2012/11/23

飛鳥のエレーヌ

(エレーヌ・グルナック こんなこと 5)




     駿 河 昌 樹
     (Masaki SURUGA) 



飛鳥大仏 
le Grand Bouddha d'Asuka (Nara) qu'Hélène voulait revoir avant sa mort.

 最後の年、もう旅などできないほどに衰えたエレーヌが唯一行きたがった場所は、パリでも故郷のロゼールでもなく、奈良の飛鳥だった。
 とりわけ、飛鳥寺をもう一度訪れ、飛鳥大仏を見たい、と言っていた。夏の終わりに退院した時、無理にでも行こうと思えば飛鳥再訪は不可能ではなかっただろうが、なにぶん残暑の厳しい秋のはじまりでもあったし、しばらくは自宅療養を頑張ってもらって、もう少し体力を回復させてから、涼しくなった頃にでも連れて行こうと考えた。そう考える程度に、退院時は体調がよくなってきていたし、すぐに再び悪くなるとは思えないほどだった。
 
 エレーヌが亡くなった後、彼女自身のかわりに飛鳥に赴いて、飛鳥大仏を見てこようと思いながらも、なかなか都合がつかなかった。しかし、2年経って、今秋、ようやくそれを果たした。


飛鳥大仏
le Grand Bouddha d'Asuka (Nara) qu'Hélène voulait revoir avant sa mort.

何度も訪れた飛鳥寺だが、これまでに経験のないほどの大雨の中をたどり着くことになった。靴もズボンの裾もびしょびしょに濡れ、堂内に入ると、濡れた足跡がつくほどだった。
 
 大仏とはいうものの、東大寺や鎌倉のそれとは比較にならないほど小さな銅製の大仏で、高さは3メートルほど。しかし、推古天皇が、聖徳太子や蘇我馬子やその他の皇子たちと誓いを立てて発願し、鞍作鳥(止利仏師)に造らせた日本最古の仏像だといわれる。
 平安時代や鎌倉時代の大火災で全身に損傷を受け、修復を重ねた結果が現在の姿で、継ぎ接ぎの跡が方々にあり、胴体も後世の粗い修補となっている。しかし、むしろ、それゆえに顔には独特の深みと穏やかさと諦念が表われており、エレーヌはこの様をなにより好んでいた。

 重要文化財でもあるから、ひさしぶりに見る飛鳥大仏にはもちろん変化はなかったし、エレーヌがかつて悪戯な質問を向けたりした説明役の男性もまったく同じ人で、以前、エレーヌと来て、長い時間この大仏を眺め続けた時となにも変わっていないようだった。

 こういう古い仏像については、様々な時代の変遷を眺め続けてきた…といった説明がよくなされるもので、そういう話を聞くたびに、その通りだろうとは思いながらも、紋切り型のまとめ方にいささか退屈させられる。しかし、この大仏を愛し、ここに来るといつまでも眺め続けたエレーヌのことを思い出すと、なるほど、この大仏の前で、じつに多くの人間たちの去来があったことだろうと実感されてくる。エレーヌといっしょにこれを見た時には、推古天皇も、聖徳太子も、蘇我馬子も、天智天皇も、藤原鎌足もこの大仏の前に立って眺め、祈り、そうして去って行ったのだといったことを話し、漠然とそうした歴史の移り行きを、自分たちとは一応関わりの薄いこととして感じていたものだし、ふつうに日々を生きるというのは常にそうしたことであるわけだが、今ではエレーヌも、かつてここの前にいっしょに立った相手でありながら、べつの境位へと逝ってしまったひとりになっている。歴史の方へと行ってしまったわけで、彼女の死によって、知識の上の事に過ぎなかった古代史なども、こちらの中へとさらに親しく流れ込んでくるような気持ちにもなる。

 エレーヌとはじめて飛鳥に行ったのは1999年9月11日(土)で、前日に奈良の興福寺や法隆寺をのんびり見てまわった後だった。
 前の週にフランスでの長い滞在から帰って来たばかりで、ふたりとも、フランスというものにほとほと嫌気がさして、穴埋めをするかのようにすっかり気分を変えたいと思って、奈良・飛鳥への急な旅を思い立ったのだった。

 エレーヌが病気になってから、日本の友人の中にはエレーヌがフランスに帰りたいはずだと主張する人たちもいたが、とんでもないことで、1999年以降のエレーヌは、できるだけフランスに行くまいとしていた。嫌いになったというよりも、フランスの雰囲気や生活の仕方、人々の感性などに飽きてしまったというのが正しいのではないかと思う。
 フランスの親族たちにも飽き飽きしていた。大病なのだから家族や親族に会いたいはずだといった推測は、エレーヌの場合、まったく見当違いで、もし彼らに会うことになればどれほど面倒を背負い込むことになるか、それをこそ心配していた。くりかえすが、嫌いだというのではない。エレーヌと趣味をまったく共有できないほどかけ離れた人々を、よりにもよって大病の時に迎えるのには心身ともに耐えられないという現実的な理由があった。エレーヌの親族の誰ひとり、エレーヌがあれほど好んだ文学作品や音楽、芸術などの鑑賞を積極的にした人たちはいない。プルーストなど誰も読んでいないし、哲学論や仏教論をしようにも誰も関心がない。漱石や芭蕉の話をしようにも、それらにも興味はない。かろうじて映画のうちのハリウッドものをテレビで見ている人たちはいたものの、ヌーヴェル・ヴァーグのゴダールやトリュフォー、リヴェット、ロメールなどなど、エレーヌが目を光らせて語りたがるフランスの監督たちのものなど、つまらないものとして遠ざけることしかしない人たちなのだ。
 私とエレーヌがフランスに長く滞在する時には、こうした親族たちとうんざりするほど多くの時間を暮らすことを意味した。私にとっては、フランス人のごく普通の生活をじっくり体験するよい機会になったものの、エレーヌにとっては、しばしば、耐えがたい家族サービスのようになってしまう。兄や姉や妹のところをそれぞれ廻って滞在しながら、「あと何日ここにいるか…」という問題がよく持ちあがったものだった。私はこういう点では融通のきく性格なので、まだ何日でも居られると答えるのがつねだったが、エレーヌは「もう私は耐えられない。明日発ちましょう」と促してくることが多かった。そうして、親族の家を離れると、次の訪問先にすぐには向かわずに、誰も知り合いのいない都市や町や村に寄って、せいせいしたとばかりに羽を伸ばしたものだった。
 フランス人は、だいたいの場合、非常に家族主義の人が多く、なにかというと家族で集まってヴァカンスを過ごしたりするが、エレーヌは芯から違っていたのだ。家族と会わない時間を確保するということが、彼女にとっては幸福の第一条件だった。
 死後に故郷に遺骨を送るというようなことが、こういう彼女にとって、もちろん、単純な解決となるはずもなかった。遺骨をめぐってのこのあたりの問題については、故郷の妹がいかにも正しいかのような「返還」の主張をし、日本の友人たちの中にも同種の主張をする声があり、私はそれらにたいして、正面切って異論をせずに聞いておいたものの、まったく、人間というものはどうしようもないもの、自分の価値観のみの中で廻っているだけの哀れなものとの認識を強めるばかりだった。
 死の前に、幾人かに対して、故郷への遺骨の移送を望む発言をエレーヌはしたともいうが、本当にそうだとすれば、まず第一に、それは私の面倒を省くための措置だったはずだろう。遺骨が日本に残れば、私たちは墓を造らねばならず、供養もし続けなければいけない。その面倒を掛けたくないとの思いは、エレーヌに強かった。父母と兄の眠る故郷の墓所にいっしょに入れてくれれば、生き残った者たちがこうむる面倒をどれだけ省けるかと考えたはずだろう。
 しかし、遺骨を故郷へ移送するかどうかという重要な問題を、エレーヌはついに一言も私に言わなかった。死後のことはすべて私が行うことになっているのはわかっていたのだから、本当に彼女が遺骨の移送を望んだのならば、ほかならぬ私に託さないわけがない。そうしなかったのは、結局、彼女自身が重視していなかったことの証だと思われる。故郷の妹があまりに感情的に言い募るので、しかたなしに、遺骨を故郷に戻すということでよい、と向こうには告げたということもあったかもしれない。これは、それほどに自分の遺骨というものを重視していなかった、ということにもなろう。もっとも帰りたくない場所に自分の遺骨を送る、そういうことでもよい、という判断には、ある種のニヒリズムさえ混じっているように感じる。
 
 さて、帰省や家族訪問を兼ねた、うんざりし尽くしたフランスの旅のすぐ後で、飛鳥駅を降りて歩きはじめた時、エレーヌも私もふたりとも、此処こそ自分たちの求めていた地だ、とすぐに直感した。
 行程としては、高松塚古墳、文武天皇陵、聖徳太子出生の地である橘寺、岡寺、そして飛鳥寺、飛鳥坐神社、甘橿の丘、豊浦宮跡、剣池とまわって、日の暮れた橿原神宮前駅に到ったと手帳に記録してあるが、フランスのほうぼうをさんざん旅してまわっても得られなかったものが、飛鳥にはすべてあると感じたものだった。日本の各地を旅した経験のあるエレーヌも、飛鳥ははじめてで、「いいです。ここにはすべてがある。ほんとに、もうフランスなんか行く必要はない」と言っていた。もちろん、フランスにもすばらしい場所はたくさんあるのだが、エレーヌにとって、飛鳥という場所が、どこにも増して特権的な場所となった、そんな記念すべき旅だった。

  9月とはいえ、残暑の厳しい暑い日で、持っていった黒いシャツでは汗が白く塩になって乾いてしまうので、汗の目立たない白いTシャツを奈良のスーパーで買い求めるほどだった。橘寺までの道はまだ青々とした稲の穂に囲まれ、ここが聖徳太子の生まれたところだと話すと、そんな伝承の中を歩いて行くのを、いつも夏にはそうしていたように団扇で顔を扇ぎながら、エレーヌは楽しんでいた。岡寺もお気に入りで、日本最古の厄除け寺というこの場所の雰囲気をとても喜んでいた。甘橿の丘から香具山を見はらすのも、いかにも日本の核心の一部にじかに触れるようで楽しそうだった。甘橿の丘で日の入りを迎えたので、街灯の極端に少ない飛鳥であるため、剣池あたりでは真っ暗な中を道にまよって心細い思いをしたが、このあたりは確か、柿本人麻呂が歩きまわったあたりでもあると話しながら歩いたものだった。

 死から2年経って、ようやくエレーヌを、そんな飛鳥にふたたび連れてきた、と思った。のんびりと時間の流れる飛鳥では、どこも、主な場所はほとんど変わっておらず、エレーヌとはじめて来た頃とほとんど違いはないように感じられる。
 とどまることなく風景が変化し続けていく東京と違って、たいていの風景が変わらないままで何十年も続いていく土地が、日本にはもっとあってもいいはずだろう。人は、風景の中にも記憶を留め、記録するものだし、本当はそういう記憶のしかたのほうがよほど永続性がある。他人にむけて開かれてもいる。

 飛鳥を訪れた時の1999年9月のエレーヌの写真を、いくつか載せておきたい。エレーヌは写真に撮られるのを嫌ったので、残っているのはわずかな枚数に過ぎないのだが…

石舞台古墳で

石舞台古墳で


石舞台古墳入口
フランスで買った安いサングラスをかけて。
シックさの微塵もない安手の派手なデザインがけっこうお気に入りだった。

橘寺付近で




岡寺からの帰り。坂乃茶屋の前で急坂を下る。
夏はいつも団扇を持って外出したものだった。



岡寺の帰り。暑い中、坂乃茶屋の前の急坂を下る。


甘橿の丘。香具山をバックに。

 

 








 

2012/11/22

11月22日、エレーヌの誕生日


(エレーヌ・グルナック こんなこと 4)

 


2010年6月、東京医療センターで。リハビリの後、はじめて歩けるようになった夜。

上の写真と同じ夜。



 駿 河   昌 樹
  (Masaki SURUGA)



   ここに載せた写真は、病中のエレーヌの写真のうちでも最も印象深い2枚だ。
 11月22日はエレーヌの誕生日なので、いくらか記念の意味も込めて、これらを公開しておきたいと思う。

 2010年6月撮影で、エレーヌの携帯電話の中に保存されていたもの。撮影したのは、エレーヌの長年の友で、ピアニストの中島慶子さん。作曲家のメシアンに呼ばれてパリに留学し、帰国後、フランス音楽を中心に研鑽や演奏を続けている。エレーヌの浮腫がひどかった数カ月、ピアニストならではの指の強さを生かして、エレーヌの足をマッサージし続けてくれていた。
 
 なぜ印象深いかといえば、腹水と浮腫とで寝たきりに近くなり、抗がん剤や免疫療法、高濃度ビタミンCなどのすべての療法をストップせざるをえなくなっていたエレーヌが、ふいに急速な回復を遂げ、リハビリに精を出して、ついに自力で歩けるようになった夜の姿を撮影したものだからだ。
 よほど嬉しかったのだろう、エレーヌはこれらの写真をメールに添付して、すぐに送ってきた。昨日までは立っていられず、歩けなかった自分が、今日はふたたび立っている、歩いている… そんな思いで夜の病院の外の景色を眺めているように見える。
 瀕死…と言っていいような、それまでの大変な状態を見てきているので、この写真を見ながら、よくぞここまで回復したものだ、と、嬉しく思ったものだった。

 この写真の時点から4ヶ月ほど後に亡くなることになったが、しかし、彼女の闘病を見続けてきた私には、ここでエレーヌはひとつの山を越えたように見えた。担当医師も病院も匙を投げ、あらゆる積極治療が放棄されて、本人もほとんど動けなくなった状態から、もう一度、自分の足で立ち、歩くというレベルまで這い上がるのは並大抵のことではない。それをエレーヌがやり遂げたということは、それまで健康そのもので、身体的な苦労をほとんど経験しないで生きてきた彼女にとって、やはり大きな意義のあることだったと思える。

 もうひとつ、エレーヌが越えたと思われる山がある。それは、死の直前の引っ越しだった。本人は衰弱して入院中で、実際の引っ越し作業を行ったのは私たちだったが、予定を中止することなく、物事を変化させるほうへ、未知の経験のほうへと舵を取り続けたのはエレーヌ自身だった。この引っ越しが、よりよい療養環境を準備するためのものだったことは、すでにブログの他の場所でも書いたが、あれだけの衰弱のさなかに、自分の生活環境を大きく変える方向を採り続けたということは、大げさにいえば、最期の最期においてエレーヌが勝ちとった勝利のようなものだったのではないか、と思える。彼女の心は退却しなかったし、停止もしなかった。なるほど肉体的には亡くなりはしたが、精神的には変化を求めながら、新たな環境のほうへと進みながら亡くなった。これは、死のむこうへ抜けていった、ということではないか。身体は死んだが、心も精神も意志も、ついに死ぬことはなかったということではないか。
 瀕死のエレーヌを見舞った在東京フランス領事のフィリップ・マルタン氏は、非常に衰弱しているにもかかわらず、エレーヌが引っ越しをとても楽しみにしていた、と言う。新たな場所に移って、病気治療に専念するとともに、新たな生活を始めるのだと語っていた、と。
 エレーヌのことを今もなお思い出し、懐かしく思い、慕いもする人たちが、もし、エレーヌの最期の頃の思いや精神状態を知りたく思うとするなら、それはまさにこのこと、とにかく、新たな未知のもののほうへ進み続ける…、といったことだったのではないかと思われる。

 1941年生まれなので、生きていれば今年は71歳になったはずだった。
 ちなみに、11月22日というのはド・ゴールの誕生日でもあり、ケネディ大統領が暗殺された日でもある。(蛇足ながら、11月21日はルネ・マグリットの誕生日)。

 もし生きていれば、71歳にもなったことについて、きっと、「信じられない…」と本人は言ったのではないかと思う。歳をとるということを、誰にもまして、受け入れない人だった。
 実際、60代になっても若く見えていたし、少しでも若くいようという努力は欠かさなかった。いつも、10歳以上は若く見られ、本人もそれを嬉しがっていた。自慢してもいた。まわりの友人たちも、エレーヌは特別なのだと思っていた。

 そんなエレーヌが、急に歳相応に老けてみえるように感じたのは、いつのことだっただろう。
 2009年のガンの発病以前だったのは確かだ。
 いっしょに電車に乗っている時など、彼女はよく、学生たちの仏作文の添削をやったりしていたが、老眼鏡をかけて赤ペンを持って混んだ電車の中で作業する顔には、疲れの見える時が多かった。そういう時の疲れた顔の中に、ふと、老いの影が射すように見えはじめた時期があったが、今からふり返れば、発病の数年前だったように思う。体内で進行していたガンは、まだ症状を見せないうちから、エレーヌのあの不思議な若さのほうを先に蝕んでいたということなのだろう。
 そんな頃のものと思われる写真がある。
 エレーヌとは毎年のように、春の桜を千鳥ケ淵や北の丸公園に見に行ったが、2006年の春にそこで撮った写真がそれだ。プリントができて、これを見た時には、おや?と思わされた。まだデジタルカメラを使っていない頃、興味本位に買ってみたプラスチックレンズの使い捨てカメラで撮った写真である。日差しが強すぎ、風も強かった上、カメラの質の悪さやこちらの下手さも加わった写真だが、そんな悪条件の中で写しとられたエレーヌの顔には、今まであまり目にしたことのないような衰えの影が、白々と写っているように見えた。
 ガンが数年かけて成長し広がっていくということを考えれば、2006年頃というのは、エレーヌの体内にすでにガンができており、広がり始めていた頃と考えられる。
 この写真を見ながら、エレーヌは大丈夫だろうか、さすがのエレーヌも少し老いてきたのか…と考えたのを、いまでもよく覚えている。
  


2006年春、北の丸公園
同上

同上


2012/10/27

2度目の命日にあたって

(エレーヌ・グルナック こんなこと 3)  


   駿河 昌樹
   (Masaki SURUGA)




     



                         1

 2年目のエレーヌの命日が10月31日にやってくる。いまだに、エレーヌの死を知らない知人の人たちはいて、なにかの折りに伝えると、「そういえば、しばらくお会いしなかったが…」と驚かれることがある。

昨年の2011年の命日31日には、夕方に、エレーヌの最期の場所となった駒沢の東京医療センターを再訪した。彼女がながい入院をした婦人科病棟を訪ね、体調のいい日々にはエレーヌがよく行った1階のカフェ〈エクセルシオール・カフェ〉でコーヒーを飲み、そこからエレーヌゆかりの地域をまわるべく、三軒茶屋や代田のエレーヌ旧宅まで歩いた。
 今年も同じようにするだろうし、今後もしばらくはそうするのではないかと思う。エレーヌとともに30年以上をおなじ地域で暮らした私の、小さなセンチメンタル・ジャーニーということになる。
 

東京医療センター1Fのエクセルシオール・カフェ。
入院中、エレーヌはたびたび此処に下りてきて、コーヒーを飲んだ。

入院中、いつも洗顔や歯磨きをした洗面所。
奥に見えるのが、エレーヌが長く入院した病室。

エレーヌが長く入院した病室。
2010年4月から8月末まで入院し、おもに写真右奥のカーテンのしまっている窓際のベッドを使った。
10月の再入院後もこの病室に入り、同じ窓際のベッドを使った。
10月31日未明に此処で意識を失い、緊急の処置室に移されてから亡くなった。
写真は2011年10月31日に再訪した際のものだが、正面の洗面台の右下にオーブが写っている。
27日(土)には、エレーヌがヨガを指導していた大船の長福寺で、ヨガの仲間たちが集まって、エレーヌを偲ぶ会を行ったらしい。

どこにいて、どのように偲ぶのであれ、エレーヌを思い出すのにはコーヒーが似合う、と私は思う。とにかくコーヒー好きで、カフェ好きだった。濃い目のフレンチローストやイタリアンローストが好きだったが、重病に罹ってからも、ちょっと体調がよければコーヒーを飲みたがった。日本でほうぼうに自動販売機が並ぶ光景を批判していたわりには、戸外では自動販売機のコーヒーのあまり甘くないタイプをよく買って飲んでいたし、新しい缶コーヒーが出るたびに試していた。無糖の缶コーヒーがあると、「ここには無糖があります!」と言って喜んでいた。おそらく、自動販売機がなくなったら一番困ったはずなのがエレーヌだろう。
そんなエレーヌの命日には、ちょっといいコーヒーを淹れて、いっしょに飲むつもりで口に運ぶのが最適な供養のしかたではないかと思う。というより、コーヒーのおいしく感じる時には、いつもエレーヌが来ているように思ってもいいぐらいかもしれない。

エレーヌの友人たちや知人たち、学生たちは多く、みな個性的でもあれば、それぞれ独自の関わりかたをエレーヌとしてきたようなので、命日だからといって、ムリに形式ばった集まりかたをして偲ぶようなことは無用だろう。葬儀はしかたなく行ったし、少しでも多くの人にと連絡をしたが、もともと、エレーヌ無き後に多くの人を集めるようなことには気は向かなかった。各人が各様にエレーヌを思い出せばいいし、命日にこだわる必要もないし、場合によってはすっかり忘れてしまってもかまわないと思う。死者を偲ばない、忘却しつくすというのさえ、じつは死者に対するのにふさわしい仕方のひとつで、死や霊界や神秘主義や多様な宗教に熾烈な関心を持ち続けたエレーヌ自身、考えのうちに入れていたことのひとつだった。死者を思い過ぎるのは、生者の側の執着やエゴイズムにすぎず、死者を偲べば偲ぶほど、その人の霊の進化を妨害するという見解は、ある種の霊能者たちによっては共有されてもいる。

エレーヌが私に託したことは、じつは、葬儀をせず、彼女の死を一切誰にも教えないということだった。死の間際までエレーヌの世話をし続けた人たちは、もちろん亡くなったことを知ることになるので、その人たちのみは特例として扱ってよいが、それ以外は、見舞いに来た人たちにであれ、たったのひとりにも連絡はしない。すべて、私ひとりで死後のことを行い、それで一切の幕引きとする…ということだった。
もちろん、これは厳命ではなく、こういうやり方でよい、このほうがよい…という程度の緩い望みだったし、彼女なりのロマンティシズムでもあったので、実際に亡くなった後、私は完全にこの意思を覆すことにした。その理由は、エレーヌが東京で自由にそれなりに豊かに暮らせたのは、多くの日本の知人たちや友人たちや学生たちのおかげであったのだから、日本と人生を去るにあたって、最低限のお知らせと挨拶はして逝くべきだろうと、私なりに考えたためである。言いかえれば、エレーヌが今生で享受できたエレーヌ自身の幸福とチャンスを再認識し、それへの感謝をしておく、ということでもあった。
実際、おなじフランス国籍の人間でも、エレーヌが恵まれたような大学の職やカルチャーセンターの職、外務省の職、個人教授などの仕事に就けて、継続していける人は多いわけではない。その人の質や能力という以前に、日本人の側での好みや差別というものがあって、その時点での選別があらかじめ、そして、つねに行われ続けている。あれだけアフリカ系やアラブ系の国民が多い現在のフランス人だというのに、日本のフランス語教育の現場にほとんど白人ばかりというのは、そうした差別を歴然と表していることでもある。

エレーヌとしては、結婚式であれ葬儀であれ、形式ばった面倒くさい儀式のすべてを嫌っていて、かなり馬鹿にしてもいたので、自分がその中心に祭りあげられるようなことには耐えられなかったにちがいない。なんであれ、形式というものに正面から真っ正直にぶつかって、嫌悪を表明し続けたのがエレーヌだった。彼女の途方もない役所嫌い、大学の事務嫌い、授業運営における建前論嫌い、社会の様々な場所での実質を伴わない表面的な取り繕いへの嫌悪などは、みな、同一の根っこから出てきている。人にはいちいち言わなかっただろうが、ブランド嫌いも凄まじかったし、格差社会を支えるような様々な差異を見せびらかすような人々への嫌悪と軽蔑も大変だった。
忘れてならないのは、エレーヌがフランスに移民した労働者の二世として、また、子だくさんの貧乏な家の娘として、フランスのチベットと呼ばれる場所に育ち、大学時代からパリに出て、貧乏学生としてなんとか自己教育を続けた女であることだ。チェコスロバキア人の父、ポーランド人の母の子であり、両親ともフランス人ではない。母にいたっては、父によって渋々連れてこられたフランスへの憎悪を一生涯持ち続け、フランス語をついに積極的に学ばず、家庭でフランスを呪って歎き続け、老いの進むほどに、そのことで夫を責め続けたという事実がある。これが家庭にいつも重苦しい雰囲気を強い、子供たちに重大な影響を与えたのは疑うまでもない。
エレーヌはまた、日本人が反省もなしに受け入れ、憧れたりするフランスのブランドなどには敵対する出自と生活をしてきたフランス人であり、属するとすれば貧乏な知識人層なので、ブルジョワふうの特権階級や旧貴族などとは、感受性も思想も全く共有していなかった。険しい顔をしている時も多かったとはいえ、さいわい、ユーモアに溢れていたエレーヌなので、ときおり一車両に数十人ほどのルイ・ヴィトンの持ち主が乗りあわせたりする東京の電車内の光景を滑稽きわまる光景としてよく楽しんでいたが、「ルイ・ヴィトン」を持ってせわしない姿で山手線に乗る日本の女たちというシュールな光景がなにを意味するのか、よく語りあったものだった。高級車で直接店に乗りつけ、メトロやRERなどにもちろん乗ることなしに帰宅する女たちの使うもののひとつが「ルイ・ヴィトン」であり、したがって、どうしてエレーヌのような裕福ならざる知識人が断じて買わないのか、手も触れないのか、そんなあたりのことがよく理解できなければ、エレーヌ・セシル・グルナックとはどんな人物だったのかは、まずわからないはずだ。フランス人の間に存在するこういう巨大な差異と反目を、フランスかぶれの日本人は殆ど見落としており、日本に来るフランス人をみんな同質と見がちだが、とんでもない間違いを犯している。

ただ、エレーヌの運命の面白いところは、裕福なフランス人たちとの交流もあったことだ。青春時代にかなりのプロポーズをされたが、中には城をいくつか持っていて、別荘もヨットも持っているような初老の金満家もいた。宝飾品のプレゼントもさんざんされたが、すべてエレーヌは断ったか、返却したという。本当のところはわからないが、私はそう聞いた。
学生時代に、医学部の大学食堂をよく使ったので、若き日の恋人たちは医学生や医師ばかりだし、婚約者も優秀な医学生だった。素直に結婚していれば、ブルジョアの奥さまの暮らしは保証されていたのだが、エレーヌにしてみれば『ボヴァリ―夫人』のようなそんな暮らしは地獄以外のなにものでもなかった。住んでいる地域での名士の奥さまとなること、夫の家の舅や姑の支配下に置かれること、ブランド品に取り巻かれること、…そうしたすべてがエレーヌには許しがたいことで、それらをすべて捨てて婚約破棄をし、日本語の勉強を始めた。
  図書館員として働くかたわら、パリの東洋語学校で日本語を学び続けるうち、オレガス教授から日本への留学をつよく勧められることになったが、図書館員の職を捨てて、将来の収入がどうなるかわからない日本留学をするのは、エレーヌにとっては大変な決意を要した。35歳ほどだったので、ここで日本に行ってしまえば、フランスでの職への後戻りは難しい。細々とした収入ながらそれなりに小さく安定して、好きな本をたくさん読み続けられる仕事を続けていくほうが、堅実といえば堅実な考え方だった。が、結局、エレーヌは彼女なりの必死の跳躍を敢行した。彼女の日本への来訪は、フランスでのそれまでの生活への復帰を断念した上での覚悟の選択だった。
 エレーヌとの結婚を夢見てりっぱに医師となった婚約者は、婚約破棄を受け、激しい落胆に堪え切れずに、エレーヌに見せつけるようにしてすぐに別の女と結婚をしたが、愛してもいない相手との結婚生活には問題が続出し、看護婦との不倫をくり返して、やがて離婚に到った。その後もしかし、エレーヌとは連絡を取り続け、医学の学会や退職後の旅行でごく稀に日本に寄る際には、ひさしぶりに会って食事をすることもあった。私自身が手配して、渋谷駅のエクセルホテル東急を準備して泊まらせたこともあった。
 奇妙なことながら、エレーヌの闘病中、この元婚約者のほうも心臓疾患で危険な状態に陥っていたことがあった。
 エレーヌの病状や治療に関して、私自身、彼には頻繁にメールで連絡をし、東京での治療のあり方は順当と思われる、との返信を得ていた。エレーヌの死後、「今だから言うが、あの病状では回復が困難なのは、医師としてはわかっていた…」とのメールも貰った。
東京の友人たちにも裕福な人は多く、エレーヌに朝日カルチャーセンターの授業を譲ったフリージャーナリストのエレーヌ・コルヌヴァンなどは、金融取引の仕事をしていた夫のおかげで、新宿の大きな豪邸を借りて住んでいた時期があった。何度か訪ねたが、家賃が月200万以上する豪邸には、苔の美しい大きな中庭を中心に廊下が四角くめぐらされ、フットライトが高級な料亭のように渋い木の床を照らして、個人の住まいというより、特別なしつらえの大きな旅館にでも来たようだった。イギリス人の夫チャールズは、帰宅して一緒に夕食の席についても、たびたび電話で世界中に株取引の指示を出し続けていて安まる時がなかった。この豪邸のわきに、東京のどこでも見るようなごく普通のアパートが建っていたが、コルヌヴァンはそれを指して、よく私たちに「ああいう汚い建物を壊してもらわないと、不快でしょうがない。本当にひどい光景よね」と言って、カラカラ笑っていた。アフリカで奴隷を使ったプランテーションや貿易で儲けてきた家系の娘で、当時気運の高まりつつあった南アフリカの黒人差別撤廃の運動に心底反対していた。「私たちが歴史の中で築いてきた財産をどうしてくれるの?差別撤廃なんて、本当に人類はどうかしている」という説を、さんざん聞かされたものだった。楽天的で快活で、親切ないい人だけに、こういう思想上の落差はいっそう衝撃的だった。
こうした友人たちや知人たちの考えや感受性を、じつは全く受け入れずに、エレーヌは平然として話を聞いてやっていたものだった。エレーヌが人の話を聞いたり、それを楽しんでみせたりするのは、相手の立場や思想を受け入れているのとは違う。じつはそこに、多くの人が騙された。騙すつもりはなくとも、ただ話を聞くというだけのことなのだが、すぐに相手に反論したりする話し方の多いフランス人の中では、これは珍しく、エレーヌが重宝された理由でもあり、人に好まれた理由でもあった。





                  2

2年目の命日にあたり、2010年10月のエレーヌの死の前後の出来事をかいつまんで振り返っておこうと思う。私や、世話を続けた数名の人たちのあいだではよくわかっていることなのだが、それ以外の人たちには未知のことも多いかもしれない。厖大な内容のうち、本当にわずかのことをメモしておきたい。

◆エレーヌは8月末の退院以降自宅療養をしていたが、10月に入ってからは衰弱してきていた。10/18時点の様子を見て、在宅はすでに困難と判断。10/19に医療センターの医師に電話し、10/20の入院を手配。20日朝に病院に連れて行った。
 
◆同日夜、病院で夕食や寝る準備のあいだ付き添ったが、ひとりでは起き上がる力がなく、トイレに腰を下ろす力もなくなっていた。ビタミンの貴重な摂取源のミカンやトマトの味を受けつけなくなり、食事からのビタミンCの補給が不可能に。

10/24、長年続いてきたエレーヌの手帳への日録記入がこの日で終わった。ペンをとって文字を書く力がなくなった。
後で聞いた話では、30年ほど通った馴染みの美容師さんがこの夜、「元気になった!」とエレーヌが言いに来たというリアルな夢を見ている。


2010年10月24日まで記された手帳

記入されることのなかった25日以降のページ
 
10/27、飲みやすい経口ビタミンCを買って病院に。エレーヌの衰弱は激しく、食事もほとんど摂らず。個人的に、生前のエレーヌと会った最後の日となった。

亡くなる5日前、2010年10月27日のエレーヌ。
東京医療センター1F、〈エクセルシオール・カフェ〉わきのサロンで。衰弱しているとはいえ、アルブミン点滴をしつつ、車椅子でカフェにも出かけてきていた。冷えないように首に巻いた手ぬぐいの締め具合を調節している。
ブルーのバンダナをしているが、最期ちかく、黒でも白でもなく、この色を好んだ。

亡くなる5日前、東京医療センター産婦人科病棟で。
2010年10月27日の夕食時。
勧めても、多くもない量の食事にほとんど手をつけなかった。
弱ってはいたが、同時に強さがあり、強さを保とうとも努め、会話を続けた。
窓際のこのベッドに寝たまま、10月31日未明に意識を失った。


同じく、亡くなる5日前、東京医療センター産婦人科病棟で。
2010年10月27日の夕食時。
顔の写真としては、生前に撮られた最後のもの。

10/28、引っ越し先の新居のカギを受け取り、新居に入って掃除や整理。
(医療機関の変更も含め、今後のよりよい療養のために、私の住居近くに越すことが計画されてきており、それが実行段階に入っていた。そういう最中での急激な身体の衰弱の進行が起こっていた。もちろん、引越し計画の中止も検討し、エレーヌ本人にも何度も聞き直したが、彼女はそのまま引越しを遂行したがった。病気に負ける気は全くなく、療養を続けるために、住んだことのない土地に越して新たな人生を始めるという、強い意志があった。身体状況と精神状況のはっきりした乖離が起こっていた。)
夜に、家の電話機が30分おきに電子音を鳴らし続ける。誰かが電話機のボタンを押さないと鳴らない音が、まるで、そこに人がいて押しているように鳴る。異常な現象だったが、エレーヌの霊が来てなにかを告げて鳴らしている、と思うのがごく自然に感じられた。

10/29、朝9時より引っ越し開始。
入院中で衰弱しているにもかかわらず、エレーヌは自ら引っ越しに来て采配を揮うつもりだったらしく、どうして自分を連れに来ないのかと言っていたらしい。
引っ越し中に、エレーヌから奇妙なメール。ひとつは読めない文字の羅列。もうひとつは「お元気ですか?たまにはお会いしましょう」という奇妙な挨拶定型文メール。
 新居に手伝いに来ていた友人たちが、帰途、医療センターのエレーヌを見舞ったが、これが、友人たちがエレーヌに会った最後となった。

10/30()、台風14号のため、朝から風雨。夕方以降は強風。見舞いにいこうと思っていた誰もが、電車の不通や混乱などもあり、明日以降に病院に行こうと考えて、この日は諦めることに。
午前8時の回診記録では、意識に変わりなく、食欲もあったとのこと。
午後2時52分、「疲れる…」と洩らしていたとの記録。
午後4時57分、「大変…」と看護師に言っていたとの記録。
看護師たちによれば、時間によって、眠りがちだったり、起きていたりをくり返していた。亡くなる前に現われることの多い傾眠現象が始まっていたらしい。

10/31()、午前3時に意識レベル低下。回診の看護師が声をかけたが、反応がなかったとのこと。傾眠を超えた状態に入ったことになる。個室に移し、処置の開始へ。
午前4時57分、血圧低下始まる。
午前7時10分、亡くなる。
当直医師側の不手際で、私の家の固定電話に連絡が来なかったため、異常を知ったのは6時過ぎだった。この時点で数名に連絡したが、誰も臨終には間に合わず、最も近い友人も間に合わなかった。
私が到着したのも7時40分だった。
ベッドの上のエレーヌに呼びかけると、エレーヌの目から涙が流れ出た。死の直後の遺体が見せる現象に過ぎないだろうが、こちらの声に反応したのか、と思いたかった。

この日は午後、死亡届や埋葬・火葬許可書取得のために大忙しになる。世田谷区役所に行ったが、死亡した区が病院のある目黒区のため、目黒区か、転居先の北区に行くように言われた。
一方、エレーヌの住民票は世田谷区からすでに抜いてあり、北区にはまだ入れていなかったために、問い合わせても、どの役所も戸惑うという事態となった。
結局、法務省に問い合わせ、埋葬許可書については目黒区で取るということに。
葬儀先を神奈川の長福寺としたため、火葬も神奈川となるので、その点も混乱の原因に。

11/2(火)、10時より11時頃まで大船の長福寺で告別式。参会者は100名ほど。もし翌日の祝日に行えば、もっと人数は増えたと思われた。
11時45分頃より火葬。
13時30分集骨。


長福寺での告別式風景。本堂脇の山小屋ふうの趣のある集会場で。
すぐ向こうの森から、読経の最中もたえず小鳥たちの鳴き声が聞こえてきていた。
自然とつながった雰囲気のある、かた苦しさの少ない稀有の葬儀だった。
読経の続く中、ひとりひとり焼香。手前に棺。写真は40代後半のもの。
告別式が済み、棺を花で埋めて、最後のお別れ。


◆エレーヌのいないその後の日々は、エレーヌに関わりつつも、いわば私個人だけの物語の日々となった。
フランス大使館での戸籍への死亡記入をはじめ、(そのためには、世田谷・目黒区役所での複数の書類が必要なため、多忙を極めた…)様々な届け出に追われたり、一年ちかくかかることになった遺品整理などが襲ってきた。
死後のすべての作業は負うつもりだったし、エレーヌにも告げてあったが、フランスの親族が一切なにも行わず、来日もしなかったため、私ひとりに本当にすべてがかぶさってきた。さすがに親族側からのなんらかの援助ぐらいは得られると期待していたので、いろいろな意味でショックは大きかった。この後1年に及ぶ残務整理に個人的な生活は翻弄され続けた。




                   3

エレーヌが亡くなってから4カ月後の大震災と原発事故、その後のさまざまな日本のごたごたを見るにつけ、エレーヌはまさに、高度成長期以後の日本の平和安定期のみを経験して生きたのだ、と思わされる。
 彼女の病状の変化を見続けてきた私には、あのひどい腹水や浮腫の症状によって、じつはエレーヌが日本の崩壊を最後のぎりぎりのところで止め続けていたのではないか…という突飛な思いさえ湧く時がある。エレーヌのような人たちがいたことで保たれていたものがあったのではないか、そうした人たちが去ったり逝ったことで、急に日本は崩れ始めたのではないか、と…
 いくらか関連することとして、10年ほど前からエレーヌが言っていたのは、日本人たちの顔が急にひどく悪くなってきた、なにかおかしい、この国は悪い方向に進んでいる…ということだった。すでに長く日本に滞在し、日本人を見続けてきた外国人としての感慨だった。今になって、思い出されることのひとつである。

  居住地でいえば、目黒区の駒場、世田谷区の池の上と代田にしか住まず、下北沢や三軒茶屋を中心として暮らし、渋谷や新宿、横浜、池袋、湘南台、四谷あたりを主な仕事場とした後半生だった。

 エレーヌというと「世田谷」との結びつきが思われるが、日本での彼女のはじめての住所は、目黒区駒場の東大わきの留学生会館(いまの国際交流会館)だった。

 20101031日の暮れがた、埋葬・火葬許可書をその日のうちに取るために、はやくも照明をほとんど落とした閉館後の目黒区役所で長く待ちながら、エレーヌはどうして目黒区の病院なんかで死ぬことになったものか…と考えたりした。
そして急に気づいたのは、目黒区に住むことから始まったエレーヌの日本滞在が、やはり目黒区で終わる事になったのだ、ということだった。
目黒区から日本の生活に入り、目黒区から去っていったのが、エレーヌという人だった。

なかなか気づかないような、なんでもないようなこんな小さな符号のようなものが、エレーヌの亡くなる頃にはたくさん見出され、そのたびに驚かされたものだった。







2012/09/13

2010年8月30日 退院の日

(エレーヌ・グルナック こんなこと 2)
             


    駿河 昌樹
   (Masaki  SURUGA)




 2010年の秋はエレーヌの最後の秋だった。
 
 しかし、4か月におよぶ長い入院の後、8月30日に退院して再び自宅での療養生活をはじめた時点では、エレーヌは甦りの生気に満ちていた。

 退院時、荷物をまとめ、運び出してから、ベッドを前にして撮ったのが、この写真。
  
退院の日。2010年8月30日、東京医療センター産婦人科病棟で。

 まなざしも肌も生き生きとしていて、周囲で世話をしてきた人たちは、エレーヌならではの奇跡が起こったのか、と考えた。

 2010年の4月から、ひどい腹水や下半身の浮腫のために入院していたエレーヌは、(毎日3000ml前後を穿刺で取らざるを得ないほど、多量の腹水が4カ月にわたって溜まり続けた)、6月から7月頃、急速な体力の減退に襲われ、ほとんど死に瀕していた。
 4~6月までは、高濃度ビタミンC治療や免疫治療などのために、入院先の東京医療センターから週に何度も都内のクリニックへ通っていたが、それを続ける体力もなくなり、歩行もできなくなり、また、血管が扁平になって点滴の針さえ入らなくなった。
 東京医療センターでは抗がん剤継続のプランがあったが、それを継続しても効果はなく、逆に身体を弱めるだけとの担当医師の判断により、中止となった。この時点で、ふつうの意味でのガン治療は放棄されたことになった。免疫治療も事実上の停止、高濃度ビタミンC治療も中断され、治すための積極的な治療はすべて終わった。腹水穿刺や、腹水を止めるためのアルブミン投与などの措置だけは継続された。
 これが6月から7月時点のことだった。

 (動ける間には、近い将来に予想される衰弱と死を考えて、ホスピスなどの検討や見学も行われた。エレーヌ自身、友人たちに伴われて現地の見学に出向いた。しかし、どれほど静かでよい環境が準備されていても、病気を治すためでなく、残された時間を安らかに過ごすだけの場所というものを、エレーヌは受け入れなかった。闘病のはじめから関わることになった普通の大病院である東京医療センターの産婦人科の、いかにも病院然とした環境、つまり、重病患者たちもいれば、妊婦たちもおり、生まれたばかりの子らの声がたえず響いているような慌ただしい環境の中で死んでいくほうを、エレーヌははっきりと選択した。ガンに罹ってからのエレーヌは、治療についても、病気の重大さについても、その他あらゆる雑事についても、不決断が目立つようになり、誤認も増えたが、この点については明快な決断をしたといえる)。
 
 腹水はたんに細胞から漏れ出る水ではなく、栄養素が溶け込んでいる。そのため、出続ける腹水に抗するには、意識的に栄養も取らねばならず、特に効果的なタンパク質の摂取が必要になるが、もともと食が細いうえ、腹水で胃が圧されることから来る胃液の逆流で食道炎も起こしており、不快感から食事量はさらに減っていた。
 病気が快方にむかうような楽観材料はほとんどなく、相乗的にマイナス方向への加速を強めるような要素ばかりが次々出てきて、まわりで世話をする人たちは、覚悟しなければならないか、と考えていた。 

 ところが、この後、腹水の溜まり具合が急に減り出し、それとともに体力の回復が始まる。これには、担当医師たちも首をひねったほどで、こうした急な回復については説明がつかないようだった。
 ともかくも、エレーヌは急速に体力を取り戻し、リハビリを始めるほどになっていく。8月は、病院内のリハビリ施設に出向いて、リハビリに努める毎日となった。見舞いに訪れた人たちも、車イスにエレーヌを乗せて、病院の裏の林に連れて行って、大樹を見せたりできるほどになった。

 こうした数カ月を経ての、8月30日の奇跡的な退院となったのだった。もちろん、健常者の体力が戻ったわけではないし、身体の機敏さも戻ってきてはいなかったが、病院1Fのカフェ〈エクセルシオーレ〉にコーヒーを飲みに行ったり、そこでサンドイッチを食べたり、胃腸を温めるためのお湯を店員にたびたび要求したり、また、売店にカフェオレや総菜やサラダを買いに行ったりする気力と体力は戻っていた。

 次の写真も、退院当日のもの。
 
同じく、退院の日。2010年8月30日、東京医療センター産婦人科病棟で。
なんでもない姿に見えるが、このように自力で立てていること、バッグを肩にかけ、手にもバッグや書類を持っていられるということ自体が、ついひと月半前にはあり得ないことだった。
 ちなみにこの日は、この後、1Fの食堂でさば煮定食をとり、半分以上の量を食べてから、タクシーで帰宅。それだけ食べられるように戻ったことも、ずっと見続けてきた者からすれば、奇跡的なことと見えた。
 4か月も入院していたのだから、軽くてもなにか挨拶でもあるのかと思ったが、ナースステーションの前を通っても看護師が声をかけるでもなく、たくさんの荷物をカートに乗せて運ぶ私とエレーヌふたりの、静かな退院だった。 

 記憶に残るような猛暑の夏で、退院してきたエレーヌをエアコンのない家に住まわせるわけにはいかなかった。
 エレーヌは生涯、いちどもエアコンを自宅に設置したことはなく、扇風機と団扇だけで過ごしてきたが、今回ばかりはそうもいかない。
 エアコンは電機量販店のどこでも品薄になっており、手頃な価格のものなど品切れになっている夏の終わりだった。方々の店をまわった末、さいわい一台を買うことができ、退院の数日前に設置しておいた。

 エレーヌにとっては久しぶりの自宅だったが、もちろん、長く空けていた家に帰った当座は忙しい。エアコン設置の際に掃除はしておいたが、自分にあうように、衣類や家財などを置き直す作業がエレーヌには必要だった。
 指示してくれれば整理はするから、疲れないように、働き過ぎないように、と言っても、エレーヌは自分で動きたがる。少しずつ体中の筋肉を回復してもらう必要もあるので、適度に動いてもらいたいのだが、適度に動き、適度に運動し、しかし疲れないように、無理しないように…、というのはなかなか難しい。本人が、自分の身体と相談しながら、少しずつ感触をつかんでいく他なさそうだった。

 午後には、介護サービスのケアマネージャーの人が来て、いろいろな説明。書類へのサインの数々。なにをするにも書類、サイン、説明…で、役所や書類の大嫌いなエレーヌは露骨に不快感を示した。それを説得し、いなしながら、なんとか事を運んだ。
 その人が帰ってからしばらくして、実際に介護に当たってくれる人が来て、今後の介護のプランを決めた。「ほほえみの木々」の伊藤さんという人だったが、エレーヌにずいぶん関心を持ち、気も合ったようで、最後までよくしていただいた。

2010年9月8日16時37分。自宅で。ケアマネージャーの伊藤さんと。
このように退院してからエレーヌが生き延びたのは、たったの2か月ほどで、いったいこの2カ月にどんな意味があったのかと考える時が、今でもある。
 病気からの回復を諦めず、むしろ、少しずつでも、完全に治していく気持ちになって生きた2カ月だったのは確かだと思えるが、それだけでなく、この時期になってこその、それまで未知だったさまざまな人たちとの出会いというのも大事だったのではないか、と思える。病気になってからのエレーヌをいつも傍で見ていて思ったのは、医療・介護関係者たちとの新たな出会いの連続を経験しながら、友人たちや知人たち、血縁者たちなどとの関係の変化や進化、あるいは落胆、断絶などが猛烈な速度で続いて行ったことだった。魂の不滅や生まれ変わりを強く信じたエレーヌにとっては、病気になって初めて出会うことのできた人々、意外なかたちで深められていった人間関係、友人たちへの理解の深化や気づきなどは、そのまま、来世に持ちこされていく重要な関係性の布石となったに違いない。

 家の中には、なにも食べ物もなく、雑貨も欠けているので、野菜や果物や魚や雑貨などを買いに出なければならなかった。5000円分ほどあれこれ買い込んで戻り、夜はホッケを焼いて食べさせた。
 エレーヌはホッケが好きだったが、病院食では出ず、久しぶりに喜んで食べた。毎日、タンパク質を摂ってもらう必要があったので、料理の簡単なサーモントラウトも買ってきて、使いやすい適当な量に切り、冷凍した。私をはじめ、まわりで世話をする人たちも、自分の生活や仕事がある以上、毎日来てすべての世話をするわけにはいかない。介護サービスの人たちも、一日1時間半しか居ることはできない。今の日本で、重病に陥った人たちが直面する現実だが、なんとか乗り越えていくべく、小さな知恵を重ねていく他なかった。

 エレーヌは、抗がん剤で髪の毛の薄くなったままの頭を、インド綿の布で覆うことが多かったが、最後の2カ月は、とくにブルーの布を好んだ。100円ショップで買ってきたバンダナ用の布だった。
 じつは、プレゼントされた布が他にもいろいろあり、故郷の妹からは、ガン患者の女性用の特製頭巾もふたつ贈られてきていたが、エレーヌは使わなかった。妹には、素晴らしいものを貰ってうれしいと告げ、いつも使っていると伝えていたが、実際にはこれを嫌い、100円ショップの布が最良として、使い続けていた。

2010年9月17日15時34分。
自宅にて。

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(注)

   これまで、このブログでは、エレーヌの闘病については概括的にのみしか触れないようにしてきた。エレーヌの全体像を考える上では、どれほど大変だったとはいえ、闘病期は一部をなすに過ぎないし、また、それにもかかわらず、重病というものの性質上、言及すれば印象は強くなるので、エレーヌ像を歪めかねないとも考えたためだ。なんといっても、エレーヌが生涯のうちの66年間ほどを、せいぜい風邪ぐらいしか知らない、完全な健康体で過ごしたのは事実でもある。病気を経験したのは、最後の1年半だけだった。
 病気にあまり触れないできたのは、陰に陽に、エレーヌの「友人」や「家族」を自負する人々から、病気のエレーヌのことをあまり知りたくない、見たくない、と言った圧力を受け続けてきたためもある。
 不思議なもので、そういう「友人」や「家族」たちは、病気のエレーヌの世話をほとんどしなかったか、全くしなかった人たちで、にもかかわらず、自分がエレーヌの親友であり、理解者であると自認していることが多い。こうした人たちからいろいろなメールを受け取ったり、言動を見てきた私としては、なんとも不可思議な人間喜劇を見せられてきた思いがあるが、ともかくもエレーヌの死から2年が経とうとしている今、そういう人たちはすでにエレーヌへの興味を失い、このブログを見ることもなくなったようで、ようやく、落ち着いてエレーヌのことを振り返ることができる気がしてきている。
(闘病中ばかりか、死後の葬儀にも、手続きや遺品整理などにも、ついに一度も、誰ひとり訪日しなかったフランスの「家族」たちについては、いずれ書いておきたいと思う。)

  闘病中のエレーヌは、髪の毛も失い、時には憔悴して、健康だった頃の彼女とは様変わりして見えるが、しかし、簡素な非常な強さ、言葉には出さずとも、かつてなかったような決意や強さを顔や姿にみなぎらせていることも多かった。エレーヌが自分の守護霊と信じていたアメリカ・インディアンの酋長のような、含蓄深い厳しい顔をしていることも多かった。そういうエレーヌを見ていると、病気は明らかに、彼女を別のレベルに移行させつつある、と感じられた。
 介護の傍ら、私はそうした姿を写真に撮り続けたが、それらの中には、すでに死後2年経った時点では、そろそろ人に見せ始めてもいいかもしれない、と思われるものも少なくない。病気の時の写真だから、過去の元気だった頃と比べれば痛々しさもあるかもしれないが、ああいう闘病期もあったね、あの時はこんな顔をしていたよ、などと心の中のエレーヌに示しながら、私以外の他の人に見せてもいいと、許可を与えてくれそうな写真。

 これからは、少しずつ、そんな写真を添えながら、思い出話を書くかもしれない。
 いまだにエレーヌを忘れない、ごくごくわずかな人たちだけが見ることになるのだろうが、そういう人たちになら、病気の時のものであれ、見られてもいいとエレーヌは思ってくれるだろう。
 なんといっても、いつまでも興味を持ち続けていてくれるような人たちだけが、本当の友だちというものなのだから。













2012/08/09

「もう秋です…」

(エレーヌ・グルナック こんなこと 1)



by Yoshimi OHO  17/02/2008

                                                                                                    

      駿河 昌樹
      (Masaki SURUGA)


 8月も7日ごろにはもう立秋で、暑い日が続く年であっても、どこかに秋が忍びこんでくる。旧暦の季節感の正確さに感心させられる。
 8月のはじめ頃、ちょっと涼しくなったり、秋めいた雲が出たりすると、エレーヌはよく、「もう秋です…」と言った。6月や7月、まだ夏がはじまったばかりの頃、たまに涼しくなるような日にもこう言うことがあって、夏という季節の底にはじめから秋がひそんでいる、と強調したいようだった。
夏の暑さは嫌いではなかったし、汗が出るのもさほど苦にしなかったが、やはり、涼しくなって過ごしやすくなってくるのは嬉しかったらしい。夏の終わりや秋のはじまりの寂しさにも敏感だったので、「もう秋です…」には、いろいろな感情が交ざっていた。

 彼女が「もう秋です…」とくりかえすようになる8月はじめ頃には、毎年、庭の右側にあったサルスベリの木が美しい紅の花を咲かせた。エレーヌは強いピンクの色が大好きで、それに近いサルスベリの花を喜んだ。色彩辞典を見ると、ジェラニョム、ルージュ・アルダンなどが近いように思うが、ローズ・オルタンシャなども好きな色の範疇に入るかもしれない。春には、玄関わきのツツジの大きな二株が、やはり同じ色調の強いピンクの花々をつけ、彼女を喜ばせた。

こうした強いピンクは、ひょっとしたら若い頃からお気に入りだったのかもしれないが、はっきりと好みを打ち出すようになったのは、50代も後半になってからだったように思う。好むとはいっても、自分の身につける服やバッグや靴の色などは、すべて黒やグレーや墨色、渋い緑ばかりだったので、彼女と会う人たちは、エレーヌが地味な色を好むのだろうと思いがちだった。小物を買うにしても、鮮やかなピンクや原色のものを買うのは好まなかったので、彼女の身のまわりのものを見ると、黒やグレー系の地味な色しか好まない人のように思えたかもしれないが、心の中にはいつも鮮やかなピンクがあった。こんなところにも、エレーヌの複雑さの一端があった。
大好きなピンクを、彼女は花に託していた。バラをはじめとするピンクの花々を見に行くのを好んだし、そうした色のよく出ている花のカレンダーを飾るのを好んだ。花のカレンダーは、毎年いろいろなものが出まわるようでも、なぜか年によっては、よい写真のものが少ない場合がある。しかたなしにひとつ買っては来るものの、もっときれいな写真の載っていた古いカレンダーを捨てずに、いつまでも貼っておくことがあった。エレーヌの家のトイレには、十年近く前の花のカレンダーや紅葉の寺のカレンダーが貼ってあったが、それは、理想に近い花の色や撮り方への、ちょっとした愛着のひとつだった。

人にはよく花を贈ったが、自分で美しい花を買ってきて家に飾るということはあまりしなかった。自分が住む場所を小ぎれいな寛ぎの空間にしようとは思っていなかったらしい。各方面への知的興味の探求のベースとなるような本や資料やビデオテープのあふれた空間、さらには、毎日のヨガの実践のできる小さな修行場としての空間。このふたつの機能さえ満たしていればいい、と感じていたように見える。家具にもまったくといっていいほど注意を払わず、駒場の留学生会館から1980年前後に引っ越す時に人からもらった古いテーブルやローテーブル、粗大ゴミから拾って来た棚、必要に応じて買い加えたカラーボックスなどをいつまでも使い続けていた。
食卓やイスをもっと快適なものに買い替えようというプランはたえず提案したし、エレーヌも「いいものが見つかれば…」といつも言っていたが、なにかの買い物のおり、家具売り場に偶然出たのをさいわい、テーブルやイスを実際にあれこれ見てみると、エレーヌはすぐに疲れて、「やっぱり、いま使っている古いもののままでいい…」ということになった。自分で選んで新しく家具を買うとか、部屋の模様替えをするということになると、まるで塩をかけた菜っ葉のようにとでもいうか、みるみるうちに元気を失っていってしまうところがあり、そんな面倒なことをするよりも古いままでいい、というほうへ流れてしまう。こんなところは、いつまで経っても未熟なままで来たエレーヌかもしれなかった。

エレーヌの家のあった代田1丁目の近くには、環七を渡ったむこうに電器店のコジマがあり、電球やプリンターのインクなどを買うのにたびたび出かけた。機械全般の苦手な彼女ひとりではうまく選べないことが多く、たいていの場合はいっしょに出向いたが、彼女はそこで、よく、マッサージチェアに坐って背中や腰を揉みほぐすのに時間を費やした。ヨガでたいていの疲れは治せると自負していたが、近年ずいぶんと質のよくなってきたマッサージチェアの気持ちよさは、さすがに別格だったらしい。
機械に揉まれながらうっとりしているエレーヌを見ていると、マッサージチェアを買うのはスペース的に無理でも、せめて、座り心地のいい安楽なソファかなにかでも買わせないといけない、と思った。家で座る時のエレーヌの現実の姿勢というのは、台所で古いイスの硬い座面に座る時の姿勢や、畳に座ってローテーブル上のパソコンに向かう時の腹を折った姿勢、あるいは、ヨガをする時のさまざまな姿勢だけしかなく、楽にくつろいで座れる場面がまったくなかったのだ。そういうところを重視しなかったというか、なおざりにしてきたエレーヌだった。

もっと楽に座れるイスを買ったり、パソコン作業ももっと楽にできるようなテーブルを買ったりしなければ、と痛切に思わされるのは、エレーヌが添削をしているのを見る時だった。
大学への仕事の彼女の行き帰りの際、たまに同じ電車で移動することがあったが、エレーヌはよく、受け持っている仏作文の授業の提出物の束をリュックサックから出し、電車の中で添削していた。
60代になってからは老眼鏡をかけ、特に夕方の帰宅の電車の中では、傍目にも疲れた顔をして、フランス語になっていない学生の作文を赤ペンで直し続ける。教員にたいへんな手間のかかるこういう授業は、本当なら教授や準教授レベルの専任教員が担当すべきだが、面倒な授業は巧妙に非常勤講師に押しつけられることが、日本の大学では多い。そういう微妙な不公正に非常に敏感で、内心、いつも怒っていたエレーヌだが、こうした細かい仕事には手を抜かずに熱心に行っていた。毎週上達していくのが感じられるような熱意ある学生たちの仏作文の添削ならば、面倒でも、教員にとってはやりがいがある。しかし、せっかくの添削を返してもらっても、ろくに復習もしないような学生が増えてしまった日本では、教員の徒労感は増すばかりで、「直して返しても意味ないです。ぜんぜん復習しない…」と、よくエレーヌは言っていた。
夕方から夜の電車の中で、いかにも先生らしく、老眼鏡をかけて添削を続けるエレーヌを見ながら、どの時点で、どのようにこういった徒労を絶ち切り、もう少し楽な時間を日々増やしてやれるだろう、と考えた。

日本での彼女の実生活の世話をし続けてきた身としては、彼女の意思に逆らってでも、せめて家具の刷新ぐらいは敢行してしまってもよかったのではないか、と今さらながらに思われてならない。
人が急な大病になって亡くなるような時、まわりにいた者がいつも思うような感慨のひとつだろうが、今でもどこかの家具売り場にふいに出るような時、知らず知らず、エレーヌの家に合うテーブルや座り心地のよさそうなイスを探しているのに気づく。もうそんな必要もないのに、と思いながら、それでもしばらく、あれこれのイスやテーブルを、ほかならぬエレーヌのために、見つくろったりし続ける…