2012/11/23

飛鳥のエレーヌ

(エレーヌ・グルナック こんなこと 5)




     駿 河 昌 樹
     (Masaki SURUGA) 



飛鳥大仏 
le Grand Bouddha d'Asuka (Nara) qu'Hélène voulait revoir avant sa mort.

 最後の年、もう旅などできないほどに衰えたエレーヌが唯一行きたがった場所は、パリでも故郷のロゼールでもなく、奈良の飛鳥だった。
 とりわけ、飛鳥寺をもう一度訪れ、飛鳥大仏を見たい、と言っていた。夏の終わりに退院した時、無理にでも行こうと思えば飛鳥再訪は不可能ではなかっただろうが、なにぶん残暑の厳しい秋のはじまりでもあったし、しばらくは自宅療養を頑張ってもらって、もう少し体力を回復させてから、涼しくなった頃にでも連れて行こうと考えた。そう考える程度に、退院時は体調がよくなってきていたし、すぐに再び悪くなるとは思えないほどだった。
 
 エレーヌが亡くなった後、彼女自身のかわりに飛鳥に赴いて、飛鳥大仏を見てこようと思いながらも、なかなか都合がつかなかった。しかし、2年経って、今秋、ようやくそれを果たした。


飛鳥大仏
le Grand Bouddha d'Asuka (Nara) qu'Hélène voulait revoir avant sa mort.

何度も訪れた飛鳥寺だが、これまでに経験のないほどの大雨の中をたどり着くことになった。靴もズボンの裾もびしょびしょに濡れ、堂内に入ると、濡れた足跡がつくほどだった。
 
 大仏とはいうものの、東大寺や鎌倉のそれとは比較にならないほど小さな銅製の大仏で、高さは3メートルほど。しかし、推古天皇が、聖徳太子や蘇我馬子やその他の皇子たちと誓いを立てて発願し、鞍作鳥(止利仏師)に造らせた日本最古の仏像だといわれる。
 平安時代や鎌倉時代の大火災で全身に損傷を受け、修復を重ねた結果が現在の姿で、継ぎ接ぎの跡が方々にあり、胴体も後世の粗い修補となっている。しかし、むしろ、それゆえに顔には独特の深みと穏やかさと諦念が表われており、エレーヌはこの様をなにより好んでいた。

 重要文化財でもあるから、ひさしぶりに見る飛鳥大仏にはもちろん変化はなかったし、エレーヌがかつて悪戯な質問を向けたりした説明役の男性もまったく同じ人で、以前、エレーヌと来て、長い時間この大仏を眺め続けた時となにも変わっていないようだった。

 こういう古い仏像については、様々な時代の変遷を眺め続けてきた…といった説明がよくなされるもので、そういう話を聞くたびに、その通りだろうとは思いながらも、紋切り型のまとめ方にいささか退屈させられる。しかし、この大仏を愛し、ここに来るといつまでも眺め続けたエレーヌのことを思い出すと、なるほど、この大仏の前で、じつに多くの人間たちの去来があったことだろうと実感されてくる。エレーヌといっしょにこれを見た時には、推古天皇も、聖徳太子も、蘇我馬子も、天智天皇も、藤原鎌足もこの大仏の前に立って眺め、祈り、そうして去って行ったのだといったことを話し、漠然とそうした歴史の移り行きを、自分たちとは一応関わりの薄いこととして感じていたものだし、ふつうに日々を生きるというのは常にそうしたことであるわけだが、今ではエレーヌも、かつてここの前にいっしょに立った相手でありながら、べつの境位へと逝ってしまったひとりになっている。歴史の方へと行ってしまったわけで、彼女の死によって、知識の上の事に過ぎなかった古代史なども、こちらの中へとさらに親しく流れ込んでくるような気持ちにもなる。

 エレーヌとはじめて飛鳥に行ったのは1999年9月11日(土)で、前日に奈良の興福寺や法隆寺をのんびり見てまわった後だった。
 前の週にフランスでの長い滞在から帰って来たばかりで、ふたりとも、フランスというものにほとほと嫌気がさして、穴埋めをするかのようにすっかり気分を変えたいと思って、奈良・飛鳥への急な旅を思い立ったのだった。

 エレーヌが病気になってから、日本の友人の中にはエレーヌがフランスに帰りたいはずだと主張する人たちもいたが、とんでもないことで、1999年以降のエレーヌは、できるだけフランスに行くまいとしていた。嫌いになったというよりも、フランスの雰囲気や生活の仕方、人々の感性などに飽きてしまったというのが正しいのではないかと思う。
 フランスの親族たちにも飽き飽きしていた。大病なのだから家族や親族に会いたいはずだといった推測は、エレーヌの場合、まったく見当違いで、もし彼らに会うことになればどれほど面倒を背負い込むことになるか、それをこそ心配していた。くりかえすが、嫌いだというのではない。エレーヌと趣味をまったく共有できないほどかけ離れた人々を、よりにもよって大病の時に迎えるのには心身ともに耐えられないという現実的な理由があった。エレーヌの親族の誰ひとり、エレーヌがあれほど好んだ文学作品や音楽、芸術などの鑑賞を積極的にした人たちはいない。プルーストなど誰も読んでいないし、哲学論や仏教論をしようにも誰も関心がない。漱石や芭蕉の話をしようにも、それらにも興味はない。かろうじて映画のうちのハリウッドものをテレビで見ている人たちはいたものの、ヌーヴェル・ヴァーグのゴダールやトリュフォー、リヴェット、ロメールなどなど、エレーヌが目を光らせて語りたがるフランスの監督たちのものなど、つまらないものとして遠ざけることしかしない人たちなのだ。
 私とエレーヌがフランスに長く滞在する時には、こうした親族たちとうんざりするほど多くの時間を暮らすことを意味した。私にとっては、フランス人のごく普通の生活をじっくり体験するよい機会になったものの、エレーヌにとっては、しばしば、耐えがたい家族サービスのようになってしまう。兄や姉や妹のところをそれぞれ廻って滞在しながら、「あと何日ここにいるか…」という問題がよく持ちあがったものだった。私はこういう点では融通のきく性格なので、まだ何日でも居られると答えるのがつねだったが、エレーヌは「もう私は耐えられない。明日発ちましょう」と促してくることが多かった。そうして、親族の家を離れると、次の訪問先にすぐには向かわずに、誰も知り合いのいない都市や町や村に寄って、せいせいしたとばかりに羽を伸ばしたものだった。
 フランス人は、だいたいの場合、非常に家族主義の人が多く、なにかというと家族で集まってヴァカンスを過ごしたりするが、エレーヌは芯から違っていたのだ。家族と会わない時間を確保するということが、彼女にとっては幸福の第一条件だった。
 死後に故郷に遺骨を送るというようなことが、こういう彼女にとって、もちろん、単純な解決となるはずもなかった。遺骨をめぐってのこのあたりの問題については、故郷の妹がいかにも正しいかのような「返還」の主張をし、日本の友人たちの中にも同種の主張をする声があり、私はそれらにたいして、正面切って異論をせずに聞いておいたものの、まったく、人間というものはどうしようもないもの、自分の価値観のみの中で廻っているだけの哀れなものとの認識を強めるばかりだった。
 死の前に、幾人かに対して、故郷への遺骨の移送を望む発言をエレーヌはしたともいうが、本当にそうだとすれば、まず第一に、それは私の面倒を省くための措置だったはずだろう。遺骨が日本に残れば、私たちは墓を造らねばならず、供養もし続けなければいけない。その面倒を掛けたくないとの思いは、エレーヌに強かった。父母と兄の眠る故郷の墓所にいっしょに入れてくれれば、生き残った者たちがこうむる面倒をどれだけ省けるかと考えたはずだろう。
 しかし、遺骨を故郷へ移送するかどうかという重要な問題を、エレーヌはついに一言も私に言わなかった。死後のことはすべて私が行うことになっているのはわかっていたのだから、本当に彼女が遺骨の移送を望んだのならば、ほかならぬ私に託さないわけがない。そうしなかったのは、結局、彼女自身が重視していなかったことの証だと思われる。故郷の妹があまりに感情的に言い募るので、しかたなしに、遺骨を故郷に戻すということでよい、と向こうには告げたということもあったかもしれない。これは、それほどに自分の遺骨というものを重視していなかった、ということにもなろう。もっとも帰りたくない場所に自分の遺骨を送る、そういうことでもよい、という判断には、ある種のニヒリズムさえ混じっているように感じる。
 
 さて、帰省や家族訪問を兼ねた、うんざりし尽くしたフランスの旅のすぐ後で、飛鳥駅を降りて歩きはじめた時、エレーヌも私もふたりとも、此処こそ自分たちの求めていた地だ、とすぐに直感した。
 行程としては、高松塚古墳、文武天皇陵、聖徳太子出生の地である橘寺、岡寺、そして飛鳥寺、飛鳥坐神社、甘橿の丘、豊浦宮跡、剣池とまわって、日の暮れた橿原神宮前駅に到ったと手帳に記録してあるが、フランスのほうぼうをさんざん旅してまわっても得られなかったものが、飛鳥にはすべてあると感じたものだった。日本の各地を旅した経験のあるエレーヌも、飛鳥ははじめてで、「いいです。ここにはすべてがある。ほんとに、もうフランスなんか行く必要はない」と言っていた。もちろん、フランスにもすばらしい場所はたくさんあるのだが、エレーヌにとって、飛鳥という場所が、どこにも増して特権的な場所となった、そんな記念すべき旅だった。

  9月とはいえ、残暑の厳しい暑い日で、持っていった黒いシャツでは汗が白く塩になって乾いてしまうので、汗の目立たない白いTシャツを奈良のスーパーで買い求めるほどだった。橘寺までの道はまだ青々とした稲の穂に囲まれ、ここが聖徳太子の生まれたところだと話すと、そんな伝承の中を歩いて行くのを、いつも夏にはそうしていたように団扇で顔を扇ぎながら、エレーヌは楽しんでいた。岡寺もお気に入りで、日本最古の厄除け寺というこの場所の雰囲気をとても喜んでいた。甘橿の丘から香具山を見はらすのも、いかにも日本の核心の一部にじかに触れるようで楽しそうだった。甘橿の丘で日の入りを迎えたので、街灯の極端に少ない飛鳥であるため、剣池あたりでは真っ暗な中を道にまよって心細い思いをしたが、このあたりは確か、柿本人麻呂が歩きまわったあたりでもあると話しながら歩いたものだった。

 死から2年経って、ようやくエレーヌを、そんな飛鳥にふたたび連れてきた、と思った。のんびりと時間の流れる飛鳥では、どこも、主な場所はほとんど変わっておらず、エレーヌとはじめて来た頃とほとんど違いはないように感じられる。
 とどまることなく風景が変化し続けていく東京と違って、たいていの風景が変わらないままで何十年も続いていく土地が、日本にはもっとあってもいいはずだろう。人は、風景の中にも記憶を留め、記録するものだし、本当はそういう記憶のしかたのほうがよほど永続性がある。他人にむけて開かれてもいる。

 飛鳥を訪れた時の1999年9月のエレーヌの写真を、いくつか載せておきたい。エレーヌは写真に撮られるのを嫌ったので、残っているのはわずかな枚数に過ぎないのだが…

石舞台古墳で

石舞台古墳で


石舞台古墳入口
フランスで買った安いサングラスをかけて。
シックさの微塵もない安手の派手なデザインがけっこうお気に入りだった。

橘寺付近で




岡寺からの帰り。坂乃茶屋の前で急坂を下る。
夏はいつも団扇を持って外出したものだった。



岡寺の帰り。暑い中、坂乃茶屋の前の急坂を下る。


甘橿の丘。香具山をバックに。

 

 








 

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