2011/01/19

『愛人・ラマン』(マルグリット・デュラス作)について

             マルグリット・デュラスの墓の前で 
  
                                photo by Masaki SURUGA 



   エレーヌ・セシル・グルナック
 加 藤 多 美 子 訳


 マルグリット・デュラスは難解な作家、退屈ですらあると、世評では言われている。より正確に言えば、晩年の連れあい(ヤン・アンドレア)のように無条件に彼女を賛美する人たちがいる一方、作品を読もうとしたけれども、物語にも文体にもぴんと来ず、デュラスの書いたものは《インテリ》向きだと率直に認める読者も大勢いる。
 もちろん一般化すべきではないけれども、たとえば一九六四年から一九六八年の間に書かれた『ロル・V・シュタインの歓喜』、『ラホールの副領事』(一九七四年に作者自身により『インディアソング』というタイトルで映画化された。カルト映画と言われ、今日なお、魅惑的だとか、いらいらさせて我慢できないとか、評価が分かれている)、『ガンジスの女』、『愛』といった、おそらく最も理解しがたい《インド連作》とよばれている小説を、飽きずに何度も読んだという人は少なくとも私のまわりではあまりいない。
 これらの小説で、デュラスは読者に鋭敏な注意力を求めており、言葉や、簡潔でよく練られた文体に隠されているすべてを読み取らねばならない。しかし彼女によれば、これらの《時を超えた》作品を高く評価したのは驚いたことに若い人たちである。(『マルグリット・デュラスの好み』参照。一九八四年十月二十日フランス文化放送で放送)
 デュラスはもう流行らないし、もう読まれないらしい。それでも、彼女について書かれた雑誌、エッセイ、論文が、フランス国内だけでなく外国においても世に出つづけている。

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 デュラスが一般によく知られるようになったのは、一九八四年に『愛人』がゴンクール賞をとってからである。なお、一九五〇年に出版された『太平洋の防波堤』は、もう少しのところでゴンクール賞を逸している。この小説ではすでに母を中心とした家族の問題がとりあつかわれており、この強迫観念となったテーマ、悲痛なライトモチーフはほとんど全著作に見出される。作者によると、植民地制度を批判したので賞を与えられなかったということである。当時のフランス人にとって火傷しかねないテーマだったのだ。一九五七年にルネ・クレマン監督によって映画化されたが、『愛人』ほどの成功はしていない。
 したがって長い間、あまり複雑でないベストセラーを好む一般読者は、デュラスには興味を示さなかった。ところが『愛人』は、特に自伝的色合いのために、文学的事件となったのである。作者が自分のことを語る。過去のごく内密なことを話すので(作家がみな虚構と現実を混同したがることは、よく知られているが)、読者はすっかり共感を抱く。
 ようやく、映画化(デュラスはきびしく批判したが)のおかげで『愛人』は大多数の観客にとって近づきがたいものではなくなったが、残念なことに、原作を読もうという気には全然ならずに、映画を見るだけだろう。そこで『愛人』というタイトルが話題にのぼると、人々はまずその映画について話すわけだ。

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『愛人』の物語は結局のところ、かなり単純である。今日なお起こりそうな話だし、もはや物議をかもすようなことは何もないだろう。非常に貧しいフランス人の少女と大金持ちの中国人の物語。二つの大戦の間の、フランス植民地下のヴェトナムでのできごとである。当時、たとえ裕福でも中国人は白人の娘と結婚することはなかった。そのために悲しい結末を迎える物語。『愛人』というと、ふつうこんなふうに記憶にとどめられている。
 しかし、この小説を読んだ人に最初の数ページ――顔と、《こちらをはっとさせる映像》についてのページ――に目を通して、感じたことをたずねると、多くの人たちが驚いた様子をする。その箇所についてはぼんやりしたことしか覚えていない。少女が現地人用の古ぼけたバスから降り、乗客をメコン河の対岸へ運んでいる、これもまた古い渡し船の手すりに肘をつき、黒塗りの大型リムジンからひとりの中国人が自分のほうへやってくるのをまもなく見るだろう。多くの読者にとっては、まさにそのときにすべては始まるのだ。家族間の不和の場面も忘れられることはなかったが、重苦しくつらい印象が残り、彼らは、小説や映画で、再読したりもう一度見たいと思うのはこの場面ではないと言うだろう。
         
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 だがしかし、私の心に刻みこまれるのは、小説の冒頭である。いつまでも心に残る。語り手である《十五歳半の子供》と、あの外国人――彼は中国人だから――との決定的な出会いが書かれる以前のページ。
 そのほかの箇所もみな、いろんなこと(愛情と金銭、家族の修羅場、植民地の貧しいフランス人たち、もっとみじめな現地の人々、秘められた本国への批判など……)について深く考えさせてくれるのでたいへん興味深い。もちろんこれらのページは、アプリオリに主要テーマとみなされがちな恋愛の物語を、豊かに複雑にして、心を揺さぶるものにするのに役立っており、読者に強い衝撃を与えている。
 ここで付け加えておくと、読者の意見を分けるのは、しばしば作者の文体である。ある人たちにとっては素晴らしいし、他の人たちにとっては簡素すぎるか、もしくは凝りすぎていて、心を打つことができない。

《ある日、もう若くはないわたしなのに、とあるコンコースで、ひとりの男が寄ってきた。自己紹介をしてから、男はこう言った。「以前から存じあげてます。若いころはおきれいだったと、みなさん言いますが、お若かったときよりいまのほうが、ずっとお美しいと思ってます、それを申しあげたかった、若いころのお顔よりいまの顔のほうが私は好きです、嵐のとおりすぎたそのお顔のほうが」》
 このようにマルグリット・デュラスは『愛人』を書き始める。
 一方アルベール・カミュは、デュラスより約四十年前(正確には一九四二年)に『異邦人』を次のように始める。《きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私には分からない。養老院から電報を貰った。「ハハウエノシヲイタム、マイソウアス。」これでは何も分からない。恐らく昨日だったのだろう》
 二人の作家は同じ真実、つまり時の真実を告げているが、その方向はいわば逆を向いている。ムルソーは母の死を役所の通知か何かのように、あきれるほど自然に受けとめる。彼の冷静な態度は実際まちがってはいない。いつかそのうちにいやおうなく起こることなのだ。大騒ぎをする必要はない。お母さんの葬式に行きさえすればいいのだ。だが、葬式だけの問題ではなかった。すでに運命の歯車は回りだしており、ムルソーも間近に迫った終末、自分の死に向かって歩んでいる。母の遺体に涙しなかったために、ついには処刑されてしまうのだから。
 デュラスは、あの見知らぬ男がしわだらけの顔のほうが好きだとぶしつけに彼女に言ったとき、もう若くはなかった。彼女の美しさが、書くことに対する長い間の、不屈の、狂おしいまでの情熱からきていることを、彼はデュラスにほんの数語でわからせる。実際は、デュラスが今まで歩いてきた文学創作の道を、賛辞で評価しているのだ。
 ムルソーは避けられないものに向かって進んでいく。デュラスは記憶をさかのぼる。たしかに二人の状況に共通するものは何もない。だが主人公たちは似通っている。出来事の把握の仕方が驚くほど似ている。自分たちに直接かかわるときでも、非人間的に見えるまでに色あせてしまう空間、それを引き裂くリズムは同じである。デュラスもカミュも饒舌にすべてを解説したりはしないし、たとえつかのまであっても心の高ぶりを洩らすことはない。
 カミュの主人公は冷めて無関心な人物だと、私たちは一読して考える。デュラスについては、見知らぬ男からたったいま知らされたことの的確さに、はっとしながらも、実は自分がすでに承知していたことなのだから誇り高く沈黙を守っているのだ、と思う。彼女はどこかで言うだろう、《男というものは書く女が好きなのだ》と。
 私が強調したいのはこれら二つの小説の最初に聞こえる音が、拡散して消えてしまうことなく、いつまでも果てしない空間に鳴り響いているということなのだ。冒頭に見られる色合いは、その強烈で変わることのない存在感のために、また今後動き出していく小説の展開ゆえに、具象化されたかのように天空に浮かんでじっと動かない。つまり、二つの作品の価値に関してだけではなく、カミュとデュラスがそれぞれの著作にこめた並外れた創造のエネルギーのこと。このエネルギーが読者の世界に染み渡り、ずっと振動しつづけている。

             
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 時の腐食から免れたからではなく、時に浸食され、うがたれ、亀裂を入れられたからこそ、いまの顔は美しいのだと、マルグリットは見知らぬ男にほめられた。その数行後に、作者はその顔を詳細に描きたいと思う。
 どんな疑いもさしはさめない、短くてかみそりの刃のように鋭い一文で、デュラスは端的に自らを語る。彼女は若かったことがない。一気に年をとってしまった。彼女にとって、時は他の人よりも早く過ぎてしまった。《わたしの人生はとても早く、手の打ちようがなくなってしまった》。この一文から始まり、次のページ全部を使って、自分の顔を描写する。《十八歳のとき、もう手の打ちようがなかった。(……)十八歳でわたしは年老いた。(……)この老化は容赦なかった。(……)》
 ジャコメッティ風のみごとな頭部像を思い浮かべることもできるだろう。だがデュラスには映画的な生来のセンスがある。まるで本物の地殻変動、自然、地球の変遷を、フラッシュバックで見せるように、私たちをシミュレーション上映に立ち会わせる。現在から、ずっと昔、彼女の顔がしわ一つなく全くなめらかだったころへ、目もくらむような速さでさかのぼらせる。そしてそこから、映画カメラのもつ神技のおかげで、あっという間に出発地点に連れ戻してくれる。その途中で、顔のおもにどの部分に、最も深刻な衝撃を受けたのか、あの老化の最も明らかな痕跡が見られるのかを指摘しながら。《時間の圧力》によって引き起こされた大変動を、こまおとし撮影で浮き彫りのように、私たちは《見る》
作者は、残酷なまでに的確で非情な形容語句をふんだんに用いる。《眼は大きくなり、眼差は悲しみをたたえ、口もとはきっぱりと変わりようのないものとなり、額に深い亀裂が刻まれる》。少し先で又こう書くだろう。《いまの顔は、乾いた深いしわで引き裂かれ、皮膚は疲れ切っている。(……)わたしは破壊された顔をしている(傍点は筆者)》。傍点の形容語句が、この破綻に決定的な最終印を押す。
 しかしこの描写は科学的な、全く客観的な報告書のようだ。こうしたことすべて、人生のあらゆる様相を発見することに非常に関心を持った研究者の記述である。デュラスは自分の顔と彼女自身とを混同しない。地図のように注意深くながめる。顔は彼女の外部にある。《顔の老化がこのようにすすんでゆくのを見ながら、それに怯えるどころか、たとえば何かの本で物語がしだいに繰り広げられてゆくのにのめりこんでゆくような気持を、わたしは味わった》。ついに、顔の造作の大まかなところは変わらなくなる。《同時にわたしは知っていたのだ、これは思い違いではない、いつかある日、老化の歩みは遅くなり、普通の進行状態になるだろう、と》。この文章は、ある確信が実際に作者に宿っていることをほのめかしている。自身のどこかにある一種の精神的均衡、内面の力といったものによって、いつの日か作者が自分自身でいられるようになることを、そしてあの、時の狂乱ぶりを抑えることができるようになることを、この文章はすでに作者に保証しているのだ。どのようにしてかは述べられてはいないけれども、彼女の中の何か非常に強いものによってそうなるのだろうということがわかる、つまり書くことによって。十九歳以降、彼女はほとんどそのときのままの顔を保っていくだろう。《繊細な顔立ちの女たちが老けこんでしまったのとはちがう、同じ輪郭線を保っている、しかし実質は破壊されている。わたしは破壊された顔をしている》
 彼女の顔に及ぼした時の作用、それは作者が紙に書きつけた膨大な仕事のことである。顔に刻まれた深く見事なしわは、最後まで作者を苦しめるであろう同じテーマの繰り返しなのだ。母親、不可能な絶対的な愛、狂気、彷徨、倦怠の空虚さといったテーマは、《わたしは自分の本の中で堂々めぐりをしている》と彼女が書くように、一種の強迫観念であり、もう心の病だ。信じられないほどの言葉への愛を通して、倦むことなく天分を生かし、これらのテーマを何度もとりあげるだろう。表現しようのないものを表現できるような新しいニュアンス、新しい色合い、新しい反映をそこから引き出すために、語句や文体を耕し、かき回し、痛めつけ、ほとんど気も狂わんばかりだ。デュラスは簡潔な文章(エクリチュール)、作者が言いたいことの本質をできるかぎり純粋に表現する文章(エクリチュール)を手に入れて、その本質についての彼女の形而上学的な考えを伝えたいと、必死に願うだろう。

 もっとも、ある日書くことに満足できず、気が違わないかと怖くなって、映像のほう、映画のほうへ気持ちを向ける。一九七〇年代、彼女は映画の世界で、見えないものを明らかにするような、目に見える映像(イマージュ)を創り出そうとする。そして実際にかなりの成功を収める。(『ナタリー・グランジェ』、『ガンジスの女』、『インディアソング』、『オーレリア・シュタイナー』……)だが結局、彼女が最終的に戻る場所は書くことなのだ。映画は書くことを超えられないと、彼女は裁定を下すだろう。

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 最初の二ページがこの小説を予感させると同時に、要約もしている。ほぼ十七歳(そのとき、中国人の男との関係は終わっていた)と十九歳の間で、語り手は時期が来るより早く《年老いて》しまった、それは十五歳からだとさえ彼女は明言する。すべてが顔にあらわれており誰の目にも明らかだ。彼女は存在の深いところで、自分を待ちうけている人生に対して覚悟をする。そこから、最良にも最悪にも、すべてが出発し、すべてが決定されていくだろう。
 娘時代の顔に見られるものはみな重苦しい様子をしており、こう言ってよければ広い意味での欲望という一語に凝縮することができる。それはデュラスにおける途方もなく素晴らしい生命力のことであり、彼女の著作を通じていつも感じられるのだが、逆説的に、最も絶望的な作品に特にあらわれている。一つの作品――その中で彼女は自分という人間、自分の愛、自分の人生を、何とかして壊そうとしたのだが――が仕上がってしまうとすぐに、生まれ変わったかのように再び創り出そうとする……新たな破壊に向かって。たしかに創作は、ほとんどすべての芸術家におけるのと同様、いつも苦しみを伴う出産だった。だがデュラスは作品を生み出すたびに、より強くなり、人間のドラマについての探究を深めることができるようになったと思わせる。『愛人』ではこの欲望=生命力はいたるところに存在し、そして非常に強い。

 まず、殺したい、上の兄を殺したいという欲望。《(……)十八歳のとき何かが起り、そのためいまのこの顔が生まれたのだ。(……)わたしは自分が怖かった、わたしは神が怖かった。(……)わたしは殺したかったのだ、上の兄を、彼を殺し、一度は、せめて一度は兄を支配するようになりたかった、兄が死んでゆくのを見たかった》
 マルグリットはこの兄をひどく嫉妬して嫌っている。彼は母の愛を独占している。彼女にも《小さい兄ちゃん》にももう何も残っていない。こんなことはあまりにも不公平で、やめさせねばならない、と彼女は思う。《それは、母の眼前から、母の愛の対象であるこの息子を奪い去るため、母がこの息子をあんなにつよく、あんなに下手に愛しているのを罰するため、いやとりわけ、下の兄を救いだすためだった、大好きなあの小さい兄ちゃんを(……)》。そういうわけでこの兄への憎しみに、子供への愛情を不公平にしか与えられない母に対する深い恨みと、下の兄への、存在はしても無力でしかない愛が付け加わる。
 だがこの小説を通して、母に対する反抗は同時に自分への愛を求める大きな叫びだということがわかってくる。《大好きなお母さん、ドーの繕った木綿のストッキングなんかはいて、その格好がおかしいったら信じられないくらい、熱帯にいるのに小学校の校長先生としてはストッキングをはかなければいけないと、まだ信じている(……)》。上の兄に対するマルグリットのふるまいについては、そんなに単純なものではないということが先でわかるだろう。

 すでに彼女の顔はもう一つの恐るべき真実を洩らしているが、これは何年もたってからはっきりと姿を見せるだろう。語り手が後に陥ることになるアルコール中毒。《悦楽の出来事》(「愛と死、そして生活」参照)の代用品。《いま、わたしにはありありとわかる、わたしはとても若いころ、十八歳のとき、十五歳のときに、あの顔をもってしまったのだ、中年になってアルコールとともに身につけた顔の予兆をなすあの顔を。(……)アルコールによるこの顔は、アルコールをたしなむまえにわたしに訪れた。アルコールはこの顔を確認しにやってきたわけだ。わたしのなかに、あれのための場所が用意されていたわけで、ひとなみにわたしもそのことを知ったのだけれど、奇妙なことに、その時期になるより以前に知ったということになる》
 とにかく私たちは彼女があれほどアルコールを好んだことに感謝したい気持だ! デュラスに多くの傑作の着想を与えたのは、まさしくアルコールであり、また当時彼女にとりついたようにみえた一種の狂気なのだ。その傑作の中で最も当惑させ、最も魅力があるのは『ロル・V・シュタインの歓喜』だが、彼女はこれをまともでない状態でほとんど自動筆記のような形で書く!

 これもかなり早い時期に、彼女の顔には非常に強い性的欲望が見られる。書きたい気持と同じほど強い。二つの欲望はいつも密接にからみあい、ほとんどの作品に見られる荒々しくも詩的でもあるあの緊張感を生み出してきた。《十五歳で悦楽を知っているような顔をしていた、でもわたしは悦楽を知らなかった。(……)兄たちにはそういう顔立ちが見えていた。すべてがわたしにとって、そのように始まった、あの目立つ、憔悴した顔とともに、時間に先んじて、つまり実地の経験に先んじて隈のできていたあの眼とともに》
 この欲情はふつう愛と呼ばれるものとは何の関係もないようだ。もっとずっと先まで到達する。飽くことのない本能的な好奇心のようなもので、人生のあらゆる襞に入り込み、探検し、可能なかぎりいろんなことを経験しようとする。何でも引き寄せることのできる、強力で、むしろ破壊的な、説明できない磁力といったものなのだ。この欲情はどこからきたのか? 私たちにはあるのか、ないのか?《わざわざ欲情を抽きだす必要はなかった。ある女のなかに欲情が棲まっていれば男の欲情をそそる、あるいはそもそも欲情など存在しない、そのどちらかだった。女のなげかける最初の眼差、それだけで、すでに欲情がある、あるいは欲情はかつて存在したことがない、そのどちらかだった。欲情とは性的関係への直接的な相互了解、あるいは何ものでもない、そのどちらかだった。このことも、同じくわたしは実地の経験以前に知った》

 この《性的関係》こそが、主な登場人物の、ほとんどいつも女たちの、愛の生活に何よりも命を吹き込む。女たちについては多くのことが知らされるが、男の主人公については、何を考えているのか、どのように苦しんでいるのか、作品『ラホールの副領事』の副領事を除いては非常に少ししかわからない。
 デュラスは普通の恋物語は決して語らない。語られるのは、互いの性的魅力に溺れてそのままむなしくなってしまいたいと願う二人の物語。神が創りたもうた人間という二つの存在が一つに結びつくときの、あのつかのまの閃光、言葉ではあらわしようのないあの荒々しさを、デュラスはいつも強調する。カップルの概念、貞節を信じることは決してないだろう。真実の愛は死ななければならない。真実の愛が生き続けるのは、別離と死によってなのだ。とにかく幸福の見込みや前途などは決して問題にならない。『ロル・V・シュタインの歓喜』の中で、アンヌ=マリ・ストレッテルは《パーティー全体にさまよわせたその視線ともいえない視線》で、マイケル・リチャードソンの心を奪う。彼らの眼があったとたんに。ロルがフィアンセに再び会うことはないだろう。
 『愛人』の中で、少女は中国人の男に《いつもいろんな女たちを相手にやっているようにしてほしいの》と頼み、《そういうやり方でやってくれと、彼女は男に懇願する》。そして又《彼が彼女を愛していないほうがいいと思っている》。彼は一目で彼女に夢中になり、この恋こそ特別だ、彼女と結婚したいと父親に頼むまでになるけれども、彼女のほうは全くそういうふうではなかった。彼女は男を気に入り欲しがるが、そこまでにしておきたい。話しているように見えるのは身体であって心ではない。非常に若いのにすでに醒めきっていて、シニカルといってもいいくらいだ。少女は自分の中の性的欲望は、一人の恋人だけでは、ましてや結婚ではどうしても満たされないということを、すでに知っているのだろうか? それとも《小さい兄ちゃん》しか決して愛せないと思っているのか? 中国人の男は彼女を愛しすぎているから、こんなことはすべて思いもよらない。だが子供の口から出た言葉を信頼しすぎるのはやめよう。男に頼むときの言葉には、どんな感情も押し殺されている。そのために、秘められてはいるがなお明らかな苦しみが、いっそう大きくなって姿を見せている。
 デュラスはまれにみる美しい詩的な文で、少女の初めての性的エクスタシーを表現している。《海、かたちのない、単純に比類のない海》。形式と内容、話された言葉と心の奥底との間の、彼女に見られるこのような矛盾は、すべてのことは見た目よりも複雑だということを、もう一度強調することになるだろう。

 この欲情は兄たちにも向けられる。デュラスは近親相姦に近づくことを恐れない。《小さい兄ちゃん》への恋情を隠さないが、あれほど嫌いな上の兄に対してもあいまいな思いを寄せている。《彼と、つまり下の兄と、わたしはダンスをする。わたしの愛人とも踊る。上の兄とは、けっして踊らない、彼と踊ったことは一度もない》。彼女は《兄があらゆる人びとに及ぼすあの不吉な魅力》がこわい、《わたしたちは身体が近づくのがこわい》。しかし彼女は続けて、生きてはゆけないような異様な家族関係にありながら、上の兄と自分には似通ったところがあると指摘し、詳しく語るだろう。《わたしたちは、まったくおどろくほどよく似ている、とりわけ顔が》。二人ともアルコールが猛烈に好きだった。彼女は書く情熱によって、ある意味では救われたのだが、長兄は悲惨と孤独のうちに死を迎えるだろう。最初から最後まで失敗の人生だった。

 この小説では、下の兄との近親相姦にまで進むことはない。だがデュラスがこの種の愛を書きたかったのは確かで、『アガタおよび果てしない読書』の中で兄妹相姦として描く。その後、これは彼女自身の手により見事に映画化された。ポーロ(下の兄をこう呼んでいる)の死は彼女を打ちのめす。キリストの死のように感じられる。《小さい兄ちゃんは不滅の存在だったのに、その姿がもう見えなくなってしまった。(……)兄ちゃんの身体が死んでしまった。永遠不滅も兄とともに死んでしまった。しかもこうして、世界はつづいてゆくなんて、神の顕現したあの身体が、あの顕現が奪われてしまったというのに、完全に間違いだ。過ちが全世界を覆いつくした、無茶苦茶だ》
 それは彼女自身の死でもある。《わたしが彼に抱く非常識な愛情は、わたしにとってうかがい知れぬ神秘のままにとどまっている。いったいなぜ、彼の死ゆえに自分も死んでしまいたいと思うほど彼を愛していたのだろう》。茫然自失したマルグリットは、この死から長い間立ち直れないだろう。このような愛は死ぬはずがなく、永遠に生き続けるのだと信じていたのに。次兄は彼女自身であり、彼女の血、彼女の魂だったのだから。彼女は次兄を人生の荒波から守りたかった、そしてその弱さの点で、彼女の恋人や女友達エレーヌ・ラゴネルに似ているとよく言われている。しかしここで言えることは、彼こそ彼女がひたすら求めた人であり、この上なく真実の、絶対的な愛を感じた相手だということだ。彼女を変貌させ、高からしめた愛……この愛はマルグリットに次兄への心のこもった美しい章句を書かせた。ここではシニカルで非情な態度は消えてあとかたも見られない。

 彼女の内にあるこの熾烈な欲情は、寮での友人、彼女と同じ白人の少女、エレーヌ・ラゴネルにも向けられる。エレーヌは、《身体はほっそりしている、貧弱と言っていいくらいだ、胸はまだ子供のまま、淡い薔薇色のお化粧をしてルージュを引く》と形容されるマルグリットとはまるで違っている。デュラスはエレーヌを描くのではなく、まさしく彫刻する。御影石そのものから抜け出た壮麗な彫像のように私たちの前に現れる。ちょうどルネ・マグリット風の素晴らしい裸体胸像として。彼女の美しさは、単なる肉体の美をはるかに超えている。デュラスが天賦の才で選び抜いた抽象的な言葉でこの美を形作るので、息を呑むほどの美しさがますます強調される。《神の下さったあらゆるもののうちで一番美しいもの、それはエレーヌ・ラゴネルのこの身体だ、比類ない身体、身長と、この身体が乳房を自分の外に、いわばはなれたものとしてもつそのやり方とのあいだのこの均衡。このきりりとした乳房のまるまるとした外見、こちらの手のほうに突き出されるこの形状ほどに、類を見ぬものはない》
 彼女は美貌の友に荒々しいまでの熱い思いを抱き、抑えることができない。《わたしはエレーヌ・ラゴネルが欲しくてぐったりしている。わたしは欲望でぐったりしている》。デュラスの他の小説にも繰り返しあらわれる窃視症(のぞき)についてはしばしば論じられている。『ロル・V・シュタインの歓喜』の中で、ロルはライ麦畑に隠れて、友人タチアナとジャック・ホールドが愛を交わしているホテルの部屋の窓を、じっと見つめている。『愛人』で、マルグリットは《エレーヌ・ラゴネルをあの男に与えたい》。友人を通して悦楽を得たい。そのことは、症例であろうとなかろうと、人生で初めて知った官能的な陶酔を分け与えたいという狂わんばかりの欲望として理解されうる。エゴのない、所有本能のない、道徳的抑制のない恍惚。なぜなら愛人を愛してはおらず、自分ひとりのために嫉妬深くとっておきたいとは思わないのだから。この種の執着が彼女の心をよぎることはない。おまけにエレーヌのごく自然な感覚的欲望は、どんな禁止からも全く自由であり、そのおかげで彼女は《淫ら》であり《真っ裸で寮の寝室のなかをあちこちと歩きまわる》。そしてマルグリットを魅惑してやまない。
 大胆なまでに無垢で目の覚めるようなあの美しさを、マルグリットはひそかに羨んでいるのだろうか? 女としての魅力を生み出すようなものが当然あってほしいのに、自分には欠けていると思っているのだろうか? 《彼女はわたしよりずっと美しい、あの道化の帽子をかぶり金ラメの靴をはいた娘よりはるかに美しい、けたちがいに結婚に向いている、エレーヌ・ラゴネル(……)》。さきほどの問いへの答えは〝否〟らしい。他の箇所で《身体よりも精神》の優越を強調しているし、《性愛の把握》にかけては自分がエレーヌにまさっていると感じている。性の深さの理解は少女に多くの自信を与え、彼女を成熟させた。《エレーヌ・ラゴネル、彼女のほうは、わたしが知っていることをまだ知らない。(……)彼女は、わたしの知っていることを、断じていつまでも知らないだろう》。だから、マルグリットが、結婚におあつらえ向きにできているエレーヌの運命を羨むことはない。

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 だが、小説の大筋とは何の関連もない、語り手とは非常に違った二人の女のことが挿入されているのは、この倦怠に、悦楽への傾向がはっきりとあらわれているこの顔に、彼女があらがっているからだろうか? マリー=クロード・カーペンターとベッティ・フェルナンデーズの二人の女。
 デュラスは突然彼女たちを思い出し、彼女たちについて語り、描きたくなる。彼女たちが《対独協力者》であっても、二人に対して限りない賞賛の念を覚え、軽やかで純化された一種の欲望をやはり感じてしまうということを、読者は納得させられる。彼女たちの顔については何も語られない。ただ二人とも淡い色の眼をして、人生で《場ちがいな》様子があり、どこかしら《よそ》で暮らしているように見える。だから語り手はその背信行為も忘れてしまえる。マルグリットにとっては、彼女たちが放射しているもののほうがずっと大切なのだから。マリー=クロード・カーペンターの《だれか個人のという感じのしない、きちんとした、とても明るい、冬のまっただなかの夏のような白いドレス》はマルグリットの瞳の中でいつまでもゆれうごいている。一方ベッティ・フェルナンデーズも、《ほっそりとして、背が高く、そのシルエットは墨絵の一筆描きか、さながら一枚の版画である(……)何ひとつ目にとめずに通ってゆくこの外国の女性。あたりを圧する女》として彼女を感嘆させる。
 神秘的ともいえるこの二人について書かれた数ページは、まさに散文詩である。彼女たちのように、身体はあらゆる重さから自由になって、風のような捉えることのできない存在になりたいという、心のどこかにあった激しいあこがれが歌われている。デュラスは娘時代の華奢で優美な身体を思い出して語っているが、大人になってペンの奴隷になってからは、優雅さや女らしさをみんな、急速に見放してしまう。ほとんどいつも、タートルネックのセーター、ありふれたスカート、ひどいソックス、やはり見られたものじゃないぺったんこシューズ、そんな姿で現れるだろう。大きな眼鏡が彼女を魅力的に見せてはいるけれども。

 デュラスの他の作品の女主人公たちも又、霊気のように軽やかで、この世に関心がなく、そこを人体というよりむしろ波のように動き回っている。そうしなければ彼女は書くことができなかっただろうが、あんなに現実的で地上にしがみついていたデュラスとは、いつも正反対の人物たち!
 もちろん私は、『愛人』の中で少女が《サヴァナケットから来た奥さん》と呼んでいるアンヌ=マリ・ストレッテルや、デュラスお気に入りのヒロイン、ロル・V・シュタイン(ロルのおかげでデュラスはもう少しで彼女のように狂人になりそうだった)のことを考えている。たびたびヒステリーをおこす母、一人は憎みもう一人は崇めた二人の兄の傍らで生きながら、デュラスは最愛の女主人公たちを、幸福の追求ではなく、非現実的ともいえる世界、つまり倦怠の、空虚の、狂気にまでいたる固定観念の世界に、地獄のような家庭や日常生活の凡庸さから遠く離れた領域に、ほうりこむ。たとえば、ロル・V・シュタインは、Tビーチの公営カジノのダンスホールで、アンヌ=マリ・ストレッテルとともに永久に去っていった婚約者の姿を、十年の間、《凝視したまま》になる。そしてついに《目覚め》て、彼女は狂気に陥るだろう。アンヌ=マリは《ほっそりとした》《しどけない、死んだ小鳥みたいにだらんとした艶やかさをもった女》と描かれている。
 二人にはその原型となった実在の女たちがいる。アンヌ=マリ・ストレッテルのモデルはエリザベート・ストリーターといって、とても美しく、彼女のために一人の男が自殺してしまった。マルグリットは子供のころ彼女を見かけて、まばゆく忘れられない思い出を持ちつづける。後にデュラスが中国人の男のことで中傷されたように、エリザベートもたくさんの愛人に身をまかせて、評判を落としたのだった。二人とも禁忌にそむき、保守的な社会に反逆しようとしたのだから、マルグリットはいつも彼女を身近に感じつづけるだろう。
 ロル・V・シュタインに関しては、作者は一言も言葉を発さない精神病患者を、一日中じっと見ていることができた。この患者もデュラスを魅了し、心に深い衝撃を与えた比類のない出会いだった。
 また同じように、デユラスの心に痕跡をとどめ、『愛人』の中で語られている別の二人の女たちがいる。ある日、道で当時子供だったマルグリットを追いかけ、怯えあがらせたヴィンロンの狂った女と、そして女乞食。二人の人物は、彷徨や狂気にかかわることすべてにとりつかれてしまった語り手の、一種の分身だとふつう考えられている。デュラスは天与の精霊の過酷な要求のせいで、彷徨や狂気のほうへ運命的に自分が引きずられていくのを感じていた。この精霊は創作においていつも、より遠く、より危険なほうへと行きたがるのだから。
 女乞食。強迫観念。胸がうずき、無視することができない存在。たしかに、彼女は世界のあらゆる悲惨と非寛容を象徴しており、マルグリットは『ラホールの副領事』の中で彼女について詳しく述べているが、私は個人的に違ったふうに惹かれている。
 たとえば、アンヌ=マリ・ストレッテルとロルは愛の狂気に苦しむけれども、前者は大使夫人であり、後者は外科医の妻なのだから、彼女たちは護られた世界に住んでいる。
 女乞食のほうは何も持たず、何者でもない。妊娠したために母親に家から追い出された彼女は、家族の恥辱である。十年前からあえぐような運命をたどっている。彼女は山脈や平原を横断し、河に沿って歩き、カルカッタにまで、フランス大使館のあたりにまでやってくる。頭髪は抜け落ちて、やせ細り、産めない身体になった不具の女は、超人的な生きたいという欲望だけを持ってたった一人で歩きつづけた。ガンジス河で魚を捕らえ、その場で生のまま食べる。食べていくすべは知っている。その彷徨は恐ろしくも、又素晴らしくもある。果てしなくつづく地平線を前にした絶大な自由、混沌とした長い詩のようなもの。彼女は風や自然のあらゆる力と一体になったように見える。アンヌ=マリ・ストレッテルのように自殺願望に、又ロルのように精神が麻痺してしまう狂気に陥ることもない。笑う力、その笑いの合間にふるさとの歌を歌う力を彼女は持っているが、そのエネルギーはどこからくるのだろう? そしてこの笑いは何を意味しているのだろうか? 狂気か? 苦しみか? それが、彼女だけが理解し享受できる何か心のうちの均衡といったようなもの、深く不思議な、驚くべき平静さのあらわれでないと、どうしていえるだろう? 人生ですべてを手放し、もはや何も持たなくなった。そのことで幸せな人々のように、あの笑い、あの歌は、かがやく貧窮の中に生きる喜びなのではないだろうか? そうかもしれないのだ。

 だが、マルグリット・デュラスの最も深い欲望は、書くということだった。たしかに性愛の最初の経験は、彼女の人生で決定的なできごとであり、メコン大河の横断が象徴する正真正銘の通過儀礼ではあった。しかし小説の多くの箇所で、書くことこそ自分の唯一の願望、自分を生かしそのためには万難を排して戦う情熱だと、何度も強調している。
 最初、二人の兄に将来の見込みがなく、母親が《小学校の校長先生》にもかかわらず勉強を奨励してもらえるには程遠い環境にいたのだけれども、マルグリットはごく優秀な生徒だった。だから、寮の校長は《ホテルに暮らすように気ままに寮に住まわせてくれた》。母親は《中学から高校へ、そのさき数学の大学教授資格試験でよい成績をとること》を望んでいる。しかし娘ははるかに野心的だ。作家になりたいという、当時は想像すらできない理想を持っている。おまけに彼女の母のような人が母親なのだから。《この姿(十五歳の自分の)にすべてがあると、わたしにはよくわかっている。すべてがこの姿にあり、しかもまだ何も演じられていない、そのことが自分の眼のなかに見える。(……)わたしはものを書きたいと思っている》。もう少し先で彼女はこう続ける。《わたしは母に答えた。何よりやりたいのは、書くこと、それだけ、そのほかは何も。嫉妬しているのだ、母は》
 中国人の男と初めて連れ込み部屋に行き、彼女が恋心を抱いてはいないのに《ほかの女たちと同じように》自分のところにやってくるのだ、と彼にわかってしまったとき、《彼は言う、自分はひとりぼっちだ、彼女にこれほどの愛を抱きながら、おそろしいほどひとりぼっちだ。彼女は彼に言う、わたしもまたひとりぼっちだ。自分の気持がどうだとは言わない》。私の注意を引くのはこの最後の短い文である。彼女は書きたいという遠大な願望を抱いて一人ぼっちだ、と言いたいのではないだろうか? そしてまず恐るべき自分の家族の物語を書くこと、そうすれば、彼女が家族に対して同時に抱いている憎しみと愛のすべてを振り払うのに、役立つだろう。このテーマが作家生活を通じてずっと彼女につきまとうということには、気がつかない。書きたいという願いを何としても実現したい。
《わたしの人生の物語などというものは存在しない。そんなものは存在しない。物語をつくりあげるための中心などけっしてないのだ。道もないし、路線もない(……)》。彼女にとって書くこと、それは、書かれることなしには存在しない自分の人生の物語を描くことである。デュラスは性的欲望に対するのと同様、書く技術に対しても断定的である。備わっているかいないか、完全に身をささげるか全く否か。彼女の明晰さは恐ろしいほどで、徹底的である。《ときにはわたしは、こうだと思う。書くということがすべてを混ぜあわせ、区別することなどやめて空なるものへ向かうことではなくなったら、そのときには書くとは何ものでもない、と。(……)そのときには書くとは宣伝以外の何ものでもない、と》
 彼女にとって生きること、それは書くこと。さもないと人生は生きるに値しない。このことをプルーストは、プチットマドレーヌやゲルマント大公邸の中庭の敷石でのような超時間的な体験の後、確認した。彼は芸術のみが命を永遠にすることができることを知り、そのとき以来『失われた時を求めて』を完成すべく死ぬまで書きつづけた。プルーストとデュラス、二人にとって、すべてはそこから始まったのだ。ただデュラスは十二歳のときからその確信を抱いていた。

                 *     *     *

 少女の顔に重苦しく押された烙印について語られた忘れがたいページの中に、デュラスは《映像(イマージュ)》と呼んでいるものにふれた文を、ふと滑り込ませている。それは顔への言及以上ではないとしても同じくらいに重要である。

 メコン河の横断は一度も写真には撮られなかった。だからある意味では、存在していない。その証拠は残っていない。ただ一人デュラスだけが自分の中に、思い出の中に、持ちつづけており《知っているのは神だけだった。(……)あの像だけがはなれて浮かびあがり、全体から取り出されることは現実にはなかった》。そして語り手は以下の鍵となる一文でしめくくる。《この像がつくられることはなかったというこの欠如、まさにこの欠如態のおかげで、この像は独自の力、ある絶対を表現しているという力、まさしくこの像の産出者であるという力をもっている》
 映像(イマージュ)はそれ自体生まれてきた。よその世界から、時間を超えたところからやってくる。作家の、その精神の、純粋な創作物である。ここで作者はイマージュがひとりでに創造されることを力説しているが、この箇所は小説の一ページ目の第二パラグラフ(第一パラグラフは、とあるコンコースでの見知らぬ男との出会いである)に通じている。《わたしはよくあの映像(イマージュ)のことを考える、いまでもわたしの眼にだけは見えるあの映像、その話をしたことはこれまで一度もない。いつもそれは同じ沈黙に包まれたまま、こちらをはっとさせる。自分のいろいろな像のなかでも気に入っている像だ、これがわたしだとわかる像、自分でうっとりとしてしまう像》

 この節全体が、作者の最も個人的な、最も内奥にあるものを表しており、それはまるで創造主とデュラスの間の驚くべき共犯関係のように見える。この暗黙の了解はずっと変わらずに作用しつづけ、不思議な効果は弱まることがない。いつまでも同じように力強く、効き目がある。しかもその証拠に、デュラスは自分自身《うっとりさせられ》ながら、現在形と、《はっとさせる》という形容語句を使う。別の言い方をするならば、デュラスは神と一体をなしており、彼女はひとりで、自分自身の力で無から、虚無から抜け出す。母と父から生まれたのではない。彼女は書くことによって自分自身のデミウルゴス(造物主)であり、存在していく瞬間ごとにおのれを生み出し、組み立てるために、神が与えようとした素晴らしい道具なのである。時々彼女は神の臨在を、アルコールの酔いと混同してしまったけれども。
 したがってここで、意味の深い特別なこの節の中で、デュラスは自叙伝を超えて純然たるフィクションの中へ、小説、つまり真実の中へと読者を引き入れる。
 急いで読んだり、上の空で字を追っている読者には、気づかれずに見過ごされてしまう映像(イマージュ)についてのこの数行こそ、この本で一番美しいところだ。言い表せないほどの喜びにあふれたマルグリット・デュラスの姿を、明らかにしてくれる。私たちの見る彼女の顔はもはや《嵐が通り過ぎて荒廃》したり、《破壊》されたりはしていない。書くという創造の力は、その顔を輝かせ、《メコン河の一支流を横断しているあいだ》の渡し船の上の自分の姿を、彼女に見させることになる。《縁の平らな男物の帽子、幅ひろの黒いリボンのついた紫檀色のソフトをかぶった》姿で。
                          

   引用は『愛人』清水徹訳
        『異邦人』窪田啓作訳
      『ロル・V・シュタインの歓喜』平岡篤頼訳


【管理者の注】
 この翻訳は、『水路』5号(20061215日発行)に、原文A Propos de L'amant(de Marguerite DURAS)とともに掲載された。ここへの再録を快諾してくださった訳者の加藤多美子氏に感謝する。



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