2011/01/28

 ロル・V・シュタイン*の書かれなかった日記

     *ロル・V・シュタインはマルグリット・デュラス作『ロル・V・シュタインの歓喜』中の人物

                           
                                                                         le 20 juillet 2000  à Jindai-ji koen, Tokyo
                                                                         photo by Masaki SURUGA
   


 エレーヌ・セシル・グルナック
 加 藤 多 美 子 訳


 わたしの名はロル・V・シュタイン。わたしは日記のようなものをつけている。これは今まで誰にも見せたことがないし、ひとに話したこともない。内緒なの。まわりの自分や人生についていくつかのことを書いた。ひとに気がふれていると思われているので、わたしのことを書いてみたら、自分がどうなのか、よくわかるんじゃないかしら。ほかのひとたちがほんとうだと言うことが、わたしにはそのとおりだとは全然思えない。たぶんうまくは書けていない。だって、わたしはあまり頭が良くないし、いろんなことを知らないのだから。勉強はあまりしなかったけれども、本を読むことはずっと好きだった。なんでも手当たりしだいに読んできた。でも、本を読んでわかったことを、信用しすぎてはいない。それより自分の直感を当てにするほうがいい。頭が少し疲れたときは、直感がわたしの羅針盤だ。それだとわたしはけっしてまちがわない。直感がなにを言っているのか、いつもわかるわけじゃない。でも、申し訳ないけれど、ひとの意見よりもこっちのほうがいい。みんなは自信満々に断言しすぎる。それにはがまんができない。

 わたしは気がふれていると思われている。わたしが知っているひとたちみんなに。学校の友達たち、親友のタチアナ、それにわたしの母にまで。

 でも、わたしはあぶない人間じゃない。めったにしゃべらないし、ひとの言うことに、よく耳を傾けている。わたしは知っている、みんないろいろなことを考えているし、その人生には波風がたくさんあるということを! わたしには話すことなどほとんどないし、その気になっても途中でやめてしまう。わたしの話なんか誰にもおもしろくないだろうから。わたしの言いたいことはわかりきったことだし、説明すると結局ひどくこみいったものになってしまうのじゃないかしら。話を聞いたひとたちは、わたしのことをすごく抽象的で、まとまりがなさすぎると思うにきまっている。そしてすぐにつまらなくなってしまうだろう。

 ほかのひとたちの前で真面目なことを話すのは苦手だし、楽しくやるのが大好き。わたしは、ユーモアたっぷりだと言われている。ということは、わたしの気はたしかだということ。一日中なにもしゃべらずにいられる。想いをめぐらしながら。何について? わからない。わたしって何なのかとか、ここにこうしていることについて。わたしの中の想いの世界って、ほんとうに広い! 果てがない! そこで迷子になって、帰り道が見つからなくなるんじゃないかと、ときどきこわくなる。でも、ちょっと遠くへ行きすぎると、何かがわたしに、気をつけてって言う。そんなときは、頭の中で細胞がみんな動きはじめて、わけのわからないもやもやした状態になる。星のようなものがたくさん見える。とてもきれいだけど、急におそろしくてたまらなくなる。きらきらしているこの天空を、自分ではどうすることもできないだろうって感じてしまう。やっと星空が消えると、わたしはほっとする。ほんとうにすごくこわかった。もっと用心深くしていなければならないとわかっているけれども、忘れてしまって、またとっぴな冒険を始めてしまう。わたしは見かけほど、そんなにおとなしくはない。

 わたしは日々のくらしの出来事の中には、全然いない。少なくとも、どっぷりとはつかっていない。それは確かだ。どうしてこんなふうなのか、わからない。それがわたしの性分だから、どうしようもない。よく耳を傾け、注意して見ていても、心はうわのそら。わたしは退屈しているのかしら? そうとも言えない。ただ、ほんとうに何かにひっかかることができない。わたしは何にも心からの興味を持てないのだと、言われてしまうにちがいない。

 それでも、十八、九までは、とても感じのいい女の子だったと思っている。学校の体育館や、ダンスホールで踊るのが大好きだ。でも、いつも、そう、何かもの足りないと思っている。目には見えないけど、薄い膜のようなものがしっかりそこにあって、わたしがほかのひとたちとまじり合い、うちとけて熱のこもった人づきあいをするのを邪魔している。そう、わたしは踊っているとき、音楽のリズムにすっかり身をまかせている。でも、変なのだけれど、自分から抜け出して、踊っている自分の姿を見ているような気がする。そんなに大したことじゃない。ただ、踊り終わったとき、ちょっぴり落ちこんだ感じがする。ほんとうなら身体をあんなに使ったあとの、気持の良い疲れを覚えるはずなのに。いえ、そうじゃない。気力がなえたのだ。どうしてなのか、今まで一度もわからない。それに、わたしがおどけているとき――その才能があるらしい――まわりのひとをものすごくおもしろがらせているとき、ちょうどそのときに、わたしは泣きたくなってしまう。だから、わたしはまるでサーカスのピエロみたい。誰も何にも気がつかないから、助かるけれど。それは、わたしの中のずっと奥深いところから、たちのぼってくる。いったいどうしてこうなるのかしら? 人としての出来がうまくいかなかったみたい。説明できない。でも、一生こんなふうなのかしら? わたしはまだ十九なんだから……まだ十分に変われるはず……。で、どうしても変わらないとしたら?

 そしてある日、マイケル・リチャードソンがわたしのもとにやってきた!

 人生ではじめての大事件だった。

 彼はとても美形だ。それにすごくお金持ち。母は大喜びしている。いくつかわたしより年上だ。S.タラの娘たちはみな、彼に夢中になっている。そしてわたしは? わたしが彼に抱いている気持は情熱なんかじゃまったくないと、タチアナは思っている。彼女はわたしが何にもほとんど関心がないのを、ずっと前から知っていた。だけど、どうなるのか知りたくてうずうずして、わたしの出かたを待っている。わたしたち婚約することに決めたの、と彼女に告げる。おめでとう、と言ってくれるけれど、もともととても小さくてほっそりした彼女の顔は、何か予感めいた不安で縮こまっている。ふたりのことをもっと知りたがるけれど、どうやってわたしにきいたらいいのか、わからないみたい。つかみどころのないわたしの性格に、彼女はいつもとまどっているのだ。わたしに尋ねたりしないけれども、彼女の顔つきを見れば、いろいろとききたがっているのがよくわかる。

 マイケルには毎日会う。わたしは彼のためにおしゃれをする。

 恋人どうしで二人だけでいたとき、何を話していたのかしら? 思い出そうとしても、まったく思い出せない。話していたことは、わたしの心に何も残っていない。なあんにも。でも、わたしたちは一緒にいろんなことをする。テニスや散歩、手に手をとって。よく踊りにも行く。わたしが踊るのが大好きなことを彼は知っているのだ。わたしのほうは特に、こうしていれば話さなくてすむ、と思っている。だって、彼に言うことなんて何もないんだもの。わたしは夢や計画やらのまったくない世界に住んでいるのだから、彼の気をひくことはむりだろう。それははっきりしている。そう、自分にどんな願いも、何一つまったくないことが、わたしにはわかっている。彼と一緒にしあわせになりたいとさえ思わない。これって変じゃない?

 そして、愛していると彼に言うことができない。少なくとも言葉では。だって、愛するということがどういうことを指しているのか、わたしにはわからないと、そのとき気がついてしまうのだから。小説の中で読んできた美しい愛の言葉を、彼に言うことはどうしてもできない。そんなことをしても、しらじらしく聞こえるだろう。でも、彼のいろいろ細やかな思いやりには、ずいぶん心を動かされる。彼のやさしさには限りがない。わたしって、彼のわたしに対する恋心に恋しているんだ。だから、わたしは彼のそばにいる。そしてそのせいで、彼と別れる勇気をうばわれてしまう。彼はわたしをまだ子供で、人生のことを何も知らないと、思っているにきまっている。

 わたしが何も知らないのはほんとうだ。でも、自分がゆううつといったものにとりつかれているのは、わかっていた。とても若い頃から、うすうす感じていたのだけれど、そのときは何て呼ぶのか知らなかった。ある日、本の中で《うつ病》という言葉を見つけ、これがわたしが苦しんできた奇妙な病気のことなんじゃないかしらと思った。そして不安におそわれた。その原因がどうしてもはっきりとはわからないので、治すのはむずかしいと書いてあったのだから。

 それにはっきりと気づいたのはマイケル・リチャードソンを知ってからだった。わたしは完全に打ちひしがれた。ほかのひとたちではどうなるのか知らないけれど、わたしの場合、いっさい何も望まないという形で現れたから。つまり、マイケルを欲しいとは思わなかったということ。わたしは彼を愛していた。ただそれだけだ。

 それで、彼と一緒にすごしている時間、わたしはひどい苦しみを味わう。身をゆだね、自分を出すことがまったくできない。こわいのだろうか? いったい何を? わからない。そうじゃない、こわいんじゃない。むしろ感覚がまひしてしまうみたい。

 そしてマイケルに会ったときはいつも、身も心もひきつり、緊張してめりめりときしんだ。がまんができなかった。あたたかい気持で喜んで味わえるはずのことが、みんな苦痛になってしまうのだから。どう言っていいのかわからない苦しみ。それがあまりにもつらすぎて、顔がひきつり、彼にほほえんでいても胸が痛くなることもあった。だから、わたしはどこかへ消えてしまいたかった。わたしの足元のどこか大地の裂け目の中に。そうでなければ、たったひとり、風に吹かれて深呼吸し、息のつまった肺を大きく広げたかった。なのにわたしは彼の前におとなしくすわったままで、彼の両手をわたしの手の中にやさしく、やさしく握りしめていたのだ。目で、みんなわかってもらおうと努めながら。

 でも、彼は、それが大好きだと言う。どうして?と、信じられなくてわたしはきく。なぜって、ちょっと悲しげだけど優しくて心にしみるからさ、きみのほほえみは、と彼は答える。実際は、わたしたちのくい違い、ありそうもないようなわたしたちの状態を思いながら、わたしは彼にほほえんでいるのに。わたしの愛っていったいどんな種類のものなんだろう? なぜ、本で読んだ恋愛や、わたしが毎日街で見かける若いカップルの恋愛のようじゃないの? どうしたらいいんだろう? こういうふうにはもう続けられない、こんなことは意味がないって、できるだけ早く彼に言うべきなのかしら? 自分が無責任で、ものすごくエゴイストだと感じる。けれども、勇気を出して水に飛びこむように、自分のことを、自分がどんなふうなのかを、彼に打ち明けることはできない。それに、説明しようとしても、すごく下手だろう。ちゃんとした言葉は見つけられないだろう。

 だって、彼に対するわたしの愛は、頭と心でこしらえたものなのだから、ものすごく好きだけれど、その感情はいつもこの二つの部分に限られている。身体のほかの部分に広がっていこうとしないし、いくらがんばってみても、そうはできない。そしていつも自分の中で気力がなえていくのを感じている。今日はじまったことじゃない。ずっと前から、ゆっくりと進行するのに気づいていた。たぶん、ひとが大恋愛を夢見はじめる年ごろから……、人生への期待に胸ふくらんでいるころから……。わたしの場合、こういった心の高ぶりは、わたしをかえって不安におとしいれた。この心の状態はふさぎの虫を養うのに、おあつらえ向きの土壌だったみたい。
 重苦しいがっかりした気分が、わたしのまわりにただよいはじめる……。

 そして、こんなふうに愛はわたしの中で凝縮していった。とても濃密なかたまりのように。ときには重くなりすぎて、胸を押さえつけ、息をするのも苦しいほどだった。恋がこれほど身体を痛めつけるものだとは知らなかった。

 何年もたった今でもまだ、マイケルのことを思うと、ここ、両胸のあいだに以前と同じ苦痛が、そしてこめかみには、以前と同じ焼けつくような痛みがある。今でもまだ、その痛みで、わたしはへとへとになる。あいかわらず、わたしは彼を愛しているということなのかしら? 彼への気持が、それほど元のままだってこと? 突然ふざけてこう考える。もしマイケルが一軒の家だったとしたら、次の日には、彼のことは忘れてしまっただろうに!と。実際に経験したのだけれど、家が取り壊されるたびに、翌日にはわたしはもう、その家のことを全然思い出さなかった。わたしの記憶はその家を、生きているものの地図から、あっという間に消しさってしまった。何年ものあいだ、その家の前を毎日通っていたというのに! ことによってはこんなにぶしつけにふるまったけれども、わたしにはさっぱりわけがわかっていなかった。

 みんながしているように愛を、性の欲望という形であらわすために、身体の他の部分にひきおろすことは、どうしてもむりだった。その美しさや、特にその激しさが変わってしまうのがこわかったのだろうか? 激しくても、わたしの頭の中にだけある恋は、マイケルを満足させることができなかった。でも、この激しさこそが、わたしが生きられるただ一つのものだったし、彼にさし出すことのできるただ一つのものなのだった。だって心や精神は、強くてしっかりと調和のとれた一つの全体をつくっているので、それ以上身体に助けてもらう必要はないように、わたしには思えたのだから。ほんとうにそうだったのかしら? とにかくこんなふうに弁解しながら、自分自身を許そうとしたのだった。私がこう言っても誰も納得させられないことは、よくわかっていたけれど。そしてわたしもあやしい。

 時がたつにつれて、わたしは喜ぶべきときにも、喜びにあふれるということがなくなっていった。なめらかな坂にそって、少しずつ、さからうことができずに滑り落ちていくのを感じていた。つかまろうとしても、一本の枝もなかった。でも自分の性質は知っていた。
 ゆきどまりの果てまで、ずっと流されていくだろうとわかっていた。自分がかき消えてしまうためじゃない。わたしは不安で息苦しいのだけれど、この不安がどこまでいくのかを感じるために。わたしの血と肉の中では、どうしても形になろうとしないあの感情が、いったいどこまでわたしについてまわれるのかを知ること。それと同時に、彼の側からどんなに侮辱されてもがまんする覚悟をしていた。そんなふるまいがあっても、当然だったと思う。マイケルはわたしが人前で彼のことを笑いものにした、彼を馬鹿にしたと、思っただろうから。

 わたしはじっとしていた。自分をおさえて、時が来るのをずっと待っていた。とにかくわたしには話してしまうことはできなかった。

 そのころ、T.ビーチの市営カジノで舞踏会が開かれた。

 わたしの人生で二度目の事件だった。

 一晩中、わたしはマイケルと踊る。タチアナも来ていた。すごくきれいだ。彼女にはダンスの申し込みが多すぎて困るぐらいだ。わたしはマイケルに、どんなに愛しているかをそれとなくわかってもらおうとするけれども、彼は何も言わない。ひどく緊張したようすだ。もうわたしを愛していないの? いや、そうじゃない、思い違いだ。彼はわたしに向かってにっこり笑い、だいじょうぶだよ、愛してる、と言っているようにみえる。わたしの考えていることが、彼にはわかっていたんだ。わたしは希望を持つ。これから、彼が期待しているとおりに彼を愛せるようになるんだわ。まだ十九歳なんだから……と。

 わたしの運命を決めてしまったあの時間を、わたしは何年ものあいだよみがえらせてきた。まるで、ずっとその中に生きていたようだった。でも、タチアナ、わたしの母、ほかのひとたちがそれについて考えたことは、もちろん間違っていた。

 三つの真実が集まって、あの夜、一つの確信となった。

 身体にぴったりとした黒いドレスを着て、あの美しい女(ひと)が魔法のようにホールに入ってきたとき、マイケルは彼女に気がついた。何かがわたしに起ころうとしていた。とても重大なことが。わたしは、はらはらしながら、心の中のどこかで、この何かが起こるのを望んでいた。早く。さあ今だ。磁石にひきよせられように、彼はまっすぐ彼女に向かって進んでいった。そしてふたりは夜どおし朝まで踊ったのだった。わたしは観葉植物のかげにかくれて、彼に見られないように、彼がしあわせに、彼女と踊れるようにと一生懸命だった。でも彼らは何にも、誰にも気づかないようだった。ふたりだけの世界を作っていたのだ。そのとき、ものすごく嬉しい気持がわたしの中ではじけた。心から、あの女(ひと)がありがたく思われた。アンヌ=マリ・ストレッテル。彼女の名だった。彼のためにやってきたのだ。わたしから彼をとりあげるのじゃなくて、わたしが彼女に彼をゆだねるために。たった今起きたことは良かったのだと、わたしにはすぐにわかった。大きな、大きな肩の荷が降りたのだった。
 二つ目は、わたしが魅せられてしまったことだった。完全に。わたしが一緒だったときには、こんなふうなマイケルを見たことは一度もなかった。ふたりの間のいわゆる融合に、わたしは魅せられてしまった。身も心も完全に溶けあっている様子に。舞踏会が終わるまで一言も言葉をかわさず、そして出ていった。二人の天使は。わたしはただ、この秘教的な儀式に立ち会っただけだった。いいえ、そうじゃない。一晩中、わたしは彼らと一緒に、彼らになって踊ったのだ。わたしたちは三人で一つのものになっていた。誓って言うけれども、ほかのひとたちが眉をひそめるにちがいないとか、マイケルのしたことはわたしが憤慨するようなことだったのだとは、ほんの一瞬も考えなかった。そのとおりだ。決して思わなかった。はっきりと、そう言える。そういったことは少しも心に浮かばなかった。あの夜の間に一度もなかった。その後もずっと一度もない。おとぎ話の中でのように、わたしは魔法をかけられた。そんなに遠くまで行ける愛に、魔法をかけられたようにうっとりとしてしまったのだ。ふたりは、ただごとではない激しさでお互いにひきつけあったのだけれど、わたしは彼らと一緒にその激しい歓びを実感することができた。これはほんとうにわたしにぴったりなことだった。わたしの精神、わたしの心はいつも、感情が目に見えるようにあらわれたものよりも、その濃さのほうに、よりひきつけられていたのだから。

 三番目の真実は、恋の相手を、初恋のひとを、自由に旅立たせて、わたしはしあわせだったということだ。彼を自分だけのものにしておきたいとは思っていないこと、自分が彼にふさわしい女じゃないということもわかった。何てすべてがわかりやすくなったんだろう!

 彼らはわたしを悲しみや苦しみでうちのめしたまま、ダンス会場から立ち去ったのではない。わたしの気はたしかだった。裏切られたのではなかった。自分が何だったか、どんなふうだったか、すっかり自分でわかっていた。

 わたしはようやく家にもどった。くたびれはてた顔をしたタチアナと。彼女は一部始終を見ていたもの言わぬ証人だった。そしてわたしの母も一緒だった。なぜ母が? なぜ母がわたしを迎えにきたのかしら?! 彼女に尋ねたことは一度もなかった。わたしにはどうでもいいことだった。

 そしてそのあと。あの運命の夜のあと、わたしはどうなったのかしら? 運命の、といってもふつうこの言葉で必ずひとが言うような意味ではない。あの夜はわたしに幸運をもたらした。奇跡のような夜だった。わたしは自由になったのだ。マイケルを愛したのとは別なふうに、彼を愛しているふりをすることは、わたしにはどうしてもできないとわかっていた。わたしのやりかたは、彼にも、どんな男にとっても、受け入れられないものだった。でも今、わたしが彼をほんとうに愛していたことを知っている。

 しばらくのあいだ、わたしはひとりになると、たくさん涙を流した。救いをあたえ、恵みをもたらす涙を。わたしは黙って、おだやかにしていたけれど、誰もそのことを理解しなかった。わたし以外には。絶望にかられた発作みたいなものが予期されていた。そんなことは全然起こらなかった。あの信じられないめまいのあいだに、わたしの深いところで、何か神のお告げのような教えを受けてしまった。そして、そのあいだ、自分のことも他のこともみんな忘れてしまった。めまいのあと、たぶん思ったよりもずっと、くたくただったのだ。現場では立派にちゃんと持ちこたえたけれども、わたしは信じられないほどの衝撃を受けてしまったにちがいない。心の層の一番奥深いところまで。そのうえ、わたしにあっては、一番激しい感情は、もっとあとになってからあらわれる。とっさには決して出てこない。なぜなら、感情的なショックを受けると、わたしは固まってしまうようなのだ。

 わたしの目を開いてくれたこの経験について、誰にも何にも話したことはない。とくに、タチアナや母にはしていない。話したところで彼女たちにはわからないだろうし、それに、わたしは同情されたいとも、なぐさめられたいともまったく思わなかった。そんな必要はゼロだった。今まで以上にひとりぼっちだったけれど、ふしぎに、どこか自信が出てきた。

 もう誰もマイケル・リチャードソンのことには触れなかった。

 彼のあと、誰に対しても恋心をいだいたことは一度もなかった。ただ一人の恋人だった。まず、いつかは恋人を欲しくなるかもしれないと思いながらも、そうする気力がなかった。次に、わたしはもう苦しみたくなかったし、愛するひとを苦しめたくもなかった。それに、わたしは自分自身の生活で手一杯だった。あまりにも内に集中して生きていたので、夜、床につくときにはもうぐったりしていた。一人でいて退屈したことはなかったけれど、ただひとと一緒だとうんざりした。実際にはほとんどひとに会わなかった。ほんものの人ぎらいになったということ。だけど仕事先ではちがった。そこではうまく行き、わたしの本領が発揮できた。まったく別の人間で、自分でもおどろいたほどだった。

 だけど、毎日こんなに疲れきってしまうなんて、わたしの生活はどんなだったのかしら? わたしには説明したくても、言葉では説明できない。心の激しさ、心がはりつめていることが問題なんだけど、何もないからっぽな場所に、螺旋階段のようなものがあって、わたしはそれをずっと昇ったり降りたりしていた。下に着いたときには、わたしの気力は最悪だったけれども、昇っていくと、生きかえった心地がした。何てすばらしい! 今度もまた、うまく抜け出せたことがわかる。自分が思っている以上にしっかりしていることもわかった。こんな状態には慣れっこになっていて、もうすっかりわたしと一体になってしまっていた。だけど、ときどき思ったものだ、これが一生続くのかしらと。

 いつもと同じわたしをさいなむあの問題だった。胃がきりきりと痛んだ。

 年月がたった。それが、母を喜ばせ、母の死後のわたしのことで、彼女を安心させるためだとしても、わたしは結婚したいとは一度も思わなかった。かわいそうなおかあさん! わたしは自分ひとりで生きていこうと決めていた。人間関係、特にいわゆる恋愛関係にすごくさめていたので、男女のふつうの生活にもどるのは、わたしにはむりだと思われた。ふつうの愛情生活にはもう興味がなかった。きっぱりとなかった。

 けれども、みんなと同じように生活していた。少なくとも見た目には。二つある市の図書館の一つに、ちょっとしたパートの仕事を見つけていた。とてもつつましく暮らしていたけれども、それで良かった。わたしにはたいしたことは必要じゃなかったのだ。本を扱うことはわたしにぴったりだった。個人的に大人や子供を教えることもあった。そんな場合は、何も問題がなかった。よく笑わせたし、生徒たちはよく勉強した。全然できのよくない子供たちからも、わたしは何かをうまく引き出した。わたしは自分にとても満足だった。誰も、わたしのことをいわゆる不治のうつ病患者だと見抜いたりはしなかった。誰一人として。わたしはしあわせだった。ということは、わたしは気がふれてなんかいなかったんだ。

 でも、本にかかわっていることのほうが好きだったのは確かだ。ページをめくって、目にとまった文章を読むことが大好きだったけれど、それを書きとめたりしたことはない。そんなことをして何になるのかしら? あの頭のいいひとたちには心から感心していた。わたしは決してあのひとたちのようにはなれないだろう! 特に本は、人類のあらゆる時代を彼らと一緒に生きるという大きな喜びを、わたしに与えてくれたのだった! ただ、ほとんどいつものことだったけれど、家にもどると、あんなにわたしをしあわせな気持にしてくれた知的なめまいは、消えうせてしまった。もう信じられなかった。ああいうことをいろいろ知っても、いったい何になるのだろうか? とにかく、それはわたしのレベルをはるかに越えていたのだ。そんなことで、わたしの頭を苦しめたくはなかった。わたしには勉強するのに必要なエネルギーも、その才能もなかった。その点はたしかだ。でも、こんなにしょっちゅう落ち込むことがなかったならば、自分の中に何かの才能が見つかったかも……と思うこともあった。そういうことがありえたかもしれない。

 ある日、なんとなく急に、町やその近郊に散歩に出かけたくなった。でも家にもどると、いったいどこを、あんなに長い時間休みもせずに歩きつづけられたのか、もうあまりよく思い出せなかった。頭の中でみんなごちゃまぜになってしまったけれども、次の日には、きっとまた本能的に、今日自分が出かけた場所へ行き着けるのだろう。とにかく、私の脳がひと息ついたと感じられた。そしてわたし自身も。なぜなら、身も心もますます疲れてくるのを感じるのだ! ときどき、脳がたぎりたっている。めったに冷めない溶鉱炉のようだった。そこで、どんなすばらしい錬金術が作り上げられるのかを見きわめようとしても、わたしにはできなかったけれど。

 そぞろ歩きをするとき、マイケルと一緒に散歩したところへ行くこともあった。おかしなことだけど、そんな場所のおもかげはとてもはっきり残っている。彼と一緒だったから。生涯でただ一度の恋だった。今もわたしの中でダイヤモンドのように輝いている。でも、彼の顔は霧の中に、しだいにとけて消えていく。顔立ちがはっきりわからない。ちょっぴり悲しい。どうぞ、わたしの心の中で粉々になってしまうようなことがありませんように……。

 たいていの場合、ほかのひとだったら陰気だと言うかもしれないけれど、わたしにとってはすばらしく美しく思える場所に、わたしは足を運んでいた。雑草が生い茂り、ぎざぎざの有刺鉄線で囲われた空き地……祝日で、働いているひとたちが誰もいないので、ひっそりとして、決して完成することがないような気がする建築中の建物……野の花々でいっぱいの野原や麦畑の広がり……。あの野や畑に寝そべって、空と空行く雲をながめたものだった。自然の変わることのないざわめきの中にいると、なんてしあわせなんだろう! もしかしたら、マイケルの腕の中でよりも、わたしはもっとしあわせでいられたのではないかしら? 

 こうしてひとりでいると、自分がとても強く、元気で、ひじょうに晴れやかな気がする。そうだ、私は気がふれてはいない。もっとも、ときどき歩道のへりにすわっている。ひざを両腕で抱え、頭をその上に乗せ、そしてゆっくりと息をする。目を閉じる。何て自由なんだろう! 今日は人生って何て美しいんだろう! 町やその周りをだんだん遠くへ、こうして歩き回ることが、私にとって必要で、生きていくのに欠くことのできないものになっていると、とつぜん気がつく。風はわたしの友だち、風の吹くままにわたしはついて行く。なんてすばらしい!

 けれども、毎日元気が良かったわけじゃない。今日は不安が靴の底にはりついている。一緒に歩き、それを感じている。不安がわたしを支配してしまうんじゃないかしら、こわい。今まではうまく抑えてきた。でも、全身にまで侵入してくることが、しだいによく起きるようになった。ときどきわたしはパニックにおちいる。家にある本の中で、女たちが錯乱するのを読んだことがある、有名で輝いているひとたちでさえ、正気をなくしてしまった。たとえばヴァージニア・ウルフやカミーユ・クローデル、それにわたしの知らないひとたちが。彼女たちのあとを追うように、気がふれるのがこわい……。

 わたしはこうして生きつづけてきた。一緒にいた母は、よくわたしを悲しそうに見つめていた。かわいそうなおかあさん! 心配しないで。あなたがこの世におられなくなっても、きっとうまくいくから。そう信じたい。

 ある日、タチアナに偶然出会う。T.ビーチのカジノでの例の舞踏会以来、わたしたちは一度も会っていなかった。彼女がお金持ちの医者と結婚したことを知る。豪邸に住んでいて、子供はいない。彼女は自分の家にわたしを招き、友人のジャック・ホールドを紹介する。わたしは彼をおぼえていたし、彼もまた、わたしをおぼえている。わたしが町をさまようのが気に入っていた頃、彼は何度もわたしのあとをつけてきた。もし、わたしが町のはずれまで行ったときに、はっきりした行き先もなしにぶらついているわたしの姿を彼が見たのならば、わたしのことを少し頭が変だと思ったはずだ。今日彼はわたしを長いあいだ見つめている。わたしのことをふしぎに思っている。わたしについて、何か知っているにちがいない。タチアナがきっとわたしのことを話したのだろう……。

 けれども、あのひとたちは何もわたしを責められない。午後のあいだずっと、わたしはまったくふつうに会話をかわしている。わたしのことは大丈夫だと彼らを安心させる。とても元気よ、何度もそう繰り返す。彼らの視線がときどきからみあう。とうとうタチアナが、どうして結婚しなかったの?とたずねる。自分自身と結婚したのよ、それで十分なのよ、と笑って答える。彼女も笑う。ジャック・ホールドは笑わない。彼はわたしの目をじっと見つめる。わたしに恋しているんだ。

 数週間たったある日、わたしは、ちょうど町のはずれにあるラブホテルの近くのライ麦畑で休んでいる。そのとき、タチアナがジャック・ホールドと一緒なのに気がつく。ふたりでホテルの玄関にそうっと入ってくる。なにもかもわかる。こうして彼らはここに愛をかわしに来ているんだ。でもわたしは何も感じない。彼らの情熱を一緒になって感じたりしない。マイケルとアンヌ=マリ・ストレッテルのときのようじゃなかった。反対に、彼らは抱き合うことによって、重く、苦しんでいるように、わたしには感じられる。だめだ、目のくらむような気持も、うっとりするような歓びも、全然湧いてこない。わたしはライ麦畑に、悲しみに沈んで横になる。彼らのために、泣きはじめる。

 もっとあとで、ジャックは、いつかライ麦畑にいる君を見たよと、わたしに言うだろう。タチアナも。そのとき彼女は、わたしが気がふれていて、決して治ってなかったんだと、あいかわらず思うにちがいない。そんなことはかまやしない。わたしが彼らのことをうらやみ、欲情されて愛されたがっていると、ふたりが思いこんでいるなんて、かえってわたしにはおかしくなってしまう。わたしがわざと彼らのあとをつけ、彼らを監視しているなんて。

 ある日、ジャックは、T.ビーチへ一緒に行こうと、わたしをさそう。カジノのホールをもう一度見るために。わたしは受け入れる。好奇心が勝ったのだ。

 カジノでは、以前と同じダンス用ホールに入ると、ひとが来てシャンデリアを全部つけてくれる。わたしは観葉植物を覚えている。そのかげにかくれて、わたしはふたりを愛したのだった。夜のあいだずっと。今、わたしの中で何も動かない。ここでは、過去の砂の中に埋もれて、まったくからっぽなのに悲しみに満ちたあの空間の中で、すべてが息絶えてしまったのだということが、わたしにはわかる。家に帰ったとき、すべてが今まで通り、心の中でうちふるえるだろう。ここでは、十年前にわたしが生きた感情に、心を集中することができない。あのエクスタシーに。ジャックはわたしがどうなるのか、うかがっている。何の反応も起こらない。わたしたちは最終電車で町にもどった。

 けれども奇妙なことに、この旅のおかげで、わたしはT.ビーチにまた行きたくなる。できるだけ早く、わたしはそこにもどる。そこでは、ほとんどずっと駅の待合室か、外のベンチにじっとしている。わたしは舞踏会の夜を生きる。列車を待つ一人の旅行者として、じっとすわったままで。激しい気持で生きる。激しさがだんだん増してくる。そのたびに、真理がわたしに啓示された瞬間、あのすばらしい忘れることのできない瞬間に、少しずつ近づいていく。

 仕事がないとき、わたしはよく同じカフェに行く。そこでわたしは書く。ノートに頭に浮かんだことを書きとめる。ときどき自分の書いたものを読み返す。これ全部を書いたのがわたしだなんて!!

 しばらく前から、一人の女の客がよく来て、いつも同じテーブルにすわっているのに気がついている。おもしろいことに、彼女もまた書いている。たばこをたくさん吸って、赤ワインを何杯も飲む。コーヒーは決して飲まない。きっと五十歳代だろう。美人でないし、おしゃれじゃない、あきれてしまうほど! インテリっぽい分厚いめがねの奥から、わたしのことをじっと見つめている。わたしはそれにちゃんと気づいていた。わたしたちの視線はときどき交わる。いつか彼女に近づいて、あなたはここのかたですか?ってたずねたらいいかもしれない。いや、わたしはそうはしない。他人がほんとうだと言っていることを、わたしは信用しない。彼らは何でも知っていると思っている。きっと、何週間かをここで過ごしに来たパリのひとだろう。パリでの生活に疲れているんだろう。

もう書きたくなくなったとき、わたしはかなり長いあいだ、遠くをながめてじっとしている。ほんものの彫刻みたいに。わたしは心ここにあらずの状態だ。そしてコーヒーをもう一杯飲む。からっぽが待ちかまえているところへは、もどりたくない。からっぽがだんだん好きでなくなる。からっぽがこわい。少しずつ、小さなひと口ずつかじって、わたしを食い尽くす。いつの日か、わたしというものはもう何も残っていないだろう。

 彼女はわたしを見つめつづけている。

 あらゆることに、ますます無関心になっていく。どうして人々はあんなふうに、ひっきりなしに動き回っているのかしら?! でもわたしは働きつづけているし、身なりもきちんとしている。といっても、もうすぐ三十になる。何もわたしに引っかかってこない。何もかもわたしの皮膚からするすると滑り落ちてしまう。だからわたしはついにはホームレスになって、どこかに閉じこめられてしまうのではないかしら。ありえないことじゃない。今はいろいろな法律があって、人びとが好きなように生きられなくなっている。とてもおそろしくなる。でも、神にとってはすべてのものが平等だと、どこかで読んだことがある。それなら思いわずらうことはなかったのだ。けれども、もし神がまちがっていたとしたら?

 カジノにもどろう。そうすれば良くなるだろう。あそこへもどろう。彼らの顔も身体もほとんど忘れてしまったのだから、彼らに会うためじゃなく、激しい想いのために。彼らのすがたは、ふわふわとおぼろに漂うものに変わってしまった。踊っている彼らを思い浮かべると、ふたりはとても軽やかにゆらめきながら、わたしの目の前にそのすがたを繰りひろげる。ぼやけているけれども、とても美しい。今もまた深く心が動かされる。わたしは心の底から彼らを愛している。ふたりを共に。そう、あそこへもどろう。激しい想いのために。あの夜、その歓びのなんと激しかったことか!

 明日の朝、T.ビーチ行きの始発に乗ろう。できるだけ何度も行こう。わたしにはあの激しい歓びが必要なのだ。生き延びるために。最後までもちこたえるために。
  
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ノートを閉じる。ロル・V・シュタインの日記を読み終えた。先ほど、カフェのウェートレスが私に委ねたものだ。彼女は私をよく見知っている。私の名がマルグリット・デュラスで、本を書いているということも。彼女はこの日記をどうしていいかわからず、捨ててしまう前に、私の興味を引くのではないかと考えたのだ。ロルはこれをテーブルの上に置き忘れていった。取り戻しに来ることは、まるでなかったし、再び彼女の姿を見た人はいなかった。蒸発してしまったかのようだった。母親の急死の後、彼女はその家を売り、消えうせたらしい。私の意見では、家の売却にかかわったりはできなかったと思う。何かが彼女の頭上を越えたにちがいない。完全に。我々の世界とは別の世界に、すっかり心を奪われてしまったらしい。ロルのじっと動かない姿は印象的だった。

 私がT.タラに来なくなって一年以上たっていた。何がロルのこの決定的な出発を促したのだろう? そして彼女はどこへ行ったのか? どこへ? 彼女にあれほど会いたかったのに! とりわけ、わたしが本を書いてからは。

私は眼鏡をノートの上に置く。両手で顔をはさみ、考え込んでいる。もう何を考えていいのかわからない。

あの若い女からひらめきを受けたので、私はパリに戻ってからすぐに書きたいと思った。彼女を見たとたん、とりこになってしまったのだ。どうしてなのか、はっきりとはわからない。直感だった。彼女の中で何かがうまくいっていないことが、すぐにわかった。説明できないけれども、そのことに私は心動かされてしまった。ベトナムの女乞食やアンヌ=マリ・ストレッテルよりも、ずっと。ロルから立ちのぼっている心魅かれる沈黙のおかげだ。他の二人の女について私はいろいろと知っているが、ロルについては何も知らない。すべて私が作り上げなければならない。

彼女の心の均衡を失わせてしまった失恋に因る一種の精神病について、私は『ロル・V・シュタインの歓喜』を書いた。マイケルが彼女を捨ててアンヌ=マリ・ストレッテルについていった後、私は女主人公に、何年間も自分の中に閉じこもった生き方をさせた。

ノートの中で、ロルは《うつ病》について語っている。彼女によれば、それは、あらゆることに対するエネルギーの欠如と、強い愛の力が性的なものではないという形で、現れている。私の考えでは、どちらもむごい悲劇である。私にはなじみ深い、あれほど強い生命力や、あれほど激しい性の欲望がなかったら、私はどうなってしまっただろうか?! まさにそのおかげで、地獄のような呪われたと言っていいほどの家族にも耐えることができ、後には書くことができたのだった。書くことこそ、私の人生の唯一の目的である。

精神分析医なら、すぐにロルのこの病気を分析し、いじくりまわし、邪険に扱うだろう。そして素人にはわけのわからない、もしくは、ごく短いけれどもギロチンの刃のように残酷で断定的な名前をつけて、おしまいにする。患者は永久に意気阻喪してしまうだろうに。私はそんなことはいっさいしないだろう。もっとも私はこの種の医者が嫌いだし、診てもらいにいったことはない。ありがたいことに! 彼女が自分の病気につけた診断を尊重したいと思う。そう診断したことはすでにとても健気である。彼女のする分析は、実に単純だが、どこか非常に真実で、私を大いに感動させる。それは、彼女がどれほど苦しまなければならなかったかを十分にわからせてくれる。そのうえ、普通に生活するためにがんばったのだから。そうするためのあのエネルギーをどこから引き出したのだろう?! そんな力は全然ないと、彼女は言っていたのに。たしかに自分にとってしか役に立たないが、見事な均衡といったものを彼女は見つけていたのだと、私には思えるのだ。

私は小説をまったく間違ったふうに書いたのではなかった。女主人公は彼女に少し似ている。私のヒロインは、《静かな倦怠感》に耐えており、そこからなかなか抜け出せない。《この病気の起源を、もっと昔、ふたりが親しくなるよりもさらに昔にさかのぼる》と考えたタチアナは、最も正しく見ていたことになる。

実際は、私が彼女をどんな病気で苦しませたのか、よくわからない。その病気に現実には一度も名前をつけていない。作品を通して、それは狂気のようなものだとほのめかしただけだ。とにかく、それは、ロルがマイケルとの別れでショックを受けた時に、特に現れた。私はこんなふうに、ごく素直に見ている。彼女にとってのあの恐ろしい衝撃のあと、私は彼女を十年間《眠らせ》、最後に、ジャック・ホールドと共にカジノに戻った時、彼女が気がふれてしまったように書いた。

だが確かに私は、彼女を特に性愛の枠の中で、動き回らせたかった。なぜなら私にとって、愛は性的な結びつきなしには考えられないからだ。私は本の中で、幸福な恋愛を書いたことがないけれども、登場人物たちは互いの中に溶け合わねばならない。性愛は火の試練であり、それがなくては、私のペンのもとに彼らを生かすことはできないだろう。

でも、私はロルを別なふうに作ろうとした。マイケルに対する彼女の愛については、ほとんど何も書かなかった。彼女が彼に《気違いじみた情熱》――タチアナはそれをあまり信じない――を抱いたことを強調したにすぎない。その代わり、カジノでと、その後の数週間のあいだの彼女のようすを大きく取り上げた。彼女の心が、あのとてつもない恋人たちと共に運び去られ、そのときからほとんど正気を失ってしまった、ということにしたかった。恋の痛手は私にとっては非常に重要なのだ。その時まで、ロルは風変わりではあるけれども、ノートのロルほど頭がおかしくはなかった、と私は思っている。

ところで、ほんもののロルは、彼女にとって非常に苦しかったあの試練を、健気に乗り切る。長い間、彼女は病気と闘ってきた。この病気は彼女によれば、フィアンセとの別離とは直接には関係がない。もしそう言ってよければ、誕生以来、病んでいたようにみえる。

つぎに私は、私のロルを町の中をさまよわせながら、徐々に気を狂わせていく。だが同時に、むしろふつうの女に仕立てた。《望んだわけではない》結婚をさせる。しかし彼女を、夫を彼女への欲情で夢中にさせるような、やさしく官能的な妻として描くことには成功していない。そのことに関しては、彼女は私の紙から抜け落ちてしまった。私のペンはうまく彼女をとらえられなかった。彼女は三人の子供を持つのだが、子供たちへの愛情にあふれた彼女を想像することはできない。彼女は両親の家にふたたび住み、その家を偏執的に整えている。私は彼女を何かに非常に気をとられているように描く。それは時折彼女をまるごと襲う。例えば、庭の小道を設計する時、彼女が変なふうに間違ってしまうのは、このせいなのだ。彼女の精神の不安定さの表れである

だが、彼女を性的欲望の中に描くことに苦労するとしても、性愛なしに生きさせることも全く同様にむずかしい。私にはできない。繰り返しになるが、私にとっては想像もつかない。ライ麦畑の中で、彼女がマイケルと愛を交わすことを夢み、《毛を赤毛に染め、そばかすが散っていて、海のイヴという感じで、日にあたると見劣りするに違いなかった》女(アンヌ=マリ・ストレッテル)の中に姿を変えている自分を想像し、ジャック・ホールドのかたわらのタチアナに成り代わろうとしていることは明らかである。だから私はタチアナにすがり、私の小説の女性の官能性を、みな彼女に負わせているのだ。なぜならロルにはどんな官能性も想像できないから。私の見たロルは、いつも《病的に若いまま》で、《いかめしいグレーのコート、時代の好みにあわせた暗色のドレス》を着ている。

彼女をT.ビーチにジャック・ホールドと共に戻らせて、話が最後まで私の納得のいくようにつとめた。彼女はカジノではどんな反応も示さなかったけれど、私はついに、彼女がT.ビーチでジャックと愛をかわし、歓びを感じ、叫び、アンヌ=マリ・ストレッテル、あるいはタチアナ、あるいは二人と自分を同一視するようにもっていくことができた。この場面を書くのにはとても苦労した。私が使った言葉は、すべてがふさわしいものとは言えなかった。たいへんだった。そのあと、私は彼女の気を狂わせた。本当に。彼女はとりとめのないことを口走り、ジャック・ホールドと一緒に泊ったホテルの中に警察が来ていると思い込む。

最後の場面で、ロルはジャックとの間に何もなかったかのように、ライ麦畑に眠りに来るのだが、彼女は愛するために、ラブホテルである森のホテルにいつものようにやってきた恋人たちを通して、愛するために来たのだと、私はやはり思っている。こんなふうにして彼女が治っていくだろうと私が思ったのかどうかはわからない。それもありえるだろう。
それに私は、ノートのロルが、尋常ではない彷徨の疲れをいやすためにだけ、ライ麦畑に来たのではないと思っている。タチアナとジャック・ホールドがライ麦畑の目の前の森のホテルにやって来たのがわかった時、彼女は自分の身体で愛を見つけ出せるように、そこにまたやって来たのだ。女性特有の、深く潜在する無意識の愛の本能にかられて。おそらく本能が、まだとりかえしがつくと、彼女に告げていた。

しかし、私には本物のロルの書いたバリエーションは受け入れがたい。日記のロル   はあまりにもほんとうらしくなく、あまりにも身体をはなれすぎていると私には思われる。もう一度繰り返すけれども、不滅ということすら、私にとってはすべては身体を通してやってくる。例えば、大好きな兄のポーロが不滅だということも、私は身体で感じとったのだから。心が、そして特に身体があれほど孤独なのに、彼女があんなふうな歓びを感じたというのは、私にはありえないようにみえる。そうだ、そうは信じられない。

だが、私は日記のロルに多くを負うだろう。彼女のおかげで、私の中に彼女の世界と似通った世界がありうることに、気づいたのだ。これほど痛切に感じたのは初めてだった。きっと最初からその世界は私の中に存在しているのだけれど、私はそれを眠らせておく。絶対に浮かび上がらせたくない。私は全的に生きながら書きたいと強く願っている。性的に互いに燃え立たせ、滅ぼし合う恋人たちのことを書き続けていきたい。

私はあの小説を熱に浮かされたかのように、非常にはやく書いた。先に述べたようなロルの沈黙の魅力に捕まらないように、できるだけすぐに書き終えたかった。ということは、私や、ペンで時にははるか遠くまで冒険するのが好きな作家にとって、彼女が危険なほど魅惑的だと、私にはわかっていたのだ。白状するが、一時とてもこわかった。

でも私は自分に全然満足できない。あの《立ったまま眠っているような》女――それがノートのロルであっても、私の小説のロルであっても――が今後も長い間私を苦しめるだろうと感じている。アンヌ=マリ・ストレッテルのように、もしくはもっとひどく私を巻き込むだろう。カフェで彼女のことを見つめたりしなければよかった。まさしく運命の日だった。


(終)


 
 ◆引用は平岡篤頼訳『ロル・V・シュタインの歓喜』より。



【管理者の注】
 Le Ravissement par Lol.V.Steinの日本語訳。デュラスの作品「について」語るのではなく、その中へと読み入り、さらに突き抜けていこうとするグルナックの新境地が示された最も興味深い一遍となった。
 文学エッセーのように、あるいは論考のように、いつまでも安全地帯に立ちながら作品「について」語るという無難で「理性的」な姿勢、それを自ずと必然的に離れ、デュラスの作品の、また「作品」というもの自体の磁力に素直に誘惑されるがままに、積極的に危険な創作的思索のほうへと外れ始めていくグルナックの姿が、まことに生き生きと麗しい。文学作品は、つねに読者に、「なぜ、あなたは『について』でない書き方を始めないの?なぜいつまでも安全圏にいて読んでいるだけなの?おずおずとなにか『について』書いてみているだけなの?」と詰問してくる。ロラン・バルトを馬鹿にしたデュラスやユルスナール。で、あなたは?書かないの?「について」の外で書かないの?いつあなたは、ただ「書く」ことを始めるの?…グルナックの好きだったドゥルーズの言葉が思い出される。Ecrire, c'est devenir, mais ce n'est pas du tout devenir écrivain(書くことは「成る」ことだ。しかし、作家になることでは全くない)。
 この日本語訳は、原文とともに『水路』7号(2007年12月25日発行、大林律子編集代表)に掲載された。ここへの再録を快諾された加藤多美子氏に感謝する。

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