2012/09/13

2010年8月30日 退院の日

(エレーヌ・グルナック こんなこと 2)
             


    駿河 昌樹
   (Masaki  SURUGA)




 2010年の秋はエレーヌの最後の秋だった。
 
 しかし、4か月におよぶ長い入院の後、8月30日に退院して再び自宅での療養生活をはじめた時点では、エレーヌは甦りの生気に満ちていた。

 退院時、荷物をまとめ、運び出してから、ベッドを前にして撮ったのが、この写真。
  
退院の日。2010年8月30日、東京医療センター産婦人科病棟で。

 まなざしも肌も生き生きとしていて、周囲で世話をしてきた人たちは、エレーヌならではの奇跡が起こったのか、と考えた。

 2010年の4月から、ひどい腹水や下半身の浮腫のために入院していたエレーヌは、(毎日3000ml前後を穿刺で取らざるを得ないほど、多量の腹水が4カ月にわたって溜まり続けた)、6月から7月頃、急速な体力の減退に襲われ、ほとんど死に瀕していた。
 4~6月までは、高濃度ビタミンC治療や免疫治療などのために、入院先の東京医療センターから週に何度も都内のクリニックへ通っていたが、それを続ける体力もなくなり、歩行もできなくなり、また、血管が扁平になって点滴の針さえ入らなくなった。
 東京医療センターでは抗がん剤継続のプランがあったが、それを継続しても効果はなく、逆に身体を弱めるだけとの担当医師の判断により、中止となった。この時点で、ふつうの意味でのガン治療は放棄されたことになった。免疫治療も事実上の停止、高濃度ビタミンC治療も中断され、治すための積極的な治療はすべて終わった。腹水穿刺や、腹水を止めるためのアルブミン投与などの措置だけは継続された。
 これが6月から7月時点のことだった。

 (動ける間には、近い将来に予想される衰弱と死を考えて、ホスピスなどの検討や見学も行われた。エレーヌ自身、友人たちに伴われて現地の見学に出向いた。しかし、どれほど静かでよい環境が準備されていても、病気を治すためでなく、残された時間を安らかに過ごすだけの場所というものを、エレーヌは受け入れなかった。闘病のはじめから関わることになった普通の大病院である東京医療センターの産婦人科の、いかにも病院然とした環境、つまり、重病患者たちもいれば、妊婦たちもおり、生まれたばかりの子らの声がたえず響いているような慌ただしい環境の中で死んでいくほうを、エレーヌははっきりと選択した。ガンに罹ってからのエレーヌは、治療についても、病気の重大さについても、その他あらゆる雑事についても、不決断が目立つようになり、誤認も増えたが、この点については明快な決断をしたといえる)。
 
 腹水はたんに細胞から漏れ出る水ではなく、栄養素が溶け込んでいる。そのため、出続ける腹水に抗するには、意識的に栄養も取らねばならず、特に効果的なタンパク質の摂取が必要になるが、もともと食が細いうえ、腹水で胃が圧されることから来る胃液の逆流で食道炎も起こしており、不快感から食事量はさらに減っていた。
 病気が快方にむかうような楽観材料はほとんどなく、相乗的にマイナス方向への加速を強めるような要素ばかりが次々出てきて、まわりで世話をする人たちは、覚悟しなければならないか、と考えていた。 

 ところが、この後、腹水の溜まり具合が急に減り出し、それとともに体力の回復が始まる。これには、担当医師たちも首をひねったほどで、こうした急な回復については説明がつかないようだった。
 ともかくも、エレーヌは急速に体力を取り戻し、リハビリを始めるほどになっていく。8月は、病院内のリハビリ施設に出向いて、リハビリに努める毎日となった。見舞いに訪れた人たちも、車イスにエレーヌを乗せて、病院の裏の林に連れて行って、大樹を見せたりできるほどになった。

 こうした数カ月を経ての、8月30日の奇跡的な退院となったのだった。もちろん、健常者の体力が戻ったわけではないし、身体の機敏さも戻ってきてはいなかったが、病院1Fのカフェ〈エクセルシオーレ〉にコーヒーを飲みに行ったり、そこでサンドイッチを食べたり、胃腸を温めるためのお湯を店員にたびたび要求したり、また、売店にカフェオレや総菜やサラダを買いに行ったりする気力と体力は戻っていた。

 次の写真も、退院当日のもの。
 
同じく、退院の日。2010年8月30日、東京医療センター産婦人科病棟で。
なんでもない姿に見えるが、このように自力で立てていること、バッグを肩にかけ、手にもバッグや書類を持っていられるということ自体が、ついひと月半前にはあり得ないことだった。
 ちなみにこの日は、この後、1Fの食堂でさば煮定食をとり、半分以上の量を食べてから、タクシーで帰宅。それだけ食べられるように戻ったことも、ずっと見続けてきた者からすれば、奇跡的なことと見えた。
 4か月も入院していたのだから、軽くてもなにか挨拶でもあるのかと思ったが、ナースステーションの前を通っても看護師が声をかけるでもなく、たくさんの荷物をカートに乗せて運ぶ私とエレーヌふたりの、静かな退院だった。 

 記憶に残るような猛暑の夏で、退院してきたエレーヌをエアコンのない家に住まわせるわけにはいかなかった。
 エレーヌは生涯、いちどもエアコンを自宅に設置したことはなく、扇風機と団扇だけで過ごしてきたが、今回ばかりはそうもいかない。
 エアコンは電機量販店のどこでも品薄になっており、手頃な価格のものなど品切れになっている夏の終わりだった。方々の店をまわった末、さいわい一台を買うことができ、退院の数日前に設置しておいた。

 エレーヌにとっては久しぶりの自宅だったが、もちろん、長く空けていた家に帰った当座は忙しい。エアコン設置の際に掃除はしておいたが、自分にあうように、衣類や家財などを置き直す作業がエレーヌには必要だった。
 指示してくれれば整理はするから、疲れないように、働き過ぎないように、と言っても、エレーヌは自分で動きたがる。少しずつ体中の筋肉を回復してもらう必要もあるので、適度に動いてもらいたいのだが、適度に動き、適度に運動し、しかし疲れないように、無理しないように…、というのはなかなか難しい。本人が、自分の身体と相談しながら、少しずつ感触をつかんでいく他なさそうだった。

 午後には、介護サービスのケアマネージャーの人が来て、いろいろな説明。書類へのサインの数々。なにをするにも書類、サイン、説明…で、役所や書類の大嫌いなエレーヌは露骨に不快感を示した。それを説得し、いなしながら、なんとか事を運んだ。
 その人が帰ってからしばらくして、実際に介護に当たってくれる人が来て、今後の介護のプランを決めた。「ほほえみの木々」の伊藤さんという人だったが、エレーヌにずいぶん関心を持ち、気も合ったようで、最後までよくしていただいた。

2010年9月8日16時37分。自宅で。ケアマネージャーの伊藤さんと。
このように退院してからエレーヌが生き延びたのは、たったの2か月ほどで、いったいこの2カ月にどんな意味があったのかと考える時が、今でもある。
 病気からの回復を諦めず、むしろ、少しずつでも、完全に治していく気持ちになって生きた2カ月だったのは確かだと思えるが、それだけでなく、この時期になってこその、それまで未知だったさまざまな人たちとの出会いというのも大事だったのではないか、と思える。病気になってからのエレーヌをいつも傍で見ていて思ったのは、医療・介護関係者たちとの新たな出会いの連続を経験しながら、友人たちや知人たち、血縁者たちなどとの関係の変化や進化、あるいは落胆、断絶などが猛烈な速度で続いて行ったことだった。魂の不滅や生まれ変わりを強く信じたエレーヌにとっては、病気になって初めて出会うことのできた人々、意外なかたちで深められていった人間関係、友人たちへの理解の深化や気づきなどは、そのまま、来世に持ちこされていく重要な関係性の布石となったに違いない。

 家の中には、なにも食べ物もなく、雑貨も欠けているので、野菜や果物や魚や雑貨などを買いに出なければならなかった。5000円分ほどあれこれ買い込んで戻り、夜はホッケを焼いて食べさせた。
 エレーヌはホッケが好きだったが、病院食では出ず、久しぶりに喜んで食べた。毎日、タンパク質を摂ってもらう必要があったので、料理の簡単なサーモントラウトも買ってきて、使いやすい適当な量に切り、冷凍した。私をはじめ、まわりで世話をする人たちも、自分の生活や仕事がある以上、毎日来てすべての世話をするわけにはいかない。介護サービスの人たちも、一日1時間半しか居ることはできない。今の日本で、重病に陥った人たちが直面する現実だが、なんとか乗り越えていくべく、小さな知恵を重ねていく他なかった。

 エレーヌは、抗がん剤で髪の毛の薄くなったままの頭を、インド綿の布で覆うことが多かったが、最後の2カ月は、とくにブルーの布を好んだ。100円ショップで買ってきたバンダナ用の布だった。
 じつは、プレゼントされた布が他にもいろいろあり、故郷の妹からは、ガン患者の女性用の特製頭巾もふたつ贈られてきていたが、エレーヌは使わなかった。妹には、素晴らしいものを貰ってうれしいと告げ、いつも使っていると伝えていたが、実際にはこれを嫌い、100円ショップの布が最良として、使い続けていた。

2010年9月17日15時34分。
自宅にて。

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(注)

   これまで、このブログでは、エレーヌの闘病については概括的にのみしか触れないようにしてきた。エレーヌの全体像を考える上では、どれほど大変だったとはいえ、闘病期は一部をなすに過ぎないし、また、それにもかかわらず、重病というものの性質上、言及すれば印象は強くなるので、エレーヌ像を歪めかねないとも考えたためだ。なんといっても、エレーヌが生涯のうちの66年間ほどを、せいぜい風邪ぐらいしか知らない、完全な健康体で過ごしたのは事実でもある。病気を経験したのは、最後の1年半だけだった。
 病気にあまり触れないできたのは、陰に陽に、エレーヌの「友人」や「家族」を自負する人々から、病気のエレーヌのことをあまり知りたくない、見たくない、と言った圧力を受け続けてきたためもある。
 不思議なもので、そういう「友人」や「家族」たちは、病気のエレーヌの世話をほとんどしなかったか、全くしなかった人たちで、にもかかわらず、自分がエレーヌの親友であり、理解者であると自認していることが多い。こうした人たちからいろいろなメールを受け取ったり、言動を見てきた私としては、なんとも不可思議な人間喜劇を見せられてきた思いがあるが、ともかくもエレーヌの死から2年が経とうとしている今、そういう人たちはすでにエレーヌへの興味を失い、このブログを見ることもなくなったようで、ようやく、落ち着いてエレーヌのことを振り返ることができる気がしてきている。
(闘病中ばかりか、死後の葬儀にも、手続きや遺品整理などにも、ついに一度も、誰ひとり訪日しなかったフランスの「家族」たちについては、いずれ書いておきたいと思う。)

  闘病中のエレーヌは、髪の毛も失い、時には憔悴して、健康だった頃の彼女とは様変わりして見えるが、しかし、簡素な非常な強さ、言葉には出さずとも、かつてなかったような決意や強さを顔や姿にみなぎらせていることも多かった。エレーヌが自分の守護霊と信じていたアメリカ・インディアンの酋長のような、含蓄深い厳しい顔をしていることも多かった。そういうエレーヌを見ていると、病気は明らかに、彼女を別のレベルに移行させつつある、と感じられた。
 介護の傍ら、私はそうした姿を写真に撮り続けたが、それらの中には、すでに死後2年経った時点では、そろそろ人に見せ始めてもいいかもしれない、と思われるものも少なくない。病気の時の写真だから、過去の元気だった頃と比べれば痛々しさもあるかもしれないが、ああいう闘病期もあったね、あの時はこんな顔をしていたよ、などと心の中のエレーヌに示しながら、私以外の他の人に見せてもいいと、許可を与えてくれそうな写真。

 これからは、少しずつ、そんな写真を添えながら、思い出話を書くかもしれない。
 いまだにエレーヌを忘れない、ごくごくわずかな人たちだけが見ることになるのだろうが、そういう人たちになら、病気の時のものであれ、見られてもいいとエレーヌは思ってくれるだろう。
 なんといっても、いつまでも興味を持ち続けていてくれるような人たちだけが、本当の友だちというものなのだから。













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