石で。1999年12月26日。

飛鳥、亀石で。1999年12月26日。