2011/01/05

エレーヌ・セシル・グルナック小伝 Vie d'Hélène Cécile GRNAC

 
                                                                         photo by Yoshimi OHO




  駿 河   昌 樹
  (Masaki SURUGA)


 1941年11月22日、フランスのラングドック-ルシヨンLangudoc-Roussillon地方、ロゼールLosère県サン=シェリー・ダプシェSaint-Chély-d'Apcher生。(しかし、本人はいつも、自分はオーヴェルニュAuvergne地方の生まれだと言っていた。)
 父母、兄二人、姉二人、エレーヌ、妹二人という9人家族。もうひとり妹が生まれたが、生後すぐに亡くなった。
 父ステファン・グルナッチStefan GRNACはチェコスロバキア出身、母エルジビェタ・ステンビィェンElżbieta Stępieńはポーランド出身で、結婚後にフランスへの移住が決められた。このおかげで、家族は第二次大戦のナチスドイツによる戦禍を逃れ得ることになった。父Stefanはチェコスロバキア共和国Československá republikaの軍隊の騎馬隊所属だったが、サン=シェリー・ダプシェに来てのちは工場技師となった。

生地サン=シェリー・ダプシェの雰囲気を伝える絵葉書
生地サン=シェリー・ダプシェの雰囲気を伝える絵葉書。
ロゼールの紋章もみえる。
 幼少期の家庭での言語はポーランド語かチェコ語が中心だった。特に、母がフランス語の習得に積極的でなかったため、母娘のコミュニケーションはポーランド語でなされた。

 大戦後、一時、グルナック家のカナダへの移住が検討されたこともある。

 高校時代はマンドMendeの寄宿寮で過ごす。

 パリに出た後は、サン=ミシェル広場Place Saint-Michelの真近に住んだこともあったが、やがてサン=ジェルマン・デ・プレSaint-Germain-des-Prés に近いドラゴン通りRue du Dragonのラマーズ博士宅に落ち着き(住所は21,Rue du Dragon,75,Paris )、東洋語学校に通ってロシア語・ロシア文学を学んだ。ミハイル・ユーリエヴィチ・レールモントフМихаи́л Ю́рьевич Ле́рмонтов研究で修士号取得。
 ドラゴン通りは1822年にヴィクトル・ユゴーVictor Hugoが6か月ほど住んだことのある通りだが、グルナックが住むことになった頃には、ロシア文学者のアンドレ・メニユAndré MEYNIEUX宅があった(42,Rue du Dragon、3階)。
 アンドレ・メニユはプーシキンを専門とし、その全集を編んだ人物で、作家・詩人でもあった。1953年刊の彼のプーシキン全集は、たとえば、作家アンリ・トロワイヤHenri Troyatに「敬意と感動を抱きながら、私はこの素晴らしい巻のページをめくる。なんと驚くべき仕事の量であろうか!」と感嘆され、ロシア文学者ピエール・パスカルPierre Pascalに「完璧なプレゼンテーション、忠実で親しみやすい翻訳、控えめだが正確な註、該博な専門知識と審美眼によって、おのおのの翻訳作品に導いてくれる解説」と称賛された仕事ぶりだった。2004年、文学研究雑誌《カイエ・ロベール・マルジュリCahiers Robert Margerit》は、付録号SupplémentのNuméroⅠでアンドレ・メニユ特集を組み、「《ロシア人》というべきメニユのおかげで、プーシキンは《フランス人》として、作品全集の大きな扉をくぐったのだ」とのオマージュを捧げた。
 その夫人のイレーヌ・メニユIrène MEYNIEUXは、学生時代にキュリー夫人ことマリー・キュリーMarie Curieに教わった経験のある理科教員だったが、夫の仕事を手伝うためにロシア語を東洋語学校で学んでいた。グルナックよりもはるかに年上だったが、同級生としてつき合うようになり、やがて、終生の交友関係を持つようになる。

サン=ジェルマン・デ・プレ裏で イレーヌ・メニユと

 グルナックがたびたび出入りしていた頃のメニユ宅には、フランスのロシア文学者たちがよく集まって歓談していた。現在もフランスで読み継がれているドストエフスキーのフランス語訳などの訳者、先出のピエール・パスカルPierre Pascalやボリス・ドゥ・シュルゼールBoris de Schloezerなども出入りしていた。
 また、メニユ宅には、この頃より20世紀末まで、かつての著名な文化人らの友人たちも出入りしていた。中でも、マレ地区在住のリュース・オクタンLuce Hoctinという論争好きの女性は、かつて美術関係の批評を書いていたこともあって、多くの作家や詩人、芸術家たちが友人だと自称し、アンドレ・ブルトンの愛人だったとさえ言っていた(リュースは当時、106、Rue Vieille du Temple 75003 Parisに住んでいた)。誰もが訝しんでいたが、ある時ひょいと、グルナックを有名な作家アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグAndré Pieyre de Mandiarguesの家に連れて行った。マンディアルグにいかにも気安く「アンドレ」と話す様子から、他の文化人たちとの交流も嘘ではないのがわかった。 (ちなみに、その日のマンディアルグはご機嫌で、仕事机の前に貼った三島由紀夫の薔薇をくわえた写真をグルナックに見せたり、ジョルジュ・バタイユから特別にもらった稀覯本を出してきて長々と説明をしてくれたりした。)


日本語を学び始めた頃

日本語を学び始めた頃
 レールモントフ研究で修士号を取ったグルナックは、ソビエトやアメリカ、ドイツなどへの留学や世界各国への旅の後、東洋語学校で日本語・日本文学を学び始める。
 この頃は図書館員をしながら細々と生計を立てており、将来もその方向で生きていく考えを持っていたが、東洋語学校教授ジャン=ジャック・オリガスの強い推薦で、東京への留学を決めた。日本語に堪能でもなく、神秘主義などのほうに力を取られて日本文学研究にも今ひとつ熱心になれないでいたグルナックに、「あなたはとにかく、日本に行って住むべきだ」と、ほとんど命令するようにオレガスは言ったという。

日本留学直前の証明書写真

 来日したグルナックは、駒場の留学生会館に住みながら、早稲田大学で日本語を学ぶことから始めた。
 来日目的は、建前上は二葉亭四迷研究だったが、日本の風土や風物、生活そのものに惹かれ、広い意味での日本体験がここに開始されることになる。前世でよく知っていた馴染みの日本の風土に戻ってきた気がする、と感じていた。
 留学期間が過ぎた際、帰国か、日本滞在の継続か、中国に移るか、などについて悩むが、けっきょく日本滞在を選び、池ノ上(世田谷区北沢1-12-4)に引っ越した。この頃から、和光大学や立教大学でも教え始めたので、贅沢はできないながら、経済的にも日本滞在の延長が可能になっていた。
 池ノ上の住居は、二階建て、庭付きの一軒家で、現在も多少改装されたかたちで現存する。他のふたりのフランス女性ととも三人で共有するかたちで借りた。やがて他のふたりは去り、グルナックひとりで2階部分の広い二間に住むことになる。1階部分には一時期女性二名が住んだが、1980年代半ば頃から、沖縄出身の平良母娘が住んだ。娘もすでに初老だったが、新宿で沖縄料理店を営んできた人物で、作家・火野葦平と親しかったため、遺品を所蔵していた。店の常連に早稲田大学の教授たちが多く、アンドレ・ジイド研究の新庄嘉章などには贔屓にされたという。グルナックは平良母娘と、行き来の多い円満良好な隣人関係を維持した。


池ノ上(世田谷区北沢1-12-4)の家(部分 1980年代)

池ノ上の家の窓から。
雨戸も使いづらく、隙間風が方々から入る家で、冬は寒かった。

池ノ上の家の入口の前で。
住んでいた2階へは勝手口から入るようになっていた。

池ノ上の家の勉強机で。
壁には五島美術館の大きな源氏物語絵巻のポスター、
机の奥には好きだったフィリップ・モーリッツPhilippe Mohlitzの版画が立てかけてある。
モーリッツがまだ有名でない頃に気に入ってパリの画廊で購入した本物。
                 
池ノ上の家 調べものの最中

池ノ上の家 小さなキッチンの前で電話。
キッチンには給湯器もなく、マッチで点火する古い円型のガスコンロをふたつ使っていた。
引っ越した後も、それを2009年まで使い続け、ガスの点検に来る東京ガスの職員に驚かれた。

 借りていた家が建て直しされることになったため(現実には建て直しは行われず、家を細分化して4つのアパートに分割する改装が行われたにすぎない)、1990年2月21日に世田谷区の代田1丁目7番地14花見堂ホーム101に転居した。以後、2010年10月31日に亡くなるまで、ここに住み続けることになる。
 最寄駅は小田急線の世田谷代田駅、あるいは下北沢駅。グルナックは馴染みの下北沢駅を利用し、片道15分から20分の道のりを毎日通うのが常となった。これが2009年の発病まで続くことになる。2000年代になって、田園都市線の三軒茶屋駅への20分ほどの経路や、若林折返所からの渋谷行バスも利用するようにはなったが、可能な場合には長く歩いて駅まで通うのを好んだ。
 代田1丁目の家は、大地主の豪邸の庭の木々が生い茂る一角の静かな環境にあり、グルナックの好みに合っていた。引っ越し当日から、隣家の外猫ミミがグルナックの家に入り込んで暮らすようになった。のちに隣家の住人が引っ越す際、改めてミミをグルナックに委ねることになる。以後、2005年に死ぬまで、この雌猫はグルナックの最愛のペットとなった。

愛猫ミミと代田の家の庭(部分)

愛猫ミミ
 下北沢、代沢十字路付近、三軒茶屋、梅ヶ丘、豪徳寺などが、終生、日々の買い物や散策の中心地であり続けた。大変な映画好きだったため、東京中の映画館に出没したが、下北沢駅前にTSUTAYAがあった時代にはその店に、また、駅近くのDORAMAなどにも入り浸ってビデオやDVDを漁る姿が見られた。美容室は下北沢の「ガッツ美容室」にのみ30年間通い続け、近くの定食屋「千草」や、自然食レストラン「ありしあ」を好んだ。
 自宅から近かった梅ヶ丘通りのスーパー「信濃屋」は、お気に入りの店だった。
 三軒茶屋の衣料品店「三恵」の雰囲気も好んだ。三軒茶屋の西友が2009年に改装される前は、1Fの休憩所で缶コーヒーを飲みながら本を読むのを好んだ。
 また、どこの場所にあっても、カフェ「ドトール」の気楽な雰囲気を好んだ。大戸屋も好きだった。

 ヴァカンスでの帰国などの際、パリの書店のラ・ユンヌLa Hune、ラ・プロキュールLa Procure、フナックFnac、シャンゼリゼのヴァージンVirgin megastore、 サン=ミシェル広場のジベール・ジュンヌGibert Jeuneなどがグルナックにとって重要だったように、フランス語や英語の書籍を置いている都内の書店も重要な場所だった。
 頻繁に出かけた書店としては、新宿通りの紀伊国屋書店、新宿南口の高島屋・東急ハンズ側の紀伊国屋書店、新宿西口のフランス図書、渋谷・大盛堂書店にかつてあった洋書フロア、同じく渋谷のタワー・レコーズの書籍フロア、飯田橋の欧明社、日本橋の丸善、東京駅オワゾの丸善などがあった。一時期は、恵比寿の英語古書店グッド・デイ・ブックスにも足繁く出入りした。
 とりわけ、新宿の紀伊国屋書店やフランス図書などは、人生のうちのかなり多くの時間が費やされた場所といえる。仕事帰りの夕方の時間、フランス図書では、奥のソファに座って目録を調べたり本を吟味しているグルナックの姿がよく見られた。新宿南口の紀伊国屋書店洋書フロアでは、疲れて床に座り込んで本を見ている姿も毎週のように見られることがあった。
 和光大学や立教大学で始められた教歴は広がり続け、東京水産大学、上智大学、SFC慶応大学藤沢キャンパス、東京大学(駒場)などで30年以上にわたりフランス語を教え続けることになった。大学以外にも、外務省、朝日新聞、その他複数の商社などでもフランス語を教え続けた。
 特筆すべきは、朝日カルチャーセンター(横浜および新宿)での教歴であろう。ジャーナリストであった友人のエレーヌ・コルヌヴァンHélène Cornevin(フランス人向けの日本のガイドブックの著者で、ジョルジュ・ビゴーの展覧会開催にも努力した)から譲られたポストだったが、ここでの仕事が、フランス文学と深く付き合い直す機会をグルナックに与え続けることになる。
 フランス語を教える他、マルセル・プルースト、マルグリット・デュラス、フランソワーズ・サガン、アルベール・カミュなどについての講読が行なわれたが、とりわけ、優れた学生たちに恵まれてのプルースト『失われた時を求めて』の、じっくりと時間をかけながらの講読は20年以上におよび、横浜朝日カルチャーセンターの名物授業となった。

 藤沢・長福寺(曹洞宗)でヨガも指導した。
 ごく若い頃より自己流でヨガを続けてきたが、機会のあるたび、いろいろなヨガ道場にも学んだ。ヨガに関する書籍は、英語、フランス語、日本語のものならば、手に入るかぎりのものを買い集め、参考にしていた。毎日、早朝にひとりでヨガを行うのを習慣としていたが、レパートリーを広げるために午後や夜に練習を加えることもあった。それは、心身の合一という理念に立った上での、身体のための一般的なヨガだったが、1980年代に強烈な印象と影響を受けたパラマハンサ・ヨーガナンダParamhansa Yoganandaのクリヤ・ヨガを忘れているわけではなかった。ヨーガナンダやその師のスリ・ユクテスワSri Yukteswar の著作を通じて、彼らや、ヒマラヤの至高の聖者といわれるババジBabajiなどへの関心は維持されていた。

 文学作品の好みは、講義や講読で扱った上記のフランス文学のほか、多様な小説作品、詩歌、演劇に及んでいた。ラファイエット夫人、スタンダール、ネルヴァル、ブルトン、ルネ・ドマール、コクトー、サン=ジョン・ペルス、サルトル、ユルスナール、グラック、ペレック、トゥルニエ、エシュノーズ、トゥーサンなどはつねに手近にあり、また、英米文学のエミリー・ブロンテ、フィッツジェラルドなどは深い偏愛の対象として原文で読み込まれ、フォースターやナボコフ、ケルアックなどのビートジェネレーションの作家たち、ホモセクシュアルの作家たちも好んだ。ロシア文学では、殊に好んだパステルナークやソルジェニーツィンの原文を手放さなかった。ラテンアメリカ文学では、もちろんマルケスやボルヘス、オクタビオ・パスを好んだが、ファン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』は至上の作品として特にお気に入りだった。怪異な話を描く小説家としてのエリアーデも楽しんだ。
 日本文学では夏目漱石を好み、主要作品については詳細に辞書を引いて原文で読んだ。短編や中編では、森鴎外のものが好きだったが、志賀直哉の『城の崎にて』をいちばんのお気に入りとしていた。永井荷風、開高健、中上健次などにも関心を持った。デュラスやユルスナールとの比較の上で円地文子にも興味があったが、これについてはしっかりと読む時間はなかった。
 日本の詩歌には小説ほどは親しんだとはいえないが、吉増剛造の『オシリス、石ノ神』のフランス語訳が出た年は、ポワチエの書店で買ったこの詩集を携えて、夏のフランスの諸地方の旅に出た。前後して、日本で吉増剛造の朗読会に何度か赴き、友人の紹介で、吉増剛造氏本人と夫人のマリリア氏に会った。エレーヌ・グルナックの2010年の死の知らせに、吉増氏は「悼む、エレーヌさん…」と友人に書き送った。
 若い頃にフランスの詩人サン=ジョン・ペルスSaint-John Perse を特に好み、シュールレアリストたちやビートジェネレーションの詩人たちを好んでいたので、グルナックにとって吉増剛造の詩は、日本語でつぶさに追うのは容易ではなかったとはいえ、親しめるものではあった。ちなみに、フランスの詩としては、アルチュール・ランボーArthur Rimbaudの詩集や研究書を多く保持していた。ボードレール、ヴェルレーヌ、ネルヴァルなどにも接することが多かった。
 2009年5月以降の闘病中は、フランス詩の小さなアンソロジー(Petite anthologie de la poésie française par Jean-Joseph Julaud, FIRST Editions 2006)を手元に置いていた。
 なお、英語の詩では、エミリー・ブロンテ、ポー、エミリー・ディッキンスン、シルビア・プラス、ディラン・トマスなどが手近にあった。

 音楽はクラシックを好み、パリにいた若い頃には、ホールや教会の演奏会によく出かけた。日本に来てからは、ヨーロッパに比べて演奏会の入場料が高いことに不満を持っていた。
 バロック音楽や中世音楽を好んだので、駒場留学生会館時代から池ノ上時代にかけて、皆川達夫氏のNHK-FM「バロック音楽のたのしみ」やラジオ第一の「音楽の泉」などからカセットに多量の録音をし、くりかえし聴いていた。立教大学で教え始めていたので、同僚として皆川氏と面識もあった。
 晩年はあまり音楽に執着しなくなったが、バッハ『ヨハネ受難曲』、ハイドン『十字架上のキリストの最後の言葉』、モーツァルト『フリーメーソンのための葬送音楽』などへの偏愛は続いた。
 一方、ジャズ(特にシドニー・ベシェット、デューク・エリントン)やアメリカの戦後のポップス(50~60年代ポップス)、映画音楽、日本の雅楽、琴などの音楽も好んだ。アメリカン・ポップスがBGMで流れているという理由から、《ミスタードーナッツ》に入ることにしていた時期もある。
 映画音楽の場合、とりわけ大作の恋愛映画や冒険映画の音楽がお気に入りで、ロードショーに出かけると決まってCDを買い、くりかえし聴いていた。古くは『ドクトル・ジバゴ』、『追憶』などから、『愛と哀しみの果て』、『華麗なるギャツビー』、『タイタニック』、『イングリッシュ・ペイシェント』、『ロメオとジュリエット』、『プリティー・ウーマン』、『フラッシュダンス』、『愛人 ラマン』、『ベティー・ブルー』、『嵐が丘』、『マディソン群の橋』、『ダメージ』、『ロリータ』、『アラビアのロレンス』、『インドへの道』… これらについてはCDばかりでなく、くりかえしビデオやDVDを借りて見直すことがあった。
 ちなみに、俳優としては、ジェラール・フィリップ、アラン・ドロン、ロバート・レッドフォード、ジェームズ・ディーン、ヘルムート・バーガー、クリント・イーストウッド、レオナルド・ディカプリオ、ブラッド・ピット、日本では森雅之などを好んだ。 

 すでに記したように、映画については様々なものを好んでいたので、作品名を挙げていってもあまり意味はない。ヴィスコンティ『熊座の淡き星影』『ルードヴィッヒ』、ピーター・ウィアー『ピクニックatハンギング・ロック』、マルグリット・デュラス『インディア・ソング』、ウィリアム・ディターレ『ジェニーの肖像』、タルコフスキー『鏡』、ジャン=リュック・ゴダール『軽蔑』、ジェームズ・キャメロン『アビス』、ダニエル・ペトリー『レザレクション』などは、エレーヌ・セシル・グルナックが自分にとって極めて重要なものと見なして、原作やシナリオの読書もあわせ、おそらく数十回以上にわたり見直しされた映画だが、これら以外にも、感傷的な商業映画から実験映画に至る多様なジャンルを見続けた。ビデオが普及しない頃は東京中の名画座の出し物を毎週把握していて、たとえば、三百人劇場で大島渚の全作品上映につき合う、というようなことをたびたびやっていた。
 山田洋次の『フーテンの寅さん』シリーズの渥美清も好んでいた。日本的というより、世界中で通用し理解されるキャラクターとして「寅さん」を見ていた。学習に最良のしっかりした日本語が学べる映画として、寅さんシリーズもよく見ていた。 
 なお、若い頃に買い溜めた多量のフランスの映画シナリオ雑誌《アヴァン・セーヌAvant-Scène》や《Cahier du cinémaカイエ・デュ・シネマ》を、終生手放さなかった。

柴又駅前 好きだった寅さんの像と

 テレビについては、ほとんど嫌っていた、といってよい。日本の地上波テレビのレベルが低すぎると考えていた。BSや衛星放送も見ようとしなかったが、地上波と同じレベルと思い込んでいたふしがある。テレビを見るよりは、映画のビデオやDVDを見ることに時間を使いたがってもいた。
 しかし、ふたつ例外があり、かつて放映されていた『大草原の小さな家』と『まんが日本昔ばなし』はお気に入りだった。前者の中に展開される自然には、故郷フランス・ロゼールの自然を重ねて見、また、自分が得られなかったよき家族の幻想をも望見しようとしていた。後者を見る時には、ノートを片手に、日本語の勉強のためのメモを熱心にとった。日本の昔ばなしに出てくる純朴な人物たちや動物たちを面白がり、毎回放映される物語のレジュメをとり続けた。

 生まれながらの神秘主義者で、シャーマニスム、秘教、オカルティズム、素粒子物理学などに格別の興味を持ち続け、占いなどの実践家でもあった。ことに、振り子占いradiosthésieや多様なカード占いにおいては百発百中に近い的中率を誇り、許されたわずかの友人たちのみが密かにその力の恩恵に浴し、人生上の助言を仰ぎ続けた。地震にも極度に敏感で、ほとんどを予知していた。
 神秘主義的文献についてはあらゆるものを渉猟したが、なかでも、マイスター・エックハルトMaître Eckhart、龍樹Nagarjuna、道元Dogen、クリシュナムルティKrishnamurti、ラマナ・マハリシRamana Maharshi、シュリ・オロビンドSri Aurobindo、メールMère、サトプレムSatprem、アレクサンドラ・ダヴィッド・ニールAlexandra David-Neel、ルネ・ゲノンRené Guénon、オショーOsho(ラジニーシRajneesh)、グルジェフGurdjieff、カルロス・カスタネダCarlos Castaneda、ジェーン・ロバーツJane Roberts、ルス・モンゴメリーRuth Montgomery、リン・アンドリュースLynn V.Andrews、トム・ブラウンTom Brown、ロバート・V・パーシグRobert M.Pirsig 、ジャン=イヴ・ルルJean-Yves Leloup、フランソワ・ジュリアンFrançois Jullienなどを特に好み、再三の読み込みをしていた(最後の4人は神秘主義者というわけではない)。

 花はあらゆるものを好んだが、濃いめのピンクのバラへの愛情は格別だった。日本の春を彩る梅や桜などももちろん好んだが、日本の風物では、ほかに、梅雨、紫陽花、豆腐、納豆、風鈴などを好んだ。梅雨になると心が落ち着くという口癖は、ときに、日本の友人たちの首を捻らせるほどだった。
 寺院や神社、仏像なども好み、とりわけ、飛鳥寺の飛鳥大仏、新薬師寺の薬師如来が最高のお気入りだった。

 隣家からやってきて居着いた愛猫ミミの世話をするうち、猫への愛情に開眼。代田周辺の野良猫たちをひろく愛した。猫たちへの餌やりを欠かさず、避妊手術や去勢手術を施すことにも努め続け、自分自身の寝食を忘れるほどの傾倒ぶりは溺愛と呼ぶべきほどのものだった。
(特に、家から近かった代田1丁目21の児童館わきの公園は、20年近くにわたって主要な餌やりの場となった。餌を入れる皿やネコ缶などがゴミとならないように、毎晩のように猫たちが食べ終わるまで待ち、洗ったり回収したりしていた。これによって睡眠時間が奪われ、疲労の回復が損なわれた可能性はある)。


代田1丁目で。
猫仲間の友人による写真

代田1丁目児童館公園で。
猫仲間の友人による写真
 カラスも好み、自宅にやってくるカラスに時どき餌をやっていた。
 ヘビ、トカゲ、カエルの類も大好きで、雨期に道に現われるカエルや、ときどき家の外に見られるヤモリなどを眺め続けた。
 もちろん、これらにとどまらず、動物一般に興味を持ち、好んでいた。
 現代社会の見直しやエコロジーの検討が強まる時代の中、都会にあっていかに「魔女」であり得るか、「シャーマン」であり得るかを考え続けていたが、これらの動物への愛情は「魔女」的ないし「シャーマン」的な感性の一端を示すものかもしれない。
 また、特に、フクロウ、オオカミ、ヘビについては自分の守護神のように扱い、彼女のトーテミズムのようなものとなっていた。

八王子 片倉城址公園で。出会ったオオミズアオと、気で挨拶
町田リス園で

 50代頃までは、フランス煙草のゴロワーズを好み、つねに携帯していた。多く吸うわけではなかったが、フィルターなしの吸い心地、煙草屑が唇につく様子を楽しんだ。

  
新しいゴロワーズを開ける。
人間には、ときどき《毒》が必要だと言っていた。

アニエス・ベーを着てゴロワーズを吸っていた頃。
ダンヒル・ライトも見える。

 
 身体の丈夫さと若々しさを誇り、健康には絶対の自信を持ってもいたが、2009年5月、卵巣ガンとガン性腹膜炎という耳を疑うような診断を受け、18か月に及ぶ闘病に入ることになった。独立行政法人・東京医療センター(駒沢)で複数回の抗がん剤(タキソール)治療や手術を行うことになるが、このために仕事を放棄するのを望まず、2010年初めまでは大学や朝日カルチャーセンターの授業も継続した。
 2010年4月から腹水と浮腫がひどくなり、さらに厳しい闘病に入る。4か月以上に及ぶ入院となった。日に3000ミリ以上の腹水をとるほどの状態が続く中、本人は積極的な治療に挑戦し続け、「瀬田クリニック」(飯田橋・新横浜)での免疫治療、「健康増進クリニック」(市ヶ谷)での高濃度ビタミンC点滴治療などに出かけ続けた。
 一時は動くこともできなくなり、治療をすべて断念したところで、奇跡的に回復。リハビリに精を出し、8月末の退院となった。
 酷暑の9月、自宅での療養に入り、体力の回復に心がけたが、10月半ばには急速な衰弱に見舞われ、20日に再入院。なおもリハビリに励んでいたが、台風14号の通過していった後の2010年10月31日(日)7時10分、入院先の東京医療センター(駒沢)で永眠した。享年68歳。

病室のベッドより毎日見えていた西空の夕景
                               
亡くなる日の前夜まで使われていた洗面道具。
車イスか歩行器を使って洗面所まで移動する際、このバスケットに入れて運んだ。

闘病期間中、本人が守護霊と信じていたネイティヴ・アメリカンの顕現、イエスや聖母マリアの顕現があったが、それらについての詳細は、ごく限られた友人にのみ語られた。
 また、数度にわたる入院のあいだには、生来のコーヒー好きのゆえに、東京医療センター1FのEXCELSIOR CAFFEに頻繁に赴いた。歩行が困難になってからは、車イスでコーヒーを飲みに行き続けた。

 死の瞬間まで手元に置いていた本は、『クリシュナムルティのノートKrishnamurti's notebook』英語版、ロバート・M・パーシグRobert M.Pirsig『禅とオートバイZen and the art of motorcycle maintenance』英語版、表紙の取れた古いペーパーバックス版ウェブスター英語辞典Webster's New World Dictionary of the American language(1979)、マルグリット・ユルスナールMargurite Yourcenar『敬虔な思い出Souvenirs pieux』フランス語版、ジェイムズ・E・ギブソンJames E.Gibson,Ph.D.『聖書からの癒しの智慧Healing Wisdom from Bible』英語版だった。ベッドから少し離れた棚には、ドゥルーズ+ガタリGilles Deleuze+Felix Guattari『千のプラトーMille Plateaux』、モーリス・ブランショMaurice Blanchot『火の部分La part du feu』もあった。
 日本の文学作品としては、衰弱の進むなか、唯一、志賀直哉の『城の崎にて』を読み直したがったが、それを含む文庫本「ちくま日本文学021 志賀直哉」も棚にあった。
  ウェブスター英語辞典には一枚のメモが挟まれており、「なるべくたのしいいんしょうをあたえたい… Moi, je veux d'abord donner l'impression agréable...」と書かれてあった。

    葬儀は2010年11月2日(火)、晴れ渡った空の下、彼女が親しんだ藤沢の長福寺で行われた。平日にもかかわらず、70名を超える友人たちや生徒たちが参列した。

 朝日カルチャーセンターでのプルースト講読は、あと一巻を残すというところで、全巻講読は叶わなかった。しかし、死の近い頃、授業での全巻講読をやり遂げたいと思うかとの問いに、「かたちの上で区切りをつけるにはそうしたいが、しかし、自分としてはもう十分読んだ。プルーストにも確かに面白いところはあったが、読むべきものはプルーストだけではないし…」と答えていた。


 よりよい療養と新しい生活を開くために、王子神谷に居を移すつもりだった。本人が入院中の2010年10月29日、友人たちによって王子5丁目団地への引っ越しがなされた。その2日後に亡くなったため、本人が新居に住むことはなかったが、霊能のある友人は、本人の霊の居住を感知したともいう。
 王子神谷は、彼女にとって未知の土地だったわけではない。体調がよくなっていた2010年早春、様々な物件を見るためにこの地を二度訪れており、近くの隅田川と荒川の眺望の中を散策してもいる。最良の物件をはやく見つけて転居し、河原や土手の広大な風景の中を毎日散策するのを望んでいた。王子まで歩いて夕暮れの親水公園の情緒を楽しみ、いずれは飛鳥山までが、自分の生活圏に入ってくるはずだと喜んでいた。

 親しかった霊能者のひとりは、彼女が来世、日本人として生まれるということを告げていた。つねに白い装束を着ている姿が見えるので、宗教家のようなものになるだろうと言っていたが、彼女はそれを素直に受けとり、来世、ふたたび日本の風土に暮らせるという考えを楽しんでいた。



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「エレーヌ・セシル・グルナック小伝」の情報源について

 この「エレーヌ・セシル・グルナック小伝」は、エレーヌ・セシル・グルナックが30年にわたって、筆者にじかに語り伝えた情報によって編まれている。長期にわたって、フランス在住の家族や、イレーヌ・メニユら友人たちから直接取材した情報も使用している。筆者自身が現場に立ちあって見聞し、確認した事実にも依拠している。
 いかなる場合も、ひとりの人間の人生を誤りなく正確に提示することは不可能であり、情報と情報をつないで人物を浮き上がらせる際には、どうしても想像に頼って構造や物語を作り上げざるを得なくなる部分が生じてくる。そうした部分については、筆者が受けとめてきたかぎりでの、エレーヌ・セシル・グルナック自身が抱いていたセルフ・イメージや周囲の人々についてのイメージにできるだけ依拠した。自分自身の人生についての彼女の認識にも誤謬や誤解があるとは思われるが、それらの修正は今後に期したい。
 エレーヌ・セシル・グルナックについての資料を筆者はすでに多く所有していたが、本人の逝去にあたり、エレーヌ・セシル・グルナック本人より、原稿類、重要書類、写真、手紙、メール記録、その他のあらゆる種類のノートやメモなどは、すべて筆者に遺贈された。

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このブログ《エレーヌ・グルナックの思い出》について
 
 このブログは、エレーヌ・セシル・グルナック存命中の2010年夏に準備されていた《Hélène GRNAC's  blog》を改題したものである。
 2010年8月31日の退院後、グルナックは、エッセーや日記風の断章を書き始めるつもりでいた。雑誌『水路』に発表した自分の文章がもっと広く読まれるのを望んでいたため、すでに書かれていた文学エッセーなども順次掲載していくつもりだった。
 しかしながら退院後、現実には、療養と生活の立て直しで日々はあわただしく過ぎ、10月に入るとふたたび衰弱に見舞われていったため、もう少し体調が戻ってからブログを書き始めようと本人は考えていた。
 グルナック自身による日記ふうの文章の掲載は本人の死によって不可能になったが、書かれていたエッセーなどの掲載作業ならば残された者にも可能なため、グルナックを引き継ぐかたちで、タイトルを改めた上で作業に入ったものである。

 こうした経緯にもとづき、このブログは、グルナックの遺志を継ぐとともに、彼女の残した主要な文章を検索しやすくすることを第一の目的としている。
  また、グルナックについての思い出なども載せ、友人たちにとってのグルナックのイメージ維持・拡充の一助となることを第二の目的とする。
 第三に、グルナックの存在と感受性を未知の新たな友人たちに開くことも意図している。 

 グルナックには、幼少期の故郷での思い出や、様々なテーマの小説などを書いていく考えがあったが、なにより最も書きたいと望んでいたのは、いわば真理の書とでもいうような、神秘主義的な凝縮された世界論、魂論、真理論だった。最良のかたちで実現されれば、おそらく、キバリヨンKybalionやヘルメス・トリスメギストスHermes Trismegistus、さらに遡ってエメラルドタブレットEmerald Tabletのようなもの、あるいは老子のようなものとなったことだろう。

リサイクル用の紙を切り、ホチキスで綴じてメモ帳にしていた。
流れるような文字で記された様々なメモが多量に残された。
物語のためのメモや断章、詩などもあった。




2 件のコメント:

  1. 遠い昔学生だった頃、友人達に誘われて池ノ上のグルナック氏宅
    に押しかけたときのこと思い出しました。モーツアルトやバッハに
    耳を傾けている間ヨガをしてらした。このHPを訪れあの頃の
    グルナックさん、厳しい表情の妖精だった、に会えました。
    ありがとう。
    ツイッターにみる駿河氏の、抑えた熱情が立ち上がってくる詩歌は
    今迄にみないものですね。もっとほとばしらせてください。須藤

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  2. かれこれ10年以上前、大学でのフランス語の授業を受講する機会に恵まれた者です。

    本日、何とはなしにグルナック先生の名前でGoogle検索をしてこのブログの存在を知り、また先生のご逝去を知りました。
    たった一年間、週一度のお付き合いでしたが、言葉を通して世界をふれあう喜びに満ちた先生の授業は、今でも強く心に残っています。
    本当に魅力的な方でした。

    ご冥福をお祈りするとともに、またどこかでお会いできることを心のどこかで待ち望んでいます。

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