2011/11/03

猫とチョコレート

  舘内 寿代
   (Hisayo TATEUCHI)



タイマー撮影でいっしょに
  

先ず始めに、日本滞在中のエレーヌさんに長年あらゆる方面からご支援されておりました昌樹さんに、心から敬意を表したいと思います。


201064日のことですが、卵巣がんを患い東京医療センターにて入院治療を受けていることをエレーヌさんご本人からの電話で知りました。
「面会には来ないで欲しい」とエレーヌさんご自身より強い希望があり、お見舞いに行けないまま訃報が届き、とても残念でなりませんでした。
昌樹さまからご連絡をいただき、闘病中のお話を伺いましたが、心安らかに旅立たれたことが私にとってなによりの救いになりました。
しかし…ご逝去されて1年が経とうとしていますが、私はエレーヌさんが居ないことを、いまだに受け入れられていないような気がします。
エレーヌさんの闘病生活と最期の時を、この目で見ていないからかもしれません。


エレーヌさんと初めてお会いした1996年当時、私はまだ23歳でした。
猫を通じて、お互いのことを話すようになり、私が若林から引っ越してからは主に電話や手紙、都合の良い日にはエレーヌさんに会いに行くという交際を続けていました。
エレーヌさんは大学やカルチャーセンターでフランス語の講師をされておりましたので、大学の試験や入試前は試験問題作成等で、とてもご多忙な日々を過ごされていました。
 ですので、ほとんど母国フランスには帰国されませんでしたが、ヴァカンスが許された年にパリのお姉さまのところに戻られていました。
パリから離れた、たくさんのキノコが生息している森に行ったこと等、旅先からお便りが何通か届いたことも懐かしい思い出です。
フランス語講師の合間に、藤沢のお寺で瞑想を...そしてヨガを...また東洋医学にも興味をお持ちでしたので足ツボを学んだりと、エレーヌさんにとっては睡眠よりもご自身のやりたいことを優先的に実行させるのが大事なことで、それは彼女の自然な姿であるのが理解できました。
とくに、お昼間より夜の方が好きだったと思います。


エレーヌさんが夕食を作ってくださった時など、二人でゆったりと、とてもとても楽しい時間を過ごしたこともありました。
チーズとサラダ菜、大根と人参に麺を入れ椎茸ダシで煮たもの、ライ麦パン…
その時エレーヌさんは「私は納豆も好き」と言って、納豆も美味しくいただきました。
食後に葡萄を....「フランス人は葡萄の皮も種も食べる」と言いながら丈夫な歯で葡萄の種も食べていました。
  私もエレーヌさんに教えられてから、葡萄の皮も種も食べるようになりました。




食卓。死まで33年間使い続けられた皿が見える。
奥の棚、テーブルも、留学生として日本に来た時に貰い受けて以来、
33年間使い続けることになった。
卓上右端のオレンジは、知り合いの占い師から入手した
エネルギー増幅器の上に置かれている。この上になま物を置くと、
いつまで経っても腐らず、生き生きとしていた。

食卓


  
1996年にご逝去された私の好きな作家: 遠藤周作氏と対談されたことがあると聞いた時は、凄く羨ましく思いました。


ある日は「コンピュータのE-mailがよくわからない」とのことでエレーヌさんのパソコンを起動させ、メールについてやフランス語文字入力の説明をしました。
「これで覚えたからフランスの友人にもメールできます」と喜んでいただけたことが嬉しかったです。


書斎風景。使わない時、パソコンにはいつも布をかけていた。
プルーストの肖像画がその前に置かれている。
脇には、使い続けていた古いワープロも見える。
右奥、少し蔭になっている座布団は愛猫ミミの定席。
ミミはいつもそこで眠っていた。

最愛の子『ミミちゃん』が旅立った時、エレーヌさんは悲しみを抑えきれず電話口で嗚咽をもらしていました。
まるで心の支えを失ったかのようでした。
通話中は、ミミちゃんは口の中が痛くて食べられなかったけれどヨーグルトは好んで食べていたお話や、近所の野良猫さん達の避妊手術や病気の子の通院のことなど、お互いの近況をお話している中、私の体調のことまで気遣ってくださいました。
(私は199810月に、日本ではあまり認知されていなく欧米諸国に患者数の多い疾患にかかりましたので、エレーヌさんに罹患した旨を伝えた際は、すぐに病気への理解と身体の心配をしてくださりました...ご自身が卵巣がんで闘病中の時までも....


私はエレーヌさんと巡り会えたことを素晴らしいことと思っております。
もう二度と、エレーヌさんのあの温かな声を聴くことのできなくなった今も、エレーヌさんのことを想う時間が毎日訪れています。
元気な時のエレーヌさんしか私の中には存在していないのです。
永遠の眠りの地が日本ではなくなってしまいましたが、長い年月を日本で過ごされたエレーヌさんが多くの人々に与えたものは、それぞれの人々の胸に刻まれ残されているのではないでしょうか。


猫さん達へ大きな愛情を注いでいた優しく自由なエレーヌさん、誰にも縛られずご自身の世界観の中で生き続けていたエレーヌさんの生前の姿だけを胸に閉まっておくことができました。
エレーヌさんは、みなさんの心の中で、みなさんと一緒に生き続けることでしょう。
 もちろん私もそうです。

台所で


家の前の道で。代田1丁目6と7のあいだ。


家の前の道で。代田1丁目6と7のあいだ。



家の前の道で。代田1丁目6と7のあいだ。


代田1丁目21、児童館公園のベンチで。


代田1丁目21、児童館公園のベンチで。



家の前の道で。代田1丁目6と7のあいだ。



家の前の道で。代田1丁目6と7のあいだ。

昌樹さんのメールにて、最期の最後まで頑張り続けていたのを知り、エレーヌさんらしさをとても強く感じました。
「古い体を捨てて、清々している」エレーヌさんを誰よりも一番理解している昌樹さんのお言葉、きっとエレーヌさんはそう思っているのではないかと私も同じ気持ちでいます。


そして今日も二人の大好きなチョコレートを食べ、猫達と戯れます…エレーヌさんを想いながら。

エレーヌが猫たちに餌をやっていた代田1丁目21の児童館公園


児童館公園のベンチ。ここに毎晩猫たちが集まって、餌をねだった。


児童館公園の木々。



児童館公園前の道路。猫たちの通路でもあり、
下北沢へ向かうエレーヌの毎日の通路でもあった。


同じく児童館公園前の道路

                                      (2011 1030日)

2011/03/01

THIS WORLD IS NOT CONCLUSION

エレーヌのキルリアン写真
Helene's Kirlian photography



    駿 河  昌 樹
   (Masaki SURUGA)


 なぜあれほどまでに、というほど、音を立ないようにそっと家の中を歩く。
それがエレーヌだった。

 井の頭線の池の上駅から五分ほどのところにあった家は、大きな日本家屋だったものの、ずいぶん古くて、二階をひとが普通に歩くといくらか揺れるような感じがした。実際にはそう簡単に揺れるわけもないのだが、人間のほうが敏感にさせられてしまうような雰囲気があって、ちょっと歩くと自分の動きにあわせて家が揺れるような気がする。
 ほら、揺れています、もっと静かに歩いて、とエレーヌは言うのだった。畳の上を、まるで雲か水の上を歩きでもするように、踏むか踏まぬかといった足どりで進む。彼女にとってはごく自然ななんでもない歩き方なのだが、ほかの人間には、はじめのうち、なかなか難しかった。
 
 パリでの学生時代、間借りをして暮らしていた際に身についた歩き方だという。
 呼吸法や弛緩法をとりいれたお産のしかたにラマーズ法というものがあるが、それで有名なラマーズ博士の家の一部屋を借りて暮していた学生時代のエレーヌは、なにかで少し遅くなって帰宅する時には、生活時間の異なるその家の家族たちの邪魔にならないよう、そっと玄関の鍵をあけ、細心の注意をして閉め、自分の部屋までしずかに歩いていったという。
 彼女にかぎらず、学生時代に他の家の居候になったり、門限にうるさい家で育ったりしたら、誰にでも似たような経験はありそうだが、エレーヌの場合、これが一生を通じて習い性のようになった。
 ひとつにはフランスの家の床張りのしかたにもよる。ちゃんとした家の場合、パルケparquetと呼ばれる寄木張りで床が作られることが多いが、あの上を歩いてみると、どんなに静かに足を運んでも、ミシミシ、キシキシと音がする。踏み場所の悪いところなど、まるで、錆ついた蝶番の古い重い扉を開けでもしたように、ギーッという音が響き渡る。フランス人たちにとってのあのパルケの軋みは、我が家というものの安らぎを証明するようなものとして、ひょっとして、受けとられているのではないだろうか。

 ラマーズ家の玄関の扉を閉め、そこから自分の部屋に向かう女子学生エレーヌが、はじめから音を立てないで歩くことに成功したとは思えない。しかし、バレエにはやくから興味を持ち、ひとりでいる時にはプリマドンナの気持ちで野原で踊ったりしていた娘には、案外、楽しい課題に感じられたのではないかとも想像される。あら、昨夜は遅くに帰ってきたのね、でもあなたの足音、ぜんぜん聞こえなかったわ、と言われるのに時間はかからなかったらしい。エレーヌには、それが小さな自慢となった。
 
 終生の友となったイレーヌ・メニユの家も、床はやはり寄木張りのパルケで、どこを歩いても鳴った。とくに広いサロンの床は豪勢な鳴りようで、これでは泥棒もうっかり入れまいと思うくらいだった。玄関口からそれぞれの部屋に向かう廊下もよく鳴ったので、誰かがそっと帰ってきても床の音ですぐにわかる。
メニユ家に泊まる場合には、さすがのエレーヌでも、この廊下の音を立てないで自室に向かうというわけにはいかなかった。メニユ夫人は寝室で先に寝についていても、エレーヌの帰ってきた足音を聞きつけると、そっと寝室を出て、あかりも点けずに玄関へ歩いていく。メニユ夫人の寝室から玄関への廊下の床のほうが音が立たなかったので、抜き足差し足で自室へ向かっていくエレーヌの前に、いつの間にか幽霊のようにメニユ夫人が出現するのだった。
そうなると、たいていはキッチンにふたりで向かい、お湯を沸かしてコーヒーやティザンヌtisane(ハーブティー)を作り、あり合わせのお菓子を皿に入れ、それらを食堂に運んで、しばらく深夜の歓談に興じることになる。人生の流れがふと停止し、どこかの静かな人知れぬ入り江に入り込んでしまったかのような休息のひととき。三十分ほどでこれが終わるのは稀で、小一時間ほどは話が続いてしまうことが多かった。誰がどうしただの、こんな問題が降りかかってきただの、内容は生活上の様々な珍事や事件であっても、どれもが、直接は自分に関係のない物語の中のエピソードででもあるかのようで、笑いが出ることが多かった。どうしても解決の行かぬ問題については、エレーヌお得意のカード占いで決着をつけるということになる。それとても、結果を信じ込んで行うわけではないので、二度三度やって、なんとなく気分的に納得がいったところで、さあもう寝ましょう、明日も早いのだから、と、ようやく寝に就く準備に入ることになるのだった。

亡くなるまでの20年を暮した世田谷の代田の家は、一階だったこともあり、もちろん寄木張りの床でもなかったので、無理にそっと歩く必要はなかったが、それでもほとんど足音を立てずに家の中を歩いていた。ながく一緒に暮らしていた雌猫のミミのほうがよほど足音を立てて歩きまわっていて、猫が急いで畳の上を歩く時の特有のタタタタ…という音や、床を歩く時のトトトト…といった音のほうが、よほど主人の足音よりも響いていた。

音のなさということでは、歩くより、むしろヨガをする時のほうが特徴的だった。外でひとに教えるような時にはともかく、家でヨガをする時には、エレーヌはまったくといっていいほど音を立てないで行っていた。いるのかいないのか、わからないほどだった。本や書類がいっぱいの部屋の端で、片付ければもっと広くも使えるのに、そうすることもせず、一畳か二畳ほどの狭い空間の中で毎日ヨガをしていたが、呼吸を鋭くすることもなく、息を切らすこともなく、静かにポーズを組んでは解き、べつのポーズに移っていった。たまに、裸足が畳に擦れる音がするということはあったが、それが消えると、また、静かな動きだけが続いた。

そんなエレーヌを見ていると、もっと音を立てて生きてもいいのに、と思わされることがあった。この世では音もひとつの要素で、踏む素材によっては足音が立つのもしかたがない、むしろ、立てる権利さえあるといってもいい。そう思い、なんどか言ってみたこともあった。彼女の答えはまちまちで、私はこういうほうがいい、と答えることもあれば、もう慣れましたから、と言うこともあった。
お化けのように歩くのが好きです、お化けのようにこの世とは接する、というようなことを言っていたこともあった。エレーヌらしい考え方で、なんでもないようでも、彼女の好きな様々な神秘主義者たちの言動に通じていく言葉だった。
神秘主義者のうちでも最たる者たちであるインドのヨギたちの世界には、さまざまな不思議な話があるが、こんな話も伝わっている。
肉体を持たないある有名なヨギは、夜や夕暮時にごく稀に修行者たちの前に姿を見せたそうだが、「昼の明るさは、私には重過ぎてとてもではないが耐えられない。光のカーテンが薄く、軽くなる時なら、もっと容易にめくって出ても来れるのさ」と言っていた。光というのは、通俗的な宗教イメージでは、やみくもにひたすら良いものと捉えられてしまうことが多いが、もっと繊細な感性でこの世やあの世の神秘の中に入り込んでいこうという人たちは、光というものの害を無視できなくなっていく。闇が持つ独自の明るさをじかに感じとれるようになり、それがおのずと描く道筋を辿れるようにならなければ、死や無を超えて意識の継続を維持していくことなどできない。これは、神秘家たちにとっては常識でもある。

エレーヌは光を嫌ったが、このことは、音を立てないことにそのまま繋がっていたに違いない。
多くの人が嬉しく思うような太陽の輝きや、からっと晴れ上がった日などを、エレーヌは嫌っていた。女性ならば、陽光や晴れあがりを、すぐに日焼けということに結びつけて避けてしまおうとする人たちもあるが、エレーヌの場合はそういうものとは違っていた。つよい明るい陽光には、なにか息の詰まるものがある。彼女が持っていたそういう感覚は、どうやら生来のものだったように思える。神秘家たちの性向を見習ってそうなったというわけではなかったらしい。
つよい陽光を見ると、前世のどれかで核爆発に巻き込まれて死んだ記憶が蘇るので怖い、と言っていたこともある。エレーヌは、生まれ変わりや前世、来世というものを完全に信じていたし、自分の過去世を知るためのさまざまな試みも現に行ってみていた。そういう試みから得られる事柄を信じ込むことはなかったが、かつて自分は核物理学者のようなものだった気がする、とは言っていた。実験中に誤って爆発を起こして死んだのだと、よく言っていた。
日本の梅雨が大好きだったのも、そんな陽光嫌いから来る部分もあった。太陽が出ず、雲が空を覆って雨が降っているのを本当に喜んでいた。冬のヨーロッパの陰鬱な曇り空も大好きだったし、同じような印象を描き出してくれるニコラ・ド・スタールの絵や、マーク・ロスコの絵なども大好きだった。

エレーヌの好きだったエミリ・ディッキンスンEmily Dickinsonの詩句に、「私の未来がしずかに階段をのぼる」という部分がある。
授業をする時などは「しずかに」など語ってもいられなかったはずだが、ひとたび家に帰り自分だけの時間に戻ると、必要以上に「しずかに」動き、歩き、他にはだれもいない家の中で、ほとんど息をひそめるようにしていたのがエレーヌだった。
そうしながら、やはりディッキンスンの詩句の言うように、「私は可能性のなかに住んでいる」とでもいう思いを確かめ続けていたのでもあろうか。

このようにエレーヌのことを思い出し始めると、終わりがなくなる。ディッキンスンの詩句を出したついでに、この文は、この詩人の他の詩句を引くことで終えたい。エレーヌも好きだったし、亡くなった今となっては、彼女を思うのにもふさわしい箇所を。

This world is not conclusion;
A sequel stands beyond,
Invisible, as music,
But positive, as sound.
It beckons and it baffles;
Philosophies don’t know,
And through a riddle, at the last,
Sagacity must go.

この世界で終わりではない
続きがむこうにある
見えない、音楽のように
が疑いようもない、音のように
それは手招きし、挫く
哲学ではわからないから、
結局、謎のなかを、
智慧は通って行かねばならない。




201131日)

2011/02/27

Dôgen, Kûkai etc.

à Hanegi-koen, Umegaoka, Setagaya, Tokyo    
photo by Masaki SURUGA


       Hélène Cécile GRNAC


  L’hiver dernier(2008) il est sorti un film japonais qui a eu un grand succès, intitulé « ZEN ». Il raconte la vie du grand moine japonais DOGEN ( 1200 – 1253 ), fondateur de la secte zen SOTO. La quintessence de son enseignement se trouve dans son oeuvre maîtresse Shôbôgenzô, « Le Trésor de l’Oeil de la vraie Loi ».  
  La pensée de Dôgen présente une originalité remarquable que l’on se permet de résumer ainsi : au lieu de se baser sur les Ecritures de l’enseignement bouddhique classique, il les nie pour au contraire s’appuyer sur sa propre expérience dans ce qu’il appelait le « ici et maintenant » en prenant la position assise, celle du « zazen ». C’est grâce à elle que le corps et l’esprit cessent d’avoir toute valeur fixe, toute identité déterminée et qu’on peut atteindre l’Eveil, la Voie ( de Bouddha), c’est-à-dire qu’ « étudier la Voie, c’est seulement saisir les os et la moelle du monde de l’absence de forme et de pensée. » Par ailleurs, cet éveil se produit de lui-même, il a lieu ou non, mais ne dépend de toutes façons, d’aucune circonstance extérieure, quelle quelle soit. Pour ce qui est de la mort, il dira devant une assemblée de bonzes à Hôrin-ji, en 1242 que « l’homme ordinaire ignore que vie et mort cohabitent...que la vie ne s’oppose pas à la mort ni la mort à la vie .»
  Ce film fut l’occasion de me replonger dans le bouddhisme qu’en fait je ne perdais jamais de vue, relisant souvent, sans m’en lasser, des passages de tels ou tels penseurs indiens, chinois ou japonais ( principalement Dôgen et Kûkai ), naturellement le plus souvent en traduction française ou anglaise, quelquefois dans l’original japonais. Je revis le film encore deux fois, et forte de cette expérience, me sentant quelque part « éveillée », dans la foulée, je pensais à cet autre grand moine japonais tout aussi célèbre sinon plus que Dôgen : Kôbô Daishi qui vécut environ quatre siècles avant Dôgen : 774-835 et plus souvent appelé Kûkai (Océan de vacuité), nom qu’il prit quand il fut ordonné moine, avant son départ en Chine. J’eus la chance de découvrir une vidéo sur sa vie. Un film japonais de presque trois heures des années 85 dont je ne sais pourquoi je n’avais jamais entendu parler ou oublier son existence. Que je revis trois fois aussi, tranquillement.
  Comme Dôgen, Kûkai, fondateur, lui, de la secte bouddhique du Shingon (le mantra), obtint l’Eveil en Chine et comme Dôgen, il voulut initier les Japonais à ce qu’il avait appris, après son retour au Japon. Mais bien que tous les deux se réclament de la Voie de Bouddha et présentent nécessairement des points communs dans leur philosophie, notamment sur la vacuité et l’impermanence des choses, Kûkai insista sur l’étude du mandala, représentation géométrique et symbolique de l’univers dans le bouddhisme (et aussi le brahmanisme). Il implanta le bouddhisme dit ésotérique, dans son pays. Pour lui, macrocosme et microcosme ne font qu’UN. Il affirmera encore comme Dogen quelques siècles plus tard, qu’on peut atteindre l’Eveil, autrement dit l’état de Bouddha en une seule vie ici-bas, sans avoir à passer par plusieurs vies ou réincarnations, contrairement à la croyance hindouiste et à celle des autres sectes religieuses de son époque au Japon.
  A la différence de Dôgen qui partit en Chine très jeune déjà bonze et se consacra au retour exclusivement au zen et à son temple Eihei-ji, Kûkai comme Dôgen abandonnera de brillantes études et toute carrière prometteuse, mais pour mener d’abord de longues années, une vie d’ascète errant et loqueteux. Pour expérimenter précisément ce qu’il pressentait si fort en lui, que « tout ce qui était en haut était comme tout ce qui était en bas ». Il ne se fera moine qu’après l’âge de 30 ans, après avoir mieux compris non seulement avec son intelligence hors du commun mais aussi et surtout avec toutes les fibres de son corps les mystères de l’univers. Initiation personnelle et quasi-sauvage, dans la nature même, apprentissage laborieux et souvent périlleux qu’il parachèvera en Chine grâce à la rencontre miraculeuse du grand maître de l’ésotérisme chinois Keika-Ajari (Hui-Go) qui, dit-on, l « attendait » avec impatience pour lui transmettre les secrets ultimes de son enseignement, avant de quitter ce monde. Très ouvert, il désirait aussi que Kûkai se hâte de rentrer au Japon pour les répandre. Kûkai écrira une oeuvre immense dont une « Jôjôshin-ron », dans lequel il développera les dix niveaux à travailler avant d’atteindre l’unité absolue de l’Esprit.
  L’Eveillé n’a donc pas besoin de rejeter le monde, il peut et se doit même d’aider les autres moins avancés que lui à percevoir la Vérité, l’Ainsité des choses de la vie sous leurs aspects infiniment multiples mais sans cesse changeants et éphémères.
     Fort de son expérience et de l’initiation complète qu’il eut le privilège unique de recevoir, Kûkai voyagera à travers tout le Japon. Doué de pouvoirs shamaniques, il soignera les malades lors d’épidémies, arrêtera la tempête pour que les pêcheurs aient le temps de construire leur digue contre le typhon etc... Il reste toujours très vénéré au temple qu’il fonda en 816 sur le mont Koya et les Japonais se sentent plus proches de lui que de Dôgen, probablement, bien que chaque année des milliers de touristes aillent visiter Eihei-ji.
  Voilà donc ce que ces deux films m’avaient appris sur les deux plus importants courants spirituels du Japon et sur leurs deux plus éminents penseurs.
Mais après le vif intérêt ressenti en découvrant à l’écran la vie extraordinaire de ces deux grands propagateurs de la pensée de Sakyamuni, je pris du recul, puis le doute commença à me ronger, enfin je me décidai à les attaquer...tous les deux.
Il n’est pas dans mon intention de mettre en doute leur force spirituelle respective, j’aurais bien du mal à le faire. Tout ce qu’ils ont écrit comme témoignages de leurs expériences intérieures restera un précieux témoignage et un excellent texte de référence pour tous les lecteurs de tous les temps, certes, mais pourquoi ont-ils fondé tous les deux et d’autres comme eux une secte ? Bouddha n’a jamais voulu que ses expériences sur la découverte de l’ignorance humaine se transforment en dogmes religieux.
  Aussi Bouddha n’ a jamais voulu créer de temple ni de secte quelconque ; pourquoi faut-il alors que ceux qui ont voulu devenir des « éveillés » comme lui et qui y sont parvenus en principe, ont-ils toujours eu le besoin de créer une secte dans laquelle ils se sont enfermés pour former bande à part ? Pratiquement aucun des plus célèbres n’a réussi à vivre comme tout le monde, excepté Marpa, le laique tibétain et maître de Milarépa, qui dira lui-même :《 ............. 》,
    
     ................................................................

   .........plongeai dans le plus définitif accablement. Je ne me suis plus sentie illuminée, plus du tout. Loin d’appliquer le principe capital du bouddhisme selon lequel rien n’a de véritable consistance, donc tout est illusion mentale, mon petit « moi » s’était au contraire assez renforcé pour croire fermement qu’il existait vraiment. Puisque j’éprouvais un complexe d’infériorité presque insupportable ! Je me perdais dans toutes sortes de raisonnements plus contradictoires les uns que les autres. Je pensais que tout cela était magnifique mais sur le papier seulement et si ce n’était pas le cas que je n’aurais jamais la force intellectuelle, physique et spirituelle de les suivre, même de très loin. Kûkai me semblait encore plus inaccessible que Dôgen parce qu’à moins d’aller chercher dans le fin fond du Pérou ou du Mexique un shamane digne de ce nom, comme Don Juan dans les récits fascinants de Castanéda, ou de tomber sur quelqu’un comme l’inoubliable indien Apache surnommé « Grandfather » des livres de Tom Brown, Jr., je ne pourrais jamais rien apprendre du vrai esprit de la Nature et de cette force « qui meut infiniment tout ce qui est ». Mais je savais aussi que je n’aurais jamais le courage ni l’élan suffisants pour aller m’asseoir durant de longues heures sur un coussin et faire zazen... bien que vivant au Japon, la patrie de Dôgen. Je me demandai enfin, pour justifier mon incapacité totale, s’il existait de nos jours de véritables successeurs de Dôgen et de Kûkai...    


   (inachevé)


    le 12 mai 2009   à   Tokyo


*Cette ébauche est le dernier écrit d'Hélène Cécile GRNAC. Le 12 mai 2009, mardi, en rentrant de ses cours à Yokohama, elle s'est aperçue que ses jambes étaient enflées "comme des poteaux". C'était l'apparition nette de son cancer.



【管理人の注】
 エレーヌ・セシル・グルナックによる最後の草稿。残されたパソコンの中から、《Le corps est esprit, L'esprit est corps》とともに発見された。フランス文学作品をテーマとする考察から、50年来の関心の中心だった生活の中での《真理》の探究についての考察へと、道元や空海に触れつつ、向かおうとしていた。
 宗教と神秘主義への非常な興味を一貫して持ち続けてきたグルナックは、60代の後半に達して、隠遁者でも僧でもなく、生活に追われるふつうの社会人として生きつつ、それらをどのように日常生活の中で生き、どのように《真理》へと到達して行きうるのかということについて、多面的に考え直そうとしていた。
 道元や空海の著作の日本語原文、現代日本語訳、フランス語訳、英語訳をあらためて手元に集め始めていたが、知的思弁的な道元論や空海論を展開していくよりは、日常の中の様々なモノや身のまわりの小さな自然、誰にでも訪れる夢や直観、場合によっては幻視などを手掛かりとした《真理》の探究の仕方を採っていくことになる可能性のほうが強かったと想像される。ネイティヴ・アメリカン関係の自然や霊との交流を扱った書籍類や、現代アメリカの女性たちの手になる実践的なシャーマニズムや魔法についての書籍類も手元に多量に集められており、すでに相当に読み込まれていたが、グルナックにとっては、そうした進み方のほうが自然であったように見受けられる。

 この草稿に最後に手が入れられた2009年5月12日、火曜日、朝日カルチャーセンター横浜の授業から帰宅したグルナックは、両足が大根のように腫れているのに気づく。彼女の生命を奪うことになるガンが、はっきりしたかたちで現われた日だった。
 以後、落ち着いて文章を書く機会はついに戻って来なかったが、ふいに突きつけられた末期ガンを、集中的な実践的修行の契機のようなものとして認識していた。様々な雑事につきまとわれ続ける日常生活と、そこに厄介事と心身疲労や衰弱が加えられ続けていく病気というもの。これらを抱えながらの精神的ないし霊的な進化・深化は、どこまで可能か。最期を迎える週まで、これが、管理者との間での会話の中心的なテーマとなった。グルナックは、生涯で一度も病気らしい病気を経験したことがなかったので、降って湧いたような大病を、特別に突きつけられた課題として受けとめていた。
 70歳にも達しない年齢の彼女を見舞った死の危機について、まだ若過ぎると考えて悔やんでいたわけではない。彼女よりも若くして亡くなった空海や道元、あるいは聖ベルナデットなどの年齢を忘れていなかったし、やはりガンで死んでいった覚者ラマナ・マハリシやクリシュナムルティのことも忘れてはいなかった。

2011/02/25

Madame Irène Meynieux et Roland Barthes en1938




 Madame Irène Meynieux, une amie très chère d'Hélène Cécile GRNAC et Roland Barthes à Budapest, en été 1938.

【管理者の注】
  長きにわたってエレーヌ・セシル・グルナックの親友だったイレーヌ・メニユIrène Meynieuxは、ロシア文学者にして作家・詩人である夫アンドレ・メニユAndré Meynieux とともに、多くの文化人に接し続けた。夫が亡くなったのちも自宅に個人的に人々を招いて、晩餐をともにすることが多かった。
 批評家ロラン・バルトRoland Barthes(12 nov.1915-26 mars1980)もそのひとりだが、1938年夏のこの写真は、まだ22歳の頃のロラン・バルトとブダペストで晩餐をともにした際のもの。イレーヌ・メニユはバルトの隣りに座り、顔を横に向けている。
 この年3月13日にはナチスドイツがオーストリアを併合していた。9月にはチェコスロバキアのズデーデン地方もドイツの手に落ち、11月には水晶の夜事件が起こることになる。
 エレーヌ・セシル・グルナックには間接的にしか関わらない事柄だが、ロラン・バルト関連の資料にも収録されていない珍しい写真なので、ここに掲載しておく。

LE JAPON : POUR UN MIEUX-VIVRE

au temple Kinkaku, Kyoto 


   Hélène Cécile GRNAC


    La première fois que je suis venue au Japon, c’était en 1970, par hasard l’année de l’Exposition universelle à Osaka. Mais je n’étais pas venue pour cela, aussi, après avoir visité quelques pavillons, je m’échappai vite de cet enfer « expositionnel ».Je voulais goûter, respirer le « vrai » Japon. La visite des temples, des jardins à Kyoto, Nara et autres coins moins célèbres mais tout aussi intéressants m’enchanta mais mon émotion fut souvent cruellement entamée par le....NEON ! Quelle pénible surprise de constater que presque partout on s’éclairait au néon, y compris dans les temples ! Dans les belles vieilles maisons où j’eus l’honneur d’être invitée, quel éclairage désagréable que celle du néon dans les pièces aux boiseries dorées, aux clairs tatamis, aux délicates portes en papier, au tokonoma où respirait doucement une fleur, solitaire mais sereine ! Quel enfantillage, me direz-vous, de dramatiser ainsi pour si peu, tandis que pour les jeunes d’aujourd’hui cela paraîtra tout simplement ridicule, mais pour moi c’était une déception sans nom.Tout au long de mon voyage, et même dans les auberges les plus traditionnelles, je retrouvai ces maudites plaques de néon au plafond, qui me brûlaient la tête et les yeux, nous donnaient, aux autres clients et moi, des faces cadavériques.J’avais l’impression d’être un ectoplasme, je me sentais dépouillée de mon âme.... Quelle tristesse! Je n’ai pourtant rien contre le progrès mais ne peut-on l’utiliser avec plus de discernement, pour le confort certes, mais sans pour autant sacrifier toute esthétique ?Je me serais volontiers éclairée à la bougie, dans ces pièces au vide si intime et si propice au repos du corps et de l’esprit.....
  
     Je revins au Japon quelques années plus tard. Deuxième grand choc : dans les quartiers pittoresques où j’avais flâné, la plupart des belles maisons avaient été rasées, arbres compris et sur leurs ruines, de tristes logements bâtis tous azimuts, de toutes les hauteurs, de tous les styles possibles et inimaginables, déchiraient l’espace, choquaient terriblement avec le bleu du ciel. Je posai alors la question de l’urbanisme à des amis japonais. Ils me répondirent que pour cela, le Japon avait beaucoup de retard et que le gouvernement n’avait pas l’air de s’intéresser à la question. Comment faire, alors, pour arrêter cette dégradation galopante, m’exclamai-je, désespérée.Comment ne pas se rendre compte que Tokyo par exemple, est en train de devenir un monstre hybride, hideux, où il est déjà de plus en plus inhumain de vivre ? Je sais bien que la vie change pour les villes comme pour les êtres humains, les animaux et les plantes mais pourquoi porter un tel outrage à la beauté, à l’art de vivre ?

     Le problème ne se pose pas seulement pour les zones habitées. Le feu qui m’animait quand je visitais un temple se meurt peu à peu, tout simplement parce qu’en arrivant devant lui, ce qui me déchire la vue, ce sont les distributeurs automatiques de boissons et de cigarettes ! Le charme est bien entendu définitivement rompu et on n’est pas toujours sûr de pouvoir prendre une photo sans ces horribles machines. Je pense qu’autrefois, les fêtes populaires se déroulaient autour des temples et qu’à cette occasion on dansait, chantait, mangeait et priait librement, mais je suppose que les feux de la fêtes éteints, le temple et son dieu restaient à nouveau maîtres supêmes des lieux et que paix et beauté s’installaient à nouveau, alentour....jusqu’à la prochaine fête. Maintenant, hélàs, même après la fête, on n’enlève pas ces appareils qui agressent votre regard et font figure de verrues sur un beau visage lisse.

     Vous parlez avec la sensibilité esthétique d’une Occidentale, me direz-vous, je ne le pense pas. Tous les hommes, où qu’ils vivent, sont touchés par la beauté, car la beauté n’est pas le privilège de quelques-uns, elle est universelle et la culture japonaise ne cesse de nous émerveiller par sa délicatesse et son raffinement.

     Depuis l’ère Meiji, le Japon saccage sa beauté naturelle et spirituelle. Les remous de l’Histoire l’ont obligé à s’occidentaliser pour faire face à d’agressifs visiteurs. Il le fit héroïquement, nul n’en doute, et avec un douloureux stoïcisme.Il n’est que de relire Natume Soseki(Mon, Sanshiro, Sorekara...) pour souffrir avec lui en voyant son pays se détruire sans ménagement. L’Europe, me dit un jour un ami japonais, a traversé elle aussi bien des calamités et pourtant elle a su garder son art de vivre, mais au Japon, on ne sait pourquoi, on détruit sans vergogne, on vise le profit avant tout. Une des raisons pour laquelle nous aimons voyager en Europe, c’est qu’elle respire encore l’harmonie.Sa remarque était sans doute assez juste, mais de toute façon, lui dis-je, il était urgent que le Japon décide une politique cohérente d’aménagement de ses centres urbains, aide efficacement ses habitants à créer une meilleure qualité de vie, matérielle et psychologique, où chaque jour ne soit plus un enfer mais un mieux-vivre. Le Japon, dit-on, réussit économiquement, pourtant nul n’ignore que la vie quotidienne du Japonais moyen est plus que frustrante et qu’il commence à se demander si la vie vaut la peine d’être vécue.

      Restaurer le Japon actuel ne signifie pas naturellement qu’il faille revenir, au Japon du passé mais le développer le plus harmonieusement possible, de manière à s’y sentir bien, à aimer y vivre pour ceux qui l’habitent et pour ses touristes, à rêver d’y revenir.

     (octobre 1990)


【管理者の注】
 「美しい日本のために(「生活小国」日本)」のフランス語原文。
 これをもとにグルナック自身が日本語で書き直し、それが『三田評論』第919号(1990年11月号)に掲載された。
 





2011/02/23

エレーヌさんの月夜の庭

                                 
        
  
     樋 野  ゆ り
    Yuri HINO)


 エレーヌさんはヨガを教えていると言っていました。ヨガのことについてすこし話を聞きました。
 でも、このブログを見て、お寺で本当に教えていたと知りました。
 私はヨガは習いませんでした。
 でも、ときどきエレーヌさんのお庭でいっしょに月の夜に目を閉じて座ったりしたことがありました。

 私はエレーヌさんの家のちかくに住んでいたことがあります。ていうか、エレーヌさんの家から遠くないお店でバイトしてて、エレーヌさんがお客さんで来て、ちょっと変わった人だったし外人だったので、なんとなく気にするようになったのですが、エレーヌさんはいつもいろいろ話してくるので、親しくなりました。
 私は高校生でしたが、占いとか魔女とかなぜかすごく興味があって、そんなことばかり読んだりしてましたが、エレーヌさんといつだったか、そんなことの話になりました。仕事中なのでちょっと話しただけですが、こんどもっと話しましょうと言われて、ちょうど都合がついた時にエレーヌさんの家に行きました。
 コーヒーとかライ麦パンとかお菓子も少し出してくれて、いろいろ話しました。フランス人だとはじめて知りました。私はフランスっていうのはあまり知らなかったので、パリとかエッフェル塔とかがあるんだぐらいに思っただけですけど、エレーヌさんはフランスのことをそんなに話しませんでした。フランス語の先生ですというので、それじゃあフランス語を習ったらいいかなと思いましたが、あんまり興味がなかったので、習いませんでした。私は英語もだめなので、フランス語はもっとだめだろうと思いました。でも、いくつかの言葉は習いました。
 最初に行った日は夜でしたが、月がよく出ている日でもなかったので、べつにそれはいいのですけど、エレーヌさんは、ゆりさんは魔女なんですからこんどは満月の夜にお庭で瞑想しましょうと言いました。瞑想のことをエレーヌさんはメイソみたいにいうので、最初よくわからなかったです。目をつぶって座るというので、瞑想だとわかりました。でも、瞑想というのは言葉は知ってましたがあまり私は知らなかったので、むずかしいのかなと思いました。でも私は月のきれいな晩にお庭で目をつぶって座るのは面白いかもと思いました。ですから、ウイ、と言いました。エレーヌさんに習ったばっかりの言葉でした。
 
 魔女の本を読んでいたから、満月が精神にひじょうな影響があるのは知っていました。詳しくはわからないけれど、月には特別な力があるそうです。満月の光はほんとうはすごく強く、月焼けするのだと読んだことがあります。そんな夜に、よく知らないけれど、やっぱり魔女好きのエレーヌさんと庭で瞑想するっていうのはちょっとすごいかもっていう感じでした。
 
 最初に月の庭で座ったのは桜が散る頃で、春でした。ちょっと寒かったですが、その夜はあまり冷えなかったです。そんなにながくは座っていませんでしたが、座布団をもらって、しばらくふたりで目をつぶって、庭のコンクリートの台みたいなところに胡坐をかくみたいにして座っていました。ヨガとかはどうするのか知りませんが、べつにむずかしい息のしかたをするわけでなくって、ただ座っているだけです。
 月の光がなんか水のなかの大きな柱みたいになっていて、水の中ほどはっきりしてませんけれど、ちょっと特別な感じでした。こういうのが魔女ですと、あとでエレーヌさんが言いました。
ときどき目をあけてまわりを見ると、体の影がすごくはっきり落ちていたりします。コンクリートの上にも、雑草とか土の上にも影が出ます。私の体とエレーヌさんの体の影がはっきりそんなふうに出るのを見ていて、なんか、こんなふうに影を見ていなかったと思いました。自分の体の影をちゃんと見ないで生きていて、そういうのはよくないなと思いました。あとでエレーヌさんにそう言いましたが、エレーヌさんは、そうです、影がない時は生きていないです、という感じのことを言いました。影が無くなると生きてられないってことかな、と思いました。ときどき、エレーヌさんの日本語は私にはわかりづらい時がありました。考えるとだいたいはわかりましたが。

月の光のなかに座っているだけなのが魔女だというのは、いままで私が考えていたのとはだいぶ違ってましたけど、なんとなくわかる感じでした。落ちつきとか、満足とか、安心の時間みたいなものかなと思いました。なにか煮込んだり呪文をかけたりして魔法をやるのとはすごく違っています。自然が魔法なのだとわかるのが魔女だと思いました。その夜に思ったのでなく、あとでだんだんわかったことです。生きていることが魔法で、それをよく感じるのが魔女だとあとで思うようになっていきました。これはエレーヌさんに言いましたが、そうです、その通りです、と言われました。

いつも満月の夜ということではなかったですけど、だいたい満月に近い夜に、エレーヌさんのところで庭に座るようになりました。最初の時と同じで、座っているだけですが、すごく充実した時間でした。
猫が何匹もエレーヌさんの家のまわりにはいるので、よく庭に来て、はじっこで座っていたりしていました。のどを鳴らしたり、擦りよってきたりしました。でも、それでも座っていると、猫もそこらへんに座って黙っているようになりました。猫といっしょに座っていることもけっこうありました。

ひと月おきだったり、ふた月以上あいだがあいたり、いろいろでしたが、けっこうエレーヌさんと、こんなふうに月の夜に庭で座りました。玄米を作ってくれたり、ワイルドライスというのを炊いてくれたりして、それと野菜とか、魚とか鶏のササミとかと食べたりする時もありました。ワイルドライスというのは、アメリカのインディアンの食べものらしいです。けっこうおいしいです。インディアンは魔女とよく似ているとエレーヌさんは言ってました。

エレーヌさんは日本語の魔女の本はあまり知らないので、英語とかのをけっこう読んでいたようです。私にいくつか勧めてくれました。私は英語がだめなので、ぜんぜん読めないのですが、題名とかはちゃんとメモしてあるので、これから勉強して読んでみようかなと思っています。

私は両親の問題とかあって、だいぶ前に引越してしまいました。もう東京にはしばらく行っていません。エレーヌさんとも会っていませんでした。
高校のあと、お店とかで働くようになって、いまは無農薬の野菜とかハーブとかも扱う店で働いています。時々エレーヌさんにメールしてました。電話することもありましたが、ほんとに時々でした。電話するとなにを言っていいかわからなくなるので、私からはあまりいろいろうまく話せないので、ちょっとしか話さなかったです。

病気になったことも知っていましたが、電話だと、エレーヌさんは、大丈夫ですと言っていました。ちょっとつらいと言っていた時もありましたが、でも大丈夫ですと言っていました。治りますと言っていたし、魔女ですから治しますと言っていました。

亡くなった時に、エレーヌさんのお友だちから知らせていただきました。

ながいことじかに会っていなかったので、まわりにいたお友だちとかほどショックはなかったと思います。でも、会っていないことと、亡くなったということは、どういうふうに違うのかな、とよく思いました。そこのところが、ちょっとよくわからない気がしました。

夜に急に胸がいっぱいになったような感じの時があって、なんか、エレーヌさんをもっとわかったような感じでした。なぜかすごく涙が出て来て、エレーヌさんとああして庭に座っていた頃がばあっと思い出されて来ました。

エレーヌさんと私だけで過ごした月の時間があんなにあって、しあわせだと思います。
エレーヌさんは、ゆりさんとの秘密の月の時間ですと言ってましたが、いまになってエレーヌさんが本当は忙しい人だったのがわかってきたので、ああいう時間があったのはうれしいです。
自然とか魔女とか好きな人のあいだでしかわかりあえないものがあるみたいな話も聞きましたが、そう思います。

私は月が大好きだし、これからも月の夜にひとりでもじっと座ってみると思います。
亡くなったという感じは、私はあまりしません。
亡くなるとか、生きているとか、そこらへんの違いは、私にはやっぱりよくわからない感じで、よくわからないというのが、本当は大事かなと感じます。

エレーヌさんのあの庭はよく覚えています。
長っぽそかったけれど、八畳ぐらいの広さはあったように思います。右にサルスベリの木があって、花が咲く時はピンクの花が咲いていました。その脇の壁の外には、大家さんのキウイの木の棚がありました。左には椿のけっこう大きな木がありました。初夏には毛虫がいっぱい付いて大変と言ってました。真中へんには杉だかモミだかの木がありました。
季節によっては、庭じゅうにドクダミの葉がいっぱいに広がっている時がありました。ドクダミはいろいろ使えますとエレーヌさんは言っていて、お茶にもなると言ってましたが、でもドクダミのお茶を飲む時はお店で乾いたのを買ってきて飲むと言っていました。自分で作るのは怠けますと言っていました。
夏とかは蚊がすごく多くて、蚊取り線香をあちこちにおいて座ったことがありました。エレーヌさんは、添加物のない蚊取り線香しか使いませんと言っていて、そういう蚊取り線香があるのかとはじめて知りました。いまはお客さんに私が教えたりしています。
私はあの庭とエレーヌさんを忘れないと思います。

将来、私はどうなるのかわからないけれど、もし子どもとかできたら、エレーヌさんのことを話して、ちょっと自慢するかも、と思います。孫なんかができても話すと思います。エレーヌさんの庭のことを話すおばあちゃんになって、子どもとか孫とかといっしょに、月のきれいな夜にしずかに座ったりできるといいなと思っています。




【管理者の注】
改行や若干の字句の修正を施して、掲載させていただいた。