2011/01/14

スワン夫人の午後のお茶 

                                             à Bretagne         photo by Masaki SURUGA




                                     エレーヌ・セシル・グルナック
                                     加 藤 多 美 子 訳
  
 マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』には、その深さと美しさのために忘れることのできない多くのぺージがある。読者たちは何度も読み返して、また感動する。それは、お茶に浸したマドレーヌ、さんざしの小道、ヴァントゥイユの小楽節といったあまりにも有名な箇所だけとはかぎらない。たとえば『見出された時』の中には、マルセルが幸運にも味わった超時間的経験についての洞察力と詩情に富んだみごとなページがある。超時間的経験をほんの二例、挙げておこう。ゲルマント大公邸の中庭で不揃いな敷石につまずいたおかげで甦ったヴェニスの思い出と、バルベックのグランドホテルでの糊のきいたタオルの印象。これらの経験はマルセルに、作家としての資質をようやく確信させてくれた。これからは書くことを通して《時を見出す》ことができるだろう。書く行為というこの大切な伴侶のために、残りの人生をささげたいと願うだろう。
 すぐれた多くのページがある反面、読者につらい欲求不満や不足感を残す箇所もまた見つけられる。語り手あるいは作者がもう少し想像力を働かせてそこを補おうとせず、足りない思いを生み出すようになってしまったことが、残念に思われる。あらゆることをあんなにも上手に描くことができ、その鋭い感受性は何ものも見落とさず、人間や物事を《X線撮影》したマルセル・プルーストなのだから。

 後者の場合を例証するために、ここでは『花咲く乙女たちのかげに』の第一部、《スワン夫人をめぐって》の中の一節(集英社文庫P.349-P.358)を選び出した。この一節は長さが不釣合いな二つの部分でできている。
 一つ目の部分はほんの数行でありごく短いので、ここに書き写しておこう。
《スワン夫人はずっと以前から、私が彼女の娘と仲違いするよりもはるかに前から、こう言っていた。「ジルベルトに会いに来てくださるのはとても嬉しいけれど、でもときにはこのわたしのためにも来ていただきたいわ。シューフルーリーの日(接客日)はお客があまりいっぱいでうんざりなさるでしょうから、別の日にいらっしゃいな。少しおそい時間ならいつも家におりますわ」。したがってスワン夫人に会いにゆく私は、かつて彼女の口から表現された願いに、ずいぶん後になってようやく従っているように見えただろう
主にオデットが若い語り手に言ったことが含まれている。読者に向けて豊かな内容を秘めており、実際は真の部分といってよいと思う。私の一文はとくにこの一つ目の部分を対象として書かれている。
 第二の部分は一節の残り全部を占めているのだが、そこで読者は語り手と共にオデットを訪問することになる。パラグラフの終わりのすこし前、もの悲しい気分でいたマルセルがオデットのサロンの菊の花々のおかげで《たちまち過ぎゆく十一月の快楽》を味わうという箇所で、ここでとりあげた第二の部分は終わる。

 第一の部分ですぐに気づくことだが、プルーストは、いわゆる主要人物であるオデットに多くの視線を集中させている。つまり、思春期の語り手の視線、大人になった語り手の視線――彼は昔の自分に話をさせているのだ――それに、これらすべてを総合して奏でる作者自身の視線である。これらの視線は皆、マルセルに娘のためだけではなく《わたしのために》来てほしいと言うオデットに向けられている。
この代名詞がゴシック体で書かれているのは、オデットがこう言ったときこの言葉が彼女にとって特別の意味を持っていたのだと、語り手や作者は言いたかったからだ。だが誰も、若いマルセルも大人のマルセルも作者もまた動こうとはしない。文脈によるとマルセルはジルベルトと同年代で十五歳くらいなのだが、その彼はオデットがずっと《以前から》会いに来てほしがっていたと書いている。つまりオデットにとってこんなに若い男の存在が大切だということになる。我々読者は彼女の固執やこの種の告白について、できることならもっとよく知りたかった。そこにはもっと興味ぶかい、もっと内奥のオデットの姿を知らせるめったにないチャンスがあったのだ。
不幸なことに、誰もオデットを励まして心を打ち明けさせようとはしない。若者に胸の内を語るほんのささいな機会も、オデットに与える必要はないと、大人の語り手も作者も判断している。人のうわさになるような高級娼婦そのものとしてしか、オデットを描こうとしていない。あとで述べるように、わざと彼らが沈黙したとしても、この黙殺は非常に残念だしオデットにとってほとんど侮辱的だと思われる。

語り手、作者は、彼女の魂を深く分析しようとしないで、読者にオデットを想像させられるのだろうか?
オデットはマルセルにうっとりとした崇拝のまなざしで見つめられて、生涯でたった一度のしあわせだったろう。彼は彼女に何も求めず、彼女もまた自分をはじめてこのように見てくれた人の来てくれることだけを望んでいたのだ。このまなざしは愛の手ほどきを受けたいという欲望でいっぱいだったが、同時に清らかでもあった。オデットにその視線を向けた男は人生についてはまだほとんど何も知らなかったから。まなざしの金色は時のけがれによってまだ曇らされてはいない。この視線こそがオデットを深く動かせるのではないだろうか? 
彼女は青年が娘よりも自分の方にもっと心を寄せていることに気づいている。愛にかかわることは何でも、なんと青年の心を動揺させ幻惑することだろう。二人の女――マルセル同様まだ子供で、彼を無駄に苦しめるジルベルトと、彼女の母親と――の間で、彼の初々しい感情はなんとあわてふためいていることだろう。母親は男について知り尽くし、恋愛経験もゆたかで、したたかに女らしさにものを言わせる術を心得ている! そこで、オデットがマルセルに彼女のために来てほしいと打ち明けたとき、我々は大いに期待していた。彼女が彼の前で自分をほんの少しでもさらけ出し、若いロメオがそれを理解し、ジルベルトや、もっと後で他の女たちをよりよく愛せるようになることを。
しかし望んでも無駄であった。語り手としてのプルーストはヒロインの心の奥底に分け入ることを、突然ぴたりとやめてしまう。なんという横暴!

『失われた時を求めて』のほとんど全編で、オデットは自分自身に向けた彼女のまなざしによってではなく、いつも外部から見られている。『スワンの恋』を通して、オデットを探り彼女が何者であるかを彼女以上に知っていると思うのは、スワンの嫉妬深い視線である。スワンはオデットを愛している。だがそれは病的なまでに独占欲の強い愛し方で、最初はオデットに《一種の肉体的嫌悪》を感じていたのに、彼女の中にボッティチェルリの描く女性を見出したからこそ、恋におちたのだった。つまりスワンはオデットを彼女そのものとしては愛していない。彼女は彼が自分をこの絵のモデルと比べることを嫌い、スワンはマルセルに、妻の前では決してこのことに触れないでほしい、と頼んでいる。
『花咲く乙女たちのかげに』の第一部は内容にふさわしく《スワン夫人をめぐって》と題されている。ここでは彼女の美しさ、誰もが認める優雅さ、彼女がヴェルデュラン夫人をお手本に開いたサロン――今やヴェルデュラン夫人はオデットの《接客日》のお茶にやってくるのだが――などについていろいろと語られる。しかし、オデットの心については、ひとことも述べられてはいない。
 オデットはいつも軽い女とみなされている。知性も教養もなく、その言葉づかいも品が悪く浅薄だとさえされている。彼女は男たちを利用するのがうまく、同巻の中で「私に惚れている男になら何をしたってかまわない、彼らは本当におめでたいのだから」と、あけすけに言ってしまう。スワンはオデットへの疑惑のかたまりとなって、彼女がシャルリュスと一緒にいるときだけ、ほっと一息つく。だがシャルリュスを信用していいのだろうか? スワンはまるでお人好しにみえるけれど、この気持はわかる。彼は《信頼できる》誰かに頼らねばならない。恋人のすべてを知るために彼はたえず探偵まがいの捜査をしており、そのため不安に駆られて苦しみ、くたくたに疲れるのだが、その不安からのがれて時々は休むために《忠実な》友をつくりあげる必要があったのだ。スワンの死後、オデットは彼がひどく嫉妬していたフォルシュヴィルと結婚し、やがてゲルマント公爵の愛人となり、公爵をもまた裏切ることになるだろう。しかし『見出された時』の中で、彼女は語り手にスワンをほんとうに愛していたと打ち明けている。マルセルは彼女の言うことをそのままは信じられない。そして…我々も同様だ。
 オデットに対する不利な証拠は決定的だ。根っからのグランドココットだとみとめよう。だが女性というものをよく知っているはずのスワンが、彼女と別れることはどうしてもできなかった。しかも彼女は《彼の好みのタイプの女》では全くなかったのに。スワンは彼女の顔に光を当て、美化して輝かせた。この光が《しばしば黄色っぽくやつれていて、ときには赤い斑点がぽつぽつと浮いている彼女の頬》を、彼にきれいだと思わせたのだった。たとえスワンがオデットを自分に特別に合わせて創り出したとしても、頭の中にあるものはすべてしつこい幻想の投影にすぎないとしても、オデットのおかげで、スワンは彼女を《創り出した》のだ。だからこそ、オデットはおどろくべき被造物だったと結論付けることができる。スワンは絵画についての研究書を書くのが夢だった。だが結局、彼女こそが彼が何年もかけて取り組んだ作品ではなかっただろうか?

 プルーストは、――彼によると、女というものは《逃げ去る存在》なのだから――どんな女も内側からは描かなかったと言われている。女に近づけるのは、主体としてではなく客体として見たときだけである。プルーストには二人だけ例外――祖母と特に母親――があった。他の女性たちへのこの種の差別は、いったいなぜなのだろう?
 人間は、男も女もそれ自体として《逃げ去る存在》ではないだろうか? 人が互いに出会うと、すぐにもう幻想が始まるのではないだろうか? たしかにそれ以外にはありえない。特に愛と呼ばれる事柄では。肉体と精神の完全な融和なるものは一瞬しか続かず、その百万分の一秒の間、カップルは時から抜け出している。いやむしろ一種の純粋時間を生きるのだ。やがて普通の時間がもどってくる。恋人たちはもう二度と同じ言葉は話さない。生のリズムはたえず変わり大きく揺れ動いているので、お互いに交わしたまなざしは、生活の流れに浸食され、すでにゆがめられ、形を変えてしまった。あの例外的な和合は閃光のように儚いのだから、愛と呼ぶことはできない。もしくは、それはこの言葉の全的な意味で、絶対的な愛なのだ。だが少しでも持続させたいと望むと、その愛はただちに死んでしまう。
 絶対的愛を無傷のままに見出す唯一の方法、それはまさに《時を見出す》経験をすることである。語り手がプティト・マドレーヌで、バルベックの糊のきいたタオルで、ヴェニスに彼を《連れ戻して》くれた不揃いな敷石たちで、《時を見出した》ように。この《見出された時》をどうしても確保しようと思うなら、それを具体化し、形の中に定着させねばならない。そこで《見出された時》は思い出という姿をとり、優しい気持、愛着、なじみといった感情をたえず糧とするのだが、その感情はそれ自体は美しくても、我々が《幸福》になるためにはどうしても不十分なのである。永く続く恍惚状態などありえないことはよくわかっているので、我々は不十分ながらこれらの感情で生きていくのに甘んじている。不思議な神聖ともいえるあの火が消えてしまうと、我々の心に巣食う耐えがたい空虚さを、ああいった感情で埋め合わせることはむずかしいのだ。そのうえ、これらの感情は生まれるとすぐに〈時〉の錆におかされ、否応なく、意に染まない、思いもかけなかったものに変化していく。我々は自らを不完全で不幸だと感じはじめ、その魂は崩れて、嫉妬、所有欲、短気の権化となってしまう。互いを知ること、〈他者〉を縛ることの不可能性について我々が述べてきたことを、語り手、作者は、百も承知している。人間は生き物なのだから、とらえることができない。水銀のように指の間からたえずこぼれ落ちてしまう。
 
ところで、プルーストはなぜ語らせようとしなかったのだろう、オデット、アルベルチーヌあるいはまたオリアーヌに…?  彼女たちがいくら謎めいているといっても、また信頼するに値しないとはいっても、どうして彼女たちの心の奥底におりていかないのか? なぜマルセルは心を通わせるという恩恵を、同じ血筋の誕生以来ともに暮らしてきた女たちにしか与えないのだろう? すべては主観の問題であり、頭の中で起こっているだけだということを、彼は実にみごとに明らかにしたのだが、その彼が、彼女たちのことを知っていると本当に思っているのだろうか? マルセルが母親や祖母について熱をこめて語るのは、単に彼女たちの存在にすっかり慣れきっており、彼女たちを通して息をしているからではなかろうか? 母と祖母は彼の足元にひかえ、彼を幸福にするためにあらゆる犠牲をいとわない。マルセルは二人を思いのままにする。一見やさしそうにはみえても、それは絶対的な専制支配なのだ。彼女たちの前では自らを問い直す必要も、二人を疑うこともない。マルセルは病弱で心がひどく傷つきやすいので、保護すべき、まごうことなき息子であり、孫である。彼はしっかりと閉じられた円の中、ごくあたたかい繭の内で暮しており、そこを離れるなんてとんでもない。自立するために戦わなければならない外界は、彼にしり込みさせる。外の世界の女たちをなによりも彼は恐れている。なぜなら、彼は彼女たちに向かって進み、恋や優しい気持で包まねばならないのだから。今までは、母と祖母は彼の望みはすべてかなえ、彼のためなら何でもしてくれた。外の世界の動きは逆の方向だったのだ。
この二人以外の女について語ること、それはほとんど全く知らない生物に立ち向かうことである。そうすれば素晴らしい体験、別種の愛への未曾有の飛躍となっただろうに、語り手にとってはつらい試練であり、それを願うのは求めすぎというものだ。前稿ですでに強調したように(『ママからのキスとマルセルと』参照)、マルセルは愛することよりまず愛されることを好む。与えるよりも極端に所有しようとする。彼は自分を生んだ女には限りない尊敬の念をいだいていた。神の意志の名において彼女から生を受けたのだから。他の女たちを理解しようとこころみても、彼にはエネルギーが足りなくてできなかっただろう。そこには他の女たちへの共感に対する本質的な欠落が感じられる。感受性が鋭く、女性的で、繊細なマルセルは、その特質を一人の女に向けたなら真に男としての美点となっただろうに、まるで自分のためにだけ出し惜しみしたがったかにみえる。これらの特質のおかげで、女たちの世界に入り込み、その世界を発見して、交際で豊かになることもできたのに、かえって彼の心を麻痺させてしまったようだ。マルセルの本質的な性格は非常に女性的であり、自分が男らしさに欠けていると感じていたので、鋭い感受性や繊細さは彼を恥じ入らせ、むしろ困らせているみたいだ。そこで、恋人になるかもしれない女に出会ったとき、彼は怖くなって戦う力も奪われ、彼女のことなどどうでもよく、退屈にさえ感じてしまうことも、もっともだと思われる。また、その反対も考えられる。つまり女のもつ女性らしさはマルセルの女性らしさとは根本的に違っているので、彼をたじろがせてしまうのだろう。

ホモセクシュアルではない語り手のうしろに、ホモである作者の姿が透けて見えると言う人もいるだろう。だから女たちを《内側から》見ることができないというのだ。この説はもっともだが、十分説得力があるとは思えない。大女流作家、マルグリット・ユルスナールを例にとってみよう。彼女もまたプルーストと同様、彼の表現を使えば《性的倒錯者》である。しかしユルスナールは男たち、つまりハドリアヌス帝『ハドリアヌス帝の回想』参照)や、『とどめの一撃』の主人公エリックや、『アレクシス』の同名の主人公たちの同性愛を、みごとに深く描いた。エリックはソフィーの弟を愛しているので彼女の愛に応えることができないし、アレクシスは、男性の《美しさ》に衝撃を受けて以来自分は女を愛せないことを知ってしまったと、妻に打ち明ける。またマルグリット・デュラスを挙げることもできる。彼女はホモセクシュアルではないが、女を必死に愛そうとしてもうまくいかない男の癒しがたい苦しみを申し分なく表現した。その男はこの《死の病》に冒されており、世界の後の半分、つまり永遠に女性的な世界と合体することが決してできない。(『死の病』参照)
 プルーストが、シャルリュス男爵あるいはロベール・ド・サン=ルーのソドムの愛について、より自由な気持で語っているとすれば、その反対に、アルベルチーヌやその仲間、つまりバルベックの堤防の道でマルセルがはじめて出会った娘たちのような、レスビアンのヒロインたちの同性愛に言及するときの、作者の口のかたさにはがっかりさせられる。なぜ彼女たちの同性愛についてもっとよく知らせようとしなかったのだろう。パリでアルベルチーヌと住み、彼女の不品行に気づきはじめたとき、マルセルは自分の病的な嫉妬心、つまり常軌を逸した独占欲を通してしか彼女について語らない。プルーストは、マルセルとアルベルチーヌの間だけでなく、彼女とその友人たちの間でも真の対話を全くさせていない。我々の知っている唯一の中身のある会話は、ヴァントゥイユ嬢と――彼女もレスビアンだ――その女友達の間で交わされるものである。(『スワン家のほうへ』参照) アルベルチーヌについては彼女自身の口からは何も知らされない。彼女はいつもマルセルによって見られている。女たちの間のこの種の関係を描くには、彼は想像力にも人間味のある熱情にも乏しかったことを認めざるをえない。彼にとって異性間の愛よりはよく理解できたはずなのだが。普通のカップルを蝕むような力関係はそこにはないのだから、男の同性愛者たちは、女たちを、他の男たちよりもずっとよく理解するというではないか?
そこで、語り手に話を戻しても、読者の印象は容易には変わらない。結局マルセルとその背後にいるマルセル・プルーストには、女性に近づき彼女たちを無条件に信頼させる知的、心情的寛大さがどこか欠けている。それは語り手と作者が、彼らの全存在にへばりついている無気力、しっかりと根付いてしまった怠け心、生来の心の畸形といったものに冒されているからだ。無気力と怠け心は女性に向かう胸躍る気持を断ち切り、心の畸形のせいで彼らは自分自身の外へ出ていくことができない。しかしこの病がどこから来るのか、多分気づいていないのだから、二人ともどうしようもない。それはおそらく明晰さのせいなのだ。つまり他者との関係、特に愛において、人間にはどうしても限界があるのだと彼らが確信してしまっているからなのだ。この病に罹り、心の限界という真実を理解し、二人にたいそう利己的に見えるふるまいを強いるのは、明晰さという、彼らの存在の奥底に潜んでいる最も深い本能である。

 結局、語り手や作者が我慢できる唯一の女性的存在は、母親しかいないということなのだろうか? 母以外の女たちは彼を意気阻喪させてしまう。彼女たちを、特にオデットのような女をどのように扱っていいのかわからない。オデットは多くの男たちに身をまかせながら、自分の本質的な女らしさをうまく受け入れ、生来の才能をごく自然に利用するすべを知っており、男たちに対しても貪欲である。したがって彼女はまた、その心の輪郭を最も想像しにくい女でもある。彼女は《堅気の女》が社交界のために着物を着るとき、《一人の男のために着物を脱ぐ》のだから。かわいそうなオデット! マルグリット・デュラスの(ふたたび彼女を取り上げよう)ほとんど全作品には、身をさいなむ絶対的な愛、物議をかもすような愛が息づいている。もしオデットがデュラスのような作家に出会っていたなら、疑いの余地無く罪を赦され、《彼女を欲しがった男には身をゆだねた》アンヌ=マリー・ストレッテルと少なくとも同等の素晴らしいヒロインとして描かれたことだろうに。(『インディアソング』参照)

 プルーストがオデットに心を語らせたくないとしても、なぜ若い語り手、十五歳のマルセルにそうさせないのだろう。(数年前、幼い彼はアドルフ大叔父の家で出会った《ばら色の婦人》、すなわちオデットに夢中になっている。)愛とは何よりもまず頭の中の産物であり、たいせつに育てていくのは不可能だということがまだ理解できないマルセルにとっては、すべてが可能だ。 彼にとって、特にジルベルトと仲たがいをしているときに、毎日スワン家を訪ねることは大きな喜びである。大きなアパルトマンに入るとすぐ、女主人の香りがマルセルを酔わせ、思春期の彼の心は愛の神秘に目覚めたいと願う。オデットは何でも知っている偉大なる女祭司であり、彼にとっては分け入りたいと切望している広大な処女地なのだ。彼は彼女に何を見いだすのだろう? 
作者がホモセクシュアルだということを考えるならば、マルセルはオデットの中に一人の男を見るのだろうか? それもありうるだろう。しかし語り手は倒錯者ではないのだから、彼にとってのオデットは、いつの日か腕に抱きしめたいと夢見ている恋人の原型だと考えられるのではないだろうか?
 そこでこの若者のとる道には二つの可能性が考えられる。一つはオデットを一種の母親のようなものとして、だが母の愛から解放して他の女への愛に目覚めさせてくれる、性的魅力を持った女として見ることである。というのは彼の母もまた、マルセルの父を愛し彼を恋したのだから。母も父にとっては情熱的な恋人たりえたのだ。もう一つの起こりそうなことは、マルセルには自分に生を与えた女と《別れ》られないということだ。やがて彼は母のせいでオデットへの激しい欲望をしまい込んでしまうだろう。なぜなら彼は母のために、女の方、おまけに評判の悪い女の方を向くべきではないと信じ込んでいたし、母しか愛せず愛してはならないと考えていたからだ。
 ここでもまたプルーストは若い語り手に臆病で用心深い沈黙を強いている。さもなければ、オデットの若い恋人の、常軌を逸してはいるが心を打つ夢想について、語り手は激しくもみごとに書くことができただろうし、まさに実現できないがために素晴らしいことについて語るチャンスだったのに。そしてまた、母に抱く宿命的なこの愛に反抗したいというような恐ろしい気持も、ひょっとしたら語られたかもしれない。死に際してプルーストは七十五冊の下書のための手帳をのこしたのだが、その内の約三十冊を燃やすようにと家政婦のセレスト・アルバレに頼んであった。したがって、炎の中で燃えてしまった手帳にはマルセルの魂の最も矛盾に満ちた、最も苦しんだ、最も暗い面、何か想像を絶するような彼の欲望が含まれていたとも考えられる。
要するに若いマルセルは、ジルベルトの母親に夢中で恋している自分の心を、打ち明けることができなかった。そのかわりに、まるで何事もなかったかのように、全く表敬的にスワン夫人を訪問しつづけるだろう。彼女の前に出るたびに、彼女への《愛》はエロチシズムと欲望の美しい柱となってそそり立つ。しかしプルーストがこう決心したために、この柱は激しくはあっても静的であり生きているようにはみえない。マルセルとオデットの間で燃え続けるが、二人に触れてその身を焦がすことは決して無いだろう。

 マルセルが《スワン夫人を訪問する》ために両親のもとを離れた箇所から、彼女が愛人たちを迎えるアパルトマンについての描写が長々と続くのだが、それを描くのが若い十五歳のマルセルだとはとても思えない。我々を彼女の《冬の室内花壇》のすみずみまで案内して、語り手は今や大人のように話している。洗練された奥まった親密な雰囲気の、《ぬくぬくとキルティングがほどこされた》サロンで、パルマすみれが浮かべられた美しい鉢に囲まれて、女主人は優雅に着こなしている。我々にその場の彼女を想像させはするのだけれど、結局語り手は女を主体としてではなく、客体として描こうと決めたのだと思わざるをえない。そしてみごとに描写的なこれらの頁はわれわれの欲求不満をつのらせるばかりだ。マルセルを恨むわけではないけれど…
               

  終


  引用部分は鈴木道彦訳より)
                    
                

               2005年11月

        

               
【管理者の注】
Un thé chez Madame SWANNの翻訳。『水路』3号(2005年12月1日発行、大林律子編集代表)所収。ここへの再録を快諾してくださった訳者の加藤多美子氏に感謝する。
 

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