2023/11/02

今年は13年目になるので、そろそろ、エレーヌの秘密を開示

                            駿河 昌樹  (Masaki SURUGA)


           


 エレーヌの命日を忘れることはない。

 ハロゥインにあたる10月31日が命日なので、あちこちの商店でハロゥイン関係のグッズが目に付きはじめると、またエレーヌの命日が来る、と思う。

 今年は13年目になるので、そろそろ、エレーヌの秘密を開示しはじめようと思う。


                 *


 たとえば、このブログ。

 いちおうエレーヌが始めたかのようになっているし、はじめて見る人には、エレーヌが運営しているかのように見えるだろうが、一から十まで、じつは私が作り上げたものだった。

 エレーヌが死ぬ前、ブログでも作って、彼女が書いた文章を載せておいたら?と聞いたことはある。

 エレーヌはそれに反対しなかったが、ブログとかインターネットというものについてのイメージを十分持っていなかったので、反対しようもなかったというのが本当のところだろう。しかも、ブログを作るとか、何らかの機械操作をするというようなことには、これっぽっちのセンスも能力も根気もなかったので、生き続けたとしても、彼女自身が作ることはあり得なかったはずだ。

 彼女の死後、なにか少しでも「エレーヌ・セシル・グルナック」なるものを残しておきたいという思いから、私ひとりでこのブログを始め、彼女の残した文章や、私が27年間に撮り溜めた写真の一部を載せていくことにした。

 多少の助力は受けたが、エレーヌのまわりにいた人たちは誰も手伝ってくれなかったし、ひろく呼びかけたのに、思い出を語る文章を寄せてくれるわけでもなかった。

 エレーヌのまわりにいた人たちは高年齢の人が多かったので、ブログにいろいろなものを載せて残す、という発想にはついてこれなかったようだが、なにか寄せてくれれば作業自体は私が行なうので、手間をかけることはない。

 それなのに、なにも寄せてくれないということに、じつは、私はかなりさびしい思いをした。

 エレーヌを知る数人だけで集まって、思い出を語りあっても、すべてはその場で消えていってしまう。ブログに載せれば、永続するとまではいかないとしても、少しは長く残るだろうし、かつてエレーヌに関わった人の目に留まることもあり得るだろう。

 そうした発想のない人たちが、エレーヌの知己のほとんどだったことが、この現代において、私にはさびしかった。

 しかし、私ひとりでこのようなブログを立ち上げ、維持してきたことで、数が多いわけでもないエレーヌの文章は、日本ばかりか、エレーヌに会ったこともない世界中のたくさんの人たちに読まれた。

 プルーストや、デュラスや、サガンや、カミュなどについてのそう長くない文章は、きっと、レポート提出をしなければならないような、世界中の学生たちの参考になったのだろう。ただならぬ閲覧数を記録することになったのだ。

 エレーヌの文章を見れば、添えてあるエレーヌの写真も自然と目に入ることになる。これによって、会ったこともない人たちに、1941年から2010年まで地上に滞在していたエレーヌの顔が認識されることになる。

 このことは、私にとって、ちょっとしたいたずらに似た、小さな愉しみとなった。「どうだい、エレーヌ? あなたは、死んだ後でも、こうして、あいかわらず、世界中の人びとに出会い続けるんだよ!」と、言いたくなるほどだった。

 このブログは、こんな私のいたずら心から継続されたと言っていい。


                  *


       


 以前にも、ちょっと書いたり、仄めかしたりしたことがあったと思うが、フランス人として日本に来て、東京に33年間住み続けたエレーヌには、私しか知らない生き方の秘密があった。

 それは、17歳年下の私との生活や関係を、他の人たちには一切秘密にし、それでいて、他の人たちともとても親しいかのように振舞うことだった。

 フランスの家族たちや友人たちには、私と一心同体であることを秘密にはしなかったが、日本人たちに対しては、私とのプライベートの関係はかたくなに秘密にした。

 このあたりのことは、いずれ、もっと詳しく書きたいと思うのだが、簡単に言えば、日本の文化を好んでいながらも、エレーヌは日本人の社会というものを警戒していたため、と言っていいとは思う。

 もう少しひろく見てもいいだろう。

 外国に住む場合に、その国の人びとをどうしても警戒しなければならない、という当然の認識を、エレーヌはつよく持っていた。

 ロシア語やロシア文学を専攻して、ソビエト時代のモスクワに留学した際、四六時中、エレーヌは監視係につきまとわれたと言っていたが、この経験が日本への警戒を生むことになったかもしれないし、さらには、フランスに移住してきたチェコスロバキア人の父とポーランド人の母を持ったことから来る、生まれつきの振舞いだったのかもしれない。

 ともあれ、エレーヌは、自分が教える学生たちや同僚たちから、ちょっとでもプライベートなことを探られるのを極度に嫌った。そして、たったひとりで暮らしていると見せたがった。私がエレーヌと暮らしはじめてから、約7年間は、かかってくる電話に私が出ることも許されなかったほどだ。まだ携帯電話などなかった時代なので、私あてにかかってくる電話ももちろんあったが、すべて、まずエレーヌが出て、取り次ぎをしたものだった。

 なによりも結婚を嫌い、「恋人」と呼ばれることも、「パートナー」と呼ばれることも嫌ったエレーヌは、私のことをフランス語で「コンプリス(complice)」と呼んだ。「共犯者」とか「加担者」と訳される言葉だが、世間に対しては秘密にしておくべきなにかの企てを、ひそかに遂行する仲間どうしとして、私たちの関係を見たがったらしい。

 エレーヌにとって、秘密にしておくべき、なにかの企てとはなにか。それは、世界や宇宙や運命の秘密についてのひろい意味での探究だったろう。エレーヌの関心の広がりと言動は、すべて、この探究への意志から来るものだった。


                  *


 けれども、エレーヌのこの極度の秘密主義は、彼女が末期ガンの宣告を受けた時から、私に過大な負担を追わせることになった。

 私ひとりでエレーヌの治療に関わる世話をするのなら、大変ではあっても、混乱の少ないシンプルなかたちを取ることができただろうが、エレーヌが多くの学生たちや友人を持っていたために、いろいろな人がエレーヌを助けようと押し寄せることになった。

 病状や検査結果や経済的側面などのすべてを私が把握し、さらに、フランスの家族や友人たちとの連絡もとりつつ、最良の治療を実現しようとするとなると、私は、病院や他のクリニックなどのあらゆるところに居合わせることになる。

 そうなると、見舞いに来たり、滋養強壮によさそうなものを持ってきたりするたくさんの人たちと、おのずと私は会わねばならなくなる。

 27年にわたってエレーヌの日本での実生活のさまざまを支えてきた私の存在を知らず、エレーヌがたったひとりで異国の日本で暮らしてきたというイメージを持っている人たちは、当然、あらゆる点で親密に保護者として動きまわる私の存在をいぶかしく思うことになる。

 しかも、エレーヌは、誰にも、一切、私のことをちゃんと説明しようとしなかった。「恋人」とも、「パートナー」とも言わない。

 エレーヌが説明しようとしないので、私もあまり言わない。私とエレーヌが、あらゆることを密にしゃべりあっているので、人びととしては、私たちがよほどの仲なのだろうと自然に推察することになったはずだが、私の一存で説明することに決めたところで、私たちが「コンプリス(complice)」であり、「共犯者」とか「加担者」なのだというところから諄々と語らねばならないことになるので、面倒くさ過ぎた。


                  *

 

 こんなあり方を基本としながら、私とエレーヌは、彼女の死まで27年間関わり続けたのだが、いっしょに住んだのは16年間で、途中からは別々に暮らすことになった。

 1998年頃、50代も終わりに近づいたエレーヌは、それまで続いていた私との共生をやめたいと求めてきた。ふたりでいると、どうしても生活時間のズレが起こり、彼女が打ち込みたいヨガの家での練習や、読書や執筆に集中できない、というのだった。

 エレーヌは少しの物音や気配でもすぐに目覚めてしまうところがあったので、彼女が寝室で寝ている時に、私が別室で夜中にものを書いたり、作業したりするのが非常に邪魔にもなった。

 私は、ふたりでいっしょに住んでいた世田谷の代田の家のごく近く(4,5分ほど)に、1990年から30平米ほどの書斎を構えるようにしていたので、エレーヌのこの提案を機に、そちらに住むことにした。

 エレーヌと別になってこのように私が暮らすことになったので、ふたりが不仲になったかのように思う人がいるが、それはまったく違う。いわば、4,5分ほど離れた部屋に住むことにしながら、生活はいっしょにしているようなものだった。

 以後は、私が自分の住む部屋でふたり用の夕飯を作ることが多くなり、エレーヌは仕事帰りに私の部屋に寄って食べていくようになった。

 エレーヌは、自分の住まいのガスを使うのに、ひどく古いタイプの、ひとつしかヤカンや鍋を乗せられないガスコンロを使い続けていて、ふつうの家庭に普及しているようなガスコンロを使いたがらなかったので、焼き魚などはやりづらかった。煙が出るし、まわりが汚れるのをエレーヌは嫌った。

 東京ガスがなにかの点検でガス台を見に来ると、「今どき、よくこんな古いのを使ってますねえ」と感心して帰っていったものだった。

 しかし、私の住まいにはふつうのガスコンロを買って設置してあり、焼き魚用の設備もあったので、秋になると秋刀魚を焼いたりもできるし、他の魚を焼くこともできる。

 おかげでエレーヌは、私の住まいで、はじめて、家庭で焼く秋刀魚の味を知った。それまでは、秋刀魚やサバなどは、定食屋(主に下北沢の「千草」や、その他の定食屋)で食べるだけだったので、毎晩のように私の住まいで食べられるのを非常に喜んだものだ。

 他方、エレーヌは、たとえば電球を取り替えたり、パソコンを調整したりするような作業が一切できなかったので、私はたびたびエレーヌの住まいに出向いて、そうした家の中での小さな作業をやり続けた。

 冬になればエレーヌは石油ストーブを使ったので、石油缶を持って近くのガソリンスタンドに灯油を買いに行くのも私だった。あの重い石油缶に灯油を満たして、腕に下げてエレーヌの家まで運ぶ苦しさが、今となっては懐かしい。

 飼っている猫の餌ばかりか、周囲のあちこちにいる野良猫たちに、エレーヌは毎晩、餌をやりに回っていたので、猫の餌を大量に買い続けたが、それを買いに行くのも私だった。土曜日や日曜日に猫の餌が特売になったりすると、大きなリュックを背負って、三軒茶屋の店までたくさん買いに出る。猫缶を50個や60個、くわえて「カリカリ」と呼ぶ乾燥した餌の大袋をリュックに入れて帰ってくるようなことがよくあった。

 逆に、エレーヌのほうでも、ライ麦パンや胚芽パン、菓子パンなどを買って、私の住まいに持ってきてくれたりした。エレーヌは、学生たちからいろいろな食べ物をもらうことも多かったが、食の細い彼女には多すぎたりしたので、よく私に分けてくれた。

 このようなことは、人に話す機会もないし、話すとなると時間もかかるので、まず誰にも言わない。そのため、非常に親密なのに、私とエレーヌがもういっしょに住んでいないことについて、いろいろ噂されるようなこともあったとしても、放っておくことになった。私たちふたりのことについては、他人には一切話す必要はない、というのがエレーヌの考え方だったので、誤解を解こうともしなかった。なにかヘンに勘ぐる人や、気にする人は放っておいたり、軽蔑するというのが、エレーヌの流儀だった。


                 *


 エレーヌが死んで13年間、私も、かなりたくさんのことをしゃべらないできたし、開示しないできた。

 彼女の病気治療の時期、いろいろな人たちが入れかわり立ちかわり周囲にやってきて引き起こし続けた人間ドラマには、ずいぶん困らされたものだったが、これについても、そろそろ、黙っている必要もなくなってくる頃だろう。

 登場人物たちも、かなり死んでしまったり、音信不通になってしまったりしているので、ようやく、本当のことを開示してもよくなってきた。

 ここに少しずつ書くかもしれないし、他のかたちで書くかもしれない。


                  *


 以前も出したことがある写真だと思うが、これは、フランスのロゼール県の彼女の故郷、サン=シェリー・ダプシェ(Saint-Chély-d'Apcher)にあるグルナック家の墓所の前に立つエレーヌ。
 エレーヌの遺骨は、いま、この中にある。
 が、頭蓋骨の一部、鼻から目元や、額の骨の一部は、分骨して、私の部屋にずっと置いてある。
 つまり、エレーヌの身体的存在は、物質的に、ずっと日本にあり続けている。



 



 また、これも以前に載せたことがあるが、エレーヌが書いた短文のひとつ。
 日本で暮らしはじめた当初に、日本での保証人になった立教大学の哲学の教授、加藤武氏の退職記念文集に載せたもの。
 エレーヌがフランス語で書いたものを、私が日本語に直した。エレーヌは、自分が書いたかのように、ややぎこちなく和訳してほしいと頼んだので、そう心がけて訳したものだった。
      


2022/11/01

エレーヌ・グルナック、没後12年

 

            故郷、サンシェリ=ダプシェで。


           エレーヌは毎日占いをやっていた。

           トランプ、水晶の振り子、易、その他

           いろいろなカードを用いた。

           これは、旅の宿でタロットをやっている時。



         大学の授業の後で。1990年代かと思われる。




            沖縄か奄美か九州の旅行の際に立ち寄った家で。

        初対面のこの老婦人に非常な親しみを感じたそうだが、

       「わかります。だって、他の人生で会っていますからね」

         と、老婦人はエレーヌに言ったという。


       まだJRが国鉄だった頃の飯田橋駅前で。

       撮影は、立教大学講師だったアラン・コラAlain Collas氏。

       のちに、東京芸術大学の専任になったコラ氏は、

         日本仏教に通暁していて、

                         日本人でも読むのに苦労する漢字の仏典などをすらすら読めた。

       エレーヌとは、パリの東洋語学校での学生時代に知り合っていた

       旧知の仲である。



            世田谷区代田の家の近くの公園(代田1-21)で。

        毎晩、この公園に行き、野良猫たちに餌をやっていた。

        写真を撮った女性は、やはり猫好きで、

        野良猫に餌をやってまわっていて、エレーヌと知り合った。

        難病を抱えていて、たびたび卒倒したり、危篤状態に陥った。

        エレーヌの死後、時々、私は連絡をし合っていたが、

        数年前に絶えた。

            その女性は、Facebook上では、Mary Goshの名で

        主に自分の飼い猫の写真を投稿していたが、

                             2018年10月7日を最後に、更新は途絶えた。



 エレーヌが亡くなって12年になる。

 12年も経つと、さすがになにか一巡したような感じもあり、悲しさや喪失感のようなものはない。

 輪廻転生を信じていたエレーヌのことだから、どこかに転生しているに違いないとも思う。もし本当に転生していれば、エレーヌがいなくなったのをいつまでも惜しみ続けるのは、転生後の新しい生に対して差し障りがあるのではないか、とも感じる。

 エレーヌのまなざしの強さは特徴的だったので、世界のどこかにいる、10代の子や、もっと小さな子のまなざしを見れば、エレーヌの生まれかわりを見つけられるような気もする。

 たまたま女性として生まれてきたものの、性質は男性のようなところがあり、冒険家の気質の強かったエレーヌなので、次の人生は男性として生まれてきているかもしれない。

 私が会った頃以降のエレーヌは、女性的な服装を嫌っていた。1980年代まではスカートを穿くこともあったが、だんだんと減り、やがてパンタロンやジーンズしか穿かなくなった。上はいつもTシャツになった。

 亡くなった時も、棺桶に入れる際に、服のことでは少し困った。正装のようなものや、小ぎれいなものを一切持っていなかったからだ。しかたなしに、黒いTシャツの比較的新しめのきれいなものを遺体に着せた。もちろん、そういう姿のほうがエレーヌらしかった。

 服装もそうだが、女性の生き方として、貴族のような生き方やブルジョワジーのような生き方を忌み嫌っていた。王侯貴族の生活は、他の人生でさんざん経験してきた実感があるから、と言っていた。豪華な物に取り巻かれていても、自由のない生活は、想像するのも嫌だと言っていた。貧乏なぐらいでも、自由でいることがいちばんの喜びだった。1941年に生まれて、2010年に死ぬという今回の人生のプログラムにおいては、そういう人生をかなり実現できたと言えるはずだ。

 それでも、過去世の王侯貴族の生活に、時々懐かしさも覚えるのか、シシィと呼ばれるオーストリア皇后エリーザベト・フォン・エスターライヒへの興味は強かった。従甥にバイエルン王ルートヴィヒ2世を持つシシィに興味を持つのは、女性にありがちなロマンティシズムとも言えるが、シシィは本当にかわいそうだと言いながら、いろいろな本を漁るエレーヌには、別の理由や視点があったように見えた。

 古代エジプトの王女ネフェルティティへの関心も強かった。

 古代エジプトで生きていた感触をエレーヌは強烈に抱き続け、終生、エジプトにこだわり続けた。古代エジプト研究家の酒井傳六氏と交流があり、著書も貰っていた。夫人にフランス語を教えていたことから、酒井傳六氏その人にも接することになった。酒井氏は外語大仏語科卒でフランス語ができたし、朝日新聞社の特派員としてエジプトに居たこともあった。

 エレーヌは、古代のどこかで、原子力の研究者だった過去が自分にあると、つねづね言っていた。核に関わる事故に遭ったことや、秘密が洩れないように生き埋めにされて殺された記憶を強く持っている、と言っていた。古代エジプトにそのような事跡があったかどうか知らないが、エレーヌは、その経験はエジプトだったと言っていた。


 エレーヌについて、このブログに書く機会も減ったが、エレーヌのことを思わなくなったわけではなく、私は毎日、エレーヌに線香と水を供えて礼拝をしている。そのため、あまりに身近すぎて、わざわざ、いろいろなことを文章にする必要を感じない、というほうが正しい。

 エレーヌが語る形式で、1982年時点の世田谷区池の上での彼女のひとり暮らしの生活について、小説も書きはじめており、私の中では、むしろ、エレーヌはもっと近い存在になっている。

 今回、すこし珍しい写真を掲載してみたが、エレーヌに関する写真は多量にあって、いまだに未整理のまま、押入れに入れてある。ちょっと取り出してみるだけでも、すぐに半日は潰れてしまうほどなので、忙しい身としては、それらに触れるのが億劫になってしまうのだが、すこしずつ分類や整理をしていきたいとは思う。

 写真をこのブログにももっと載せていきたいとも思うが、なにぶん、プリントされたものをカメラで撮り直す必要があり、光沢のあるプリントの場合は写り込みもあって、容易ではない。

 それでも、すこしずつ進めていこうとは思っている。


 駿河昌樹

 

2022/03/18

1983年3月18日16時

 





 

 駿河 昌樹 (Masaki SURUGA)

 

 古い手帖を整理していたら、過去の記念日をメモしたページが出てきた。

 ひさしぶりに、1983年の3月18日のことを思い出した。

 

 その日、1983年3月18日の夕方4時、新宿紀伊國屋本店の洋書の階で、エレーヌと待ち合わせしていた。

エレーヌと、はじめてふたりだけで会うことにした日だった。

 

彼女とは、その数年前に鎌倉で出会っていた。

大学の哲学の先生が、学生たちを集めて鎌倉散歩を催した時に、先生の知りあいということでエレーヌも来た。

日本語とフランス語とでいろいろ話したが、それだけのことだった。

こちらもフランス文学や哲学を学んでいたし、のちのち役に立つこともあるかもしれないので、電話番号だけ聞いておいた。

しかし、それっきり、何年もエレーヌのことは忘れてしまっていたし、電話をかける必要もなかった。

 

1983年の3月のある日、眠りから覚める時に、男のはっきりした声で、宙からこう言われた。

「エレーヌさんに電話しろ! すぐエレーヌさんに電話しろ!」

冗談のようだが、本当の話だ。

その日のうちに電話した。

今日や明日は用事があるので、それでは18日に、とエレーヌが決めた。

 

1983年の3月18日、シャツの上に白い厚手のセーターだけを着て、ぼくは出かけた。ジャケットを着るほど寒くはなく、また、ジャケットを着ると暑すぎると感じる日だった。

新宿紀伊國屋には、すこし早めに着いた。

地下の奥にトイレがあるので(今でも、まったく同じかたちである)、先に寄っていこうと思った。

2階へ上るエレベーターをふと見ると、上がっていくエレーヌの背後が見えた。

あ、エレーヌさん、来たんだな。あまり待たせないようにしないとな。

そんなことを思いながら、ぼくは地下のトイレに向かった。

 

すこし後で、たしか当時は8階だったと思うが、洋書の階に上がっていくと、エレーヌはフランス語の雑誌を読みながら待っていた。

 

きょう、2022年3月18日、こうして39年前の3月18日のことを、ありありと思い出してみている。

おととい、まったくの偶然から古い手帖を整理していて、3月18日という特別の日を思い出したのだが、きっと2010年に死んだエレーヌの側から、懐かしみの波が下りてきたのだろう。

 

このことを人に話す時には、なんどもくり返してきたが、目覚める時に男の声で、

「エレーヌさんに電話しろ! すぐエレーヌさんに電話しろ!」

と強く命令されたのは、本当のことだ。

エレーヌに電話した時も、

「こんなことを言うとヘンに思うでしょうけれど、男の声に命令されたんです。あなたにすぐ電話しろ、というんです・・・」

と、奇妙な言いわけめいたことをしゃべった。

カミュの『異邦人』のムルソーの名文句、「私のせいではないんです」のようなことを自分が言っているな、と思った。

エレーヌは、このことをまったく疑わなかった。

「この世ではいろいろなことがあります」

不思議な話が出ると、彼女はいつもこう言ったし、この態度は死ぬ時まで変わらなかった。

 

じつはエレーヌのほうでも、ぼくの出現を予期していた。

だれか、若い男が近づいてくる、という強い予感があって、トーマス・マンの『ベニスに死す』を読みながら、そうした出現を確認しようとしていた。

もちろん、ぼくのほうは、あの小説の美少年タッジオとは比べるべくもなかったけれど、エレーヌにとって決定的な存在となる点だけは、共通していたといえる。

エレーヌは定期的に霊能者のところに通っていて、いろいろと導きを受けていた。

その人のところへは、ぼくも何度か言ったことがある。

六本木の、俳優座劇場やアマンドのある交差点から、防衛庁本庁檜町庁舎(現在の東京ミッドタウン)を過ぎていったあたりのマンション内の一室を祈祷所としていて、神林栄風と称していた。

マンションは、たしか現在もあるフォンテ六本木か、その隣のマンションだったと思う。エレーヌと行った時、隣りあうマンションのどちらだろうか、と何度も迷った経験がある。

ひとりで生きるのがエレーヌ自身にはふさわしく思え、とてもではないが、男性とはつき合えないし、ましてや、いっしょには暮らせない、と、その霊能者には言っていた。

しかし、神道系のその女性霊能者は、

「それはあなたの自由ですが、その人とつき合わないのはとても残念です。何度もの生まれかわりの中での、たいへんな損失となります」

と、むしろ、後押しするようなことを言った。

 

エレーヌが、男性と関わるのを逡巡するのには、理由があった。

過去にふたりの婚約者がおり、破談にしていたのだ。

どちらもパリの大学の医学部で知り合ったフランスの医学生で、裕福な家の息子たちだった。ふたりとも、後に医師になった。

つき合いを申し込んでいた男たちはさらに多かった。中には、城や屋敷を持っている老人もいて、レストランで食事をするたびに、宝飾品をプレゼントしようとした。

しかし、エレーヌが20代や30代だった時代、フランスでさえも女性はそう自由ではなく、裕福な家に嫁いだら、義母や家のしきたりの奴隷になる他なかった。

婚約者のひとりはベトナム人で、結婚したら大家族をエレーヌに任せたい、特に、もちろん父母の世話を見てもらいたい、と言っていた。

もうひとりの婚約者はフランス人で、その母親とは気が合ったが、それでも家に招かれてのディナーの際には、バナナや桃を出されて、それをナイフとフォークでうまく剥いて食べられるかどうか、エレーヌに試験したりするのは当たり前だった。

なにより自由を求め、じぶんの好きな勉強や読書や映画や観劇を続けることを大事にしたエレーヌには、このふたりの婚約者たちの家のどちらも、耐えがたかった。

 

そんなエレーヌが、完全に生き方を変えることになるのが、1983年だった。

41歳だった。

ぼくのほうは23歳。

日本在住のフランス人やヨーロッパ人たちの間では、18歳の歳の差のあるぼくらは、奇跡的なカップルの象徴と見られていた。

エレーヌの親しかったフランス語教師ジョルジーヌ・ヴィニョーや、ラ・クロワ紙の特派員で、ジョルジュ・ビゴー展を企画・主催したエレーヌ・コルヌヴァンなどとは年中会っていたので、彼女たちがどんどんとぼくらの話を広げてもいた。

ジョルジーヌは、画家で、西武百貨店のパリ事務所のメンバーのひとりだった岩田滎吉(エルメス、ヴィトン、サンローランなどのブランドの日本への導入に力があった)や三宅一生のフランス語の先生でもあったし、1980年代まででは、東京では有名なフランス語教師だった。ジョルジーヌのところで時々開かれるパーティーでは、今も岩波文庫にラ・ロシュフーコーの翻訳がある二宮フサさんもよく来ていた。渡辺一夫の後継者であるフランス文学者二宮敬の妻で、当時は東京女子大の教授だった。

 

 1983年3月18日は金曜日だった。

 金曜日の夕方の新宿は、人通りが多かったように記憶している。

 最近のインターネットというのは便利なもので、この日のことを調べると、何日が経過したかさえ出てくる。

 14245日が経ったらしい。

 そんなに経ったか、と思う。

 それだけしか経っていないのか、とも思う。

 

2021/11/01

エレーヌ・グルナック、没後11年


 











 エレーヌが亡くなって、11年が経った。


 亡くなった2010年、インフルエンザが大流行していると言われていたので、抗がん剤治療で免疫力の落ちているエレーヌは、外出時にマスクをすることが多かった。

 2020年から2021年は奇妙なマスク時代となってしまったので、それにあわせて、今回はマスク姿のエレーヌの写真をいくつも挙げておこうと思う。

 

 Tully’s coffeeを前にした写真は、201064日のもの。

 渋谷の古い東急プラザの1Fの風景。

 すでに取り壊され、さらに新築ビルも完了して、今では全く異なった風景となっている。

 この日は、市ヶ谷の「健康増進クリニック」へ高濃度ビタミンC注射を受けに行った。

 駒沢の「東京医療センター」で主要な治療を受け続けていたが、それに加えて、こうした周辺的な治療も受けていた。「健康増進クリニック」での高濃度ビタミンC注射、「瀬田クリニック」でのがん免疫細胞治療療法、さらに漢方療法などだった。

 64日は渋谷で待ち合わせし、そこからタクシーに乗って市ヶ谷に向かった。

 エレーヌは、このしばらく後、急に体力を失い、歩くこともできなくなっていくが、この日はまだ普通に歩けていた。

 

 写真のこの日よりもだいぶ後のことだが、エレーヌが歩けなくなった瞬間に私は居合わせている。

 やはり、市ヶ谷の「健康増進クリニック」に行った時のことだった。治療を終えた後、靖国通りを駅近くから日大方面へ上っていく途中、舗道でエレーヌが立ち止まって、動けなくなってしまった。

「健康増進クリニック」の治療の後は、この通り沿いにあるドトールコーヒーに寄って、コーヒーとサンドイッチを頼むことが多かったので、その日も店に向かうところだった。

 立ち止まってしまったところからもう少しの場所に、ドトールコーヒーの店はある。店まで着いて、座って少し休めば体力も戻るのではないかと思ったが、もう全く歩けない、とエレーヌは言う。舗道に立ち止まっているのが精一杯だ、と言った。

 しかたなく、そこでタクシーをつかまえ、入院していた駒沢の東京医療センターまで戻ることにした。

 

 その頃、エレーヌには腹水が溜まるようになっていたが、その量も増え、衰弱が進んで、ずっと夏じゅうを病院で寝て過ごすことになった。

8月半ばから回復し始め、リハビリも行って、8月末に奇跡的に退院するに到った。

 以後の約50日間は、リハビリを続けながら家で過ごし、少しずつ元気になっていくかに見えたが、10月半ば頃から、ふたたび徐々に動きづらくなり、1020日に、急遽、入院することになった。

 1030日に季節はずれの台風14号が東京を吹き荒れた。それに伴う気圧の変動なども影響したのだろうが、台風の日は一日中、エレーヌは眠り続けた。

そうして、1031日の3時頃には危篤状態に陥り、7時10分に亡くなった。

 

私は、家の固定電話番号も、携帯電話番号も、同じ書類に記して「東京医療センター」に伝えてあったが、3時以降に何度も危篤を伝えるべく病院が電話してきた先は私の携帯電話のほうで、家のほうには一度も掛けてこなかった。

就寝時は、眠りの邪魔にならないように、私は寝室から離れた書斎に携帯電話を置いておくようにしていた。家の固定電話のほうは寝室に近いので、そこに掛かってくれば、すぐに目覚めたはずなのに、そちらのほうは一度も鳴らなかった。

エレーヌの臨終に立ち会ったのは、主治医ではなく、当直の若い医師で、私の携帯電話に電話していたのも、その医師だったらしい。

その若い医師がエレーヌの担当になった際、エレーヌは私に、その医師が気にくわない、この人はなにかよくない、とたびたび言った。

別にこれといった問題はないのではないか、と私はエレーヌに言ったが、最期にあたってのこの連絡の不手際で、エレーヌが感じていた何かを悟ったように思った。

エレーヌの最期にあたって、彼女の臨終に友人知人の誰ひとり立ち会うことができなくなるような不手際をこの医師が引き起こすことになるのを、たぶん、エレーヌは予感していたのだろう。

 

 その頃、私は北区の王子神谷に住んでいた。駒沢の東京医療センターまでは、急いで行くにしても、タクシーでながながと環状七号線をまわって行くことになる。東京医療センターに着いて、エレーヌのいる病室に入ったのは、7時40分だった。私が電話でエレーヌの危篤を伝えておいた、近在のエレーヌの友人の於保好美さんは、自転車を走らせて先に着いていたが、それでも臨終には間に合わなかったという。

 ベッドに横たわったエレーヌに、「エレーヌ・・・」と声を掛けると、エレーヌの閉じられた目から涙が流れたが、亡くなったばかりの人の目からはよく涙が流れるということなので、そうした反応の結果の涙に過ぎなかったかもしれない。それでも、死に目に間に合わなかった私たちがようやく来たので、流れ出た涙であるかのように、私には見えた。

 

 死の床でエレーヌが着ていたのは、ユニクロ製のロイ・リキテンシュタインのTシャツだった。私が使っていたものを、入院中のエレーヌに使わせようと持って行ったうちの一枚だった。

 急に危篤に陥る際、エレーヌは他のものを着ていて、その上に黄土色のカーディガンを着ていたらしいが、意識を失って失禁し、汚れてしまった。看護師が着替えさせたらしい。汚れたものがビニール袋に入れて置かれていて、洗えばまだ使えただろうが、そのまま捨てることにした。

 遺体を柩に入れる際に、いくらかは正装っぽい黒いTシャツなどに着替えさせたので、ロイ・リキテンシュタインのTシャツは脱がせて、ふたたび私の元に戻ってくることになった。

 11年経ったが、私はまだ、そのTシャツを使っている。首元などが古びて、緩んできたが、家の中で、どうでもいい格好になって着る分には、まだ使える。使うたびに、エレーヌの最期の姿を思い出すが、べつに気にもならない。ぼろぼろになるまで、使い続けるだろうと思う。



  
 201064日の、移動中のタクシーの中での写真も掲載しておこう。
 あまりこのブログなどには載せなかったものだ。
  
 当時、エレーヌに付き添ったり、介護したり、荷物を持ったりしながら、私はいつも一眼レフを持って、エレーヌを撮り続けていた。
 誰よりも健康で、身体も強ければ、エネルギーもあったエレーヌが本当に死ぬなどとは思っていなかったが、それでも末期ガンと宣告されていたので、少しでも多くエレーヌの姿を撮しておきたいと思っていた。
 そう重いカメラではなかったが、他の荷物にあわせて嵩張るカメラをいつも持ち歩くのはけっこう難儀で、楽ではなかった。が、初代のiPhoneが出始めた頃とはいえ、今のようにスマートフォンなどあまり出まわっていない時代だったので、写真撮影をするとなれば、カメラを持ち歩く他はなかった。

 今から見直すと、よくもたくさん撮ったものだと思う。
 そこまでして撮る必要があったのか、と、当時も思ったし、その後も思った。
 今になってみると、カメラを持ち歩く面倒臭さも煩わしさも消えて、撮った写真は、エレーヌという人、彼女がいたあれらの時間、エレーヌがいたということなどへの貴重な入口として、当たり前に、あるべくして私の手元に残っている。
























                              駿河昌樹 記




2020/10/31

エレーヌ・グルナック没後10年

 


1996年8月3日、故郷ロゼール県サン=シェリー・ダプシェでの姪の結婚式で。
昨年も使った写真だが、なぜか同じものを使いたくなったので。


   

   駿河昌樹

(Masaki SURUGA)



   10月31日。

 エレーヌが亡くなって、10年が経った。 

 生きていれば、78歳から79歳になろうとするところだが、死ぬということは、この「生きていれば…」が、いかなるかたちでも無くなってしまうことなので、78歳だの79歳だのはエレーヌには永遠に縁がない、と思っておく必要が、たぶん、ある。

 エレーヌは霊の話を格別好んだが、その系統の話には、人が死ぬと、いちばんその人らしい年齢に戻っていくというものがある。68歳で死んだエレーヌが78や79歳になるのを受け入れるはずはないだろう。霊としてのエレーヌは、1977年に日本に上陸して以降の年齢を選ぶのではないか。30代後半から50代のあたりの姿であろうとするのではないか。そんな気がする。

 

それにしても、幸せな人生を生きた人だった。1977年から2010年までの日本がどれほど恵まれた時代だったか、今からふり返ればはっきりする。

彼女が自分のものとした33年間のあいだの東京には、中小の地震や台風、大雨、大雪、水不足のようなものはあったにしろ、社会の根底から揺るがされるような激変はなかった。

東日本大震災、原発破損とその後の甚大な放射能汚染(いまだに、福島原発事故の緊急事態宣言は出続けたままだ)、放射能汚染を大がかりに誤魔化すために推進されたオリンピック準備、安倍政権下のひどく偏ったバブル状態、値上げばかり続く一方での賃金上昇の消滅、派遣社員の増大、軽佻浮薄になり、奇妙なところで神経質に優しさを誇示するような世相の異常化、見え隠れするさまざまなかたちでの人心の荒廃、そして、今回の新型コロナ・ウイルス騒ぎ等など、これらをみな、エレーヌは一切経験しなかったのだ。

 修行のようなもののためか、それとも気まぐれな異界への小旅行のためか、ひとりの人間が、ある長さに定められた地上滞在をしにこの物質界にやってくるのだとすれば、大地震や原発事故や新型コロナ・ウイルス騒ぎなどのない部分を「人生」の時間として選んだほうが、面倒が少なくて、お得というものだろう。

 エレーヌは、彼女の「人生」として、そういう時間を選んだ。

 本当にお得に、極上の時間を選んで、地上滞在をしていった人だった。

 

エレーヌ自身の人生全体のスケールで見ても、1941年に生まれて、2010年に死ぬまでというのは、青春期以降を、おもに第二次大戦の後の世界的な復興や高度成長の時代の流れに乗って生きられる時期だったので、追い風というか、上げ潮というか、個人ひとりの力量を超えたエネルギーを利用しながら、個人の人生経験を豊かにできる数十年間だった。

 

 この「エレーヌ・グルナックの思い出」というブログは、亡くなったエレーヌを偲ぶために始められたので、ここでは、2009年に急に末期ガンを宣告されてからの彼女の闘病の様子を語ったり、死の前後の様子を語ったりすることが多かった。このブログを読んだ人たちには、エレーヌの不幸な面の印象を与えてしまったかもしれない。

だが、生涯、誰よりも健康で頑強でもあったエレーヌの人生を思えば、じつは病気の期間は晩年の1年半ほどだけで、それ以外の66年半は全くの病気知らず、不調知らずの人生だった。

 

 


2019/11/23

エレーヌの78歳の誕生日とエレーヌの撮った写真


代田の自宅の庭で。
2003年頃の冬?
エレーヌ自身が小型カメラで撮影。
87.6と写真にあるのは、カメラの日時記録の故障。


 駿河昌樹
(Masaki SURUGA)

 エレーヌは1941年11月22日生まれなので、生きていれば、きのうで78歳になったことになる。
 11月22日といえば、フランスのド・ゴール大統領と同じ誕生日だし(1890年)、なにより、アメリカのケネディ大統領の暗殺された日で(1963年11月22日)、生前は、この日がめぐってくると、年中行事のようにこれらのことがエレーヌとの会話に上った。
 ナチスに対して抵抗し続け、戦後はアメリカ覇権に抵抗し続けたド・ゴール大統領は、20世紀のフランスの超重要人物で、もちろんエレーヌは、とりあえずは彼とは何の関係もないわけだが、それでも少女時代、エレーヌは、ド・ゴールと握手したことがあると、ちょっと誇らしげに私に言うことがあった。エレーヌの故郷のロゼール地方に、戦後、地方遊説かなにかでド・ゴールが来たことがあって、その時に道に並んで見ていたエレーヌも、たまたま握手したのらしい。

 毎年のエレーヌの誕生日頃には、どんなことがあったのだろう、どんなことをしていただろう、と古い手帳を見ながらふりかえってみると、30年ほどの手帳が残っているので、あまりに多くのことがよみがえってきて、困ってしまう。
 誕生日だからといって、パーティーのようなことをするのは好まないエレーヌだったし、たいていの時はふつうに仕事で忙しく日を送っていたので、これといったことをするわけでもなかった。
 ○○歳になったね、とか言うと、「あああ、イヤです」とか答えていたように思う。若いことへの愚かしい信仰のようなものはなかったと思うが、やはり、歳をとっていくことは快くは思っておらず、せめて心身は若く保っていたいという気持ちは、おそらく、だれよりも強く持っていたように見える。少なくとも、老いもよいものだ、などという考えは、まったく持っていなかった。老いていくのはしかたないとしても、それには負けたくないというのが、エレーヌのふだんの考えだったように思う。

 2004年の11月22日、誕生祝いにと思って、私はひと鉢のポインセチアを買って、エレーヌの家に持って行った。エレーヌは仕事に出ていて不在だったので、居間に置いてきた。
 エレーヌは、家の中を植物でうまく飾るような気質に欠けていたので、冬などは室内がすこし寂しくなる。ちょっとは植物のグリーンがあってもいいのではないか、と私は感じていた。その頃三軒茶屋に住んでいた私は、ふと思いついて、近所の花屋でポインセチアの元気そうな鉢を買って、わざわざ歩いて届けに行くことにしたのだった。
 夜になって、エレーヌから電話が来て、ポインセチアを置いていったのは私か?と聞かれた。冬だし、誕生日だから、赤とグリーンであかるい感じになっていいと思って…と言うと、ポインセチアは大嫌いなので困る、本当にイヤです、などと言われた。
 ずいぶん長いつき合いながら、このことは知らなかったので、ああ、そうなの、悪いことをしちゃったね、と答えておいたが、こちらも忙しいなかで、わざわざ鉢を選んで、エレーヌの家まで行き来して2時間ほどは費やしたというのに、ありがとうのひと言くらいあってもいいようなものなのに、とちょっと不愉快になった。
 エレーヌは、薔薇は大好きだったし、あざやかなピンクのツツジも大好きだったし、梅も桜も好きだったので、花の少なくなる季節にすこしでも色どりを、と思って、ポインセチアを送ったのだが、花というよりは、あの葉っぱに色のついただけのような嘘っぽい形状が、花好きのエレーヌを苛立たせたのかもしれない。

 ともあれ、誕生日にエレーヌになにかをあげるというようなことは、この時を機会に、すべて終わりにすることにした。だいたいエレーヌという人は、ケーキは嫌いだし、お菓子も嫌いだし、チョコレートは大好きだったが、それも、甘くない、カカオの純度の高いものに限っていて、本人がしっかり選んで買ってきていたので、お祝いのプレゼント的なものではいけない。そうなると、プレゼントとしては薔薇あたりが適当だということになるが、11月の終わり頃では、保ちのよい良い薔薇も少ないので、あまり積極的に買う気になれない。こう考えていくと、けっこう面倒くさくて、気が乗らなくなっていったのだった。

 2008年の11月21日の手帳の欄には、来週にエレーヌと上野の西洋美術館に行くので、今日は行かない、とのメモがある。翌日の誕生日を意識して、そのあたりの日にいっしょに行こうと考えていたものらしい。
 翌週の28日(金曜日)にはエレーヌと上野に行き、西洋美術館で「ヴィルヘルム・ハンマースホイ」展を見た記録がある。この後、世田谷に帰ってきて、三軒茶屋のすずらん通りにあった定食屋「はとぽっぽ」で定食を食べた。エレーヌはたぶん、肉野菜炒めか野菜レバー炒めかなにかを取ったはずだが、ときどき入ることにしていたこの店では、エレーヌは特別に頼んで、肉や野菜を除いてただの野菜炒めにしてもらっていた。
 今もこの店はあるかな?と思って調べてみたら、2016年10月27日に閉店したのだという。創業1977年で、39年ほど続いていたらしい。エレーヌの死んだ後、6年ほど生きのびていたわけだが、三軒茶屋を離れた私も、もう行かなくなっていた。
  https://kaiten-heiten.com/hatopoppo/
 
 「はとぽっぽ」の閉店を知って、そういえば、1980年代や90年代にたびたびエレーヌと行って食べた下北沢の定食屋「千草」はどうしただろう、と思い、調べてみると、「千草」のほうも2013年3月31日に閉店したのがわかった。家で魚を焼いたりしなかった頃の私たちは、「千草」で焼きサンマ定食や、サバ味噌定食、ブリ照り焼き定食などを食べるのを楽しんだ。惣菜も充実していて、エレーヌはよくヒジキやレンコンを注文したりしていた。私たちは常連だったので、元演劇女性たちだったらしい店主や他の個性的なおばさんたちといろいろ話したりして、楽しい店だった。
  https://love-shimokitazawa.jp/archives/3206

 下北沢には、エレーヌの好んだ自然食レストラン「ありしあ」もある。そちらのほうは現在もやっているそうで、食べログなどにも載っている。
  https://tabelog.com/tokyo/A1318/A131802/13087312/dtlphotolst/1/smp2/



 さて、今回のページには、エレーヌ自身が撮った写真も数枚出しておこう。

 猫好きが嵩じてきたエレーヌに、私の小型カメラをひとつ持たせて、写真を撮らせてみたことがあった。
 ただシャッターを押すだけの、扱いの簡単なカメラだったが、それまで一度もカメラを使ったことのなかったエレーヌが撮ると、驚くほど下手くそで、この人はカメラに関しては本当に才能がないんだなぁ、と逆の意味で感心させられた。
 ここに載せるのは2003年頃の写真で、なんだかなぁ…という写真の中でも、まだしも見られるものを選んだ。カメラの日時記録機能が壊れていて87年となっていたりするが、写真に印字されている年や日は間違っている。
 下手とはいえ、エレーヌ自身が見て、わざわざ撮ろうとした光景がそこには定着されているので、その意味では、エレーヌの目を体験できるものだとはいえる。家にずっと居た主のようだった雌猫ミミ以外に、エサをもらいにいろいろな猫が来るようになっていた頃で、寝室に入っては畳の上や布団の上で休んで行ったり、玄関わきの自転車置き場ではエサを食べて行ったりしていた。
 冬の日、庭の物干し竿に洗濯物を干しているのを撮った写真もあるが、試しに撮ってみたものだろうか。猫も写っていないし、なにを狙って撮ったのかわからないが、寝室から外を見た時にふつうに目に入るなんでもない風景が定着されている。今になって見てみれば、逆に、とても懐かしい、二度と見直すことのできないもので、これがエレーヌの視覚的日常だった、と、あらためて思う。
 エレーヌの生きていた頃の、代田1丁目7-14の、冬の暖かめの日の光景が、ここにはある。








2019/11/05

世界中で見られているエレーヌのこのブログ






  駿河昌樹
  (Masaki SURUGA)


 すこし楽屋裏のお話をしようかと思う。
 ここに載せたのは、このブログの今日時点での閲覧状況。
 2010年に開始して以来、どれだけ見られてきたかが、だいたい、わかる。
 イタリアよりも少ない数字もたくさん並ぶが、表の表示の都合でぜんぶは見えていない。

 有名人でもなかったエレーヌのブログが、これだけの数、ネット上で見られてきたのは、やはり、驚くべきことではないか、と思える。

 日本国内で、友人や知人がなんども見るということは、もちろんありうるので、34512回も見られるのは、まだ理解できる。
 しかし、外国からのこれだけのページビューは、いったいどういうことだろう。
 この数の多さには、じつは2013年頃には気づいていた。

 たぶん、エレーヌがフランス語で書いたデュラス、プルースト、サガン、カミュなどについての文章が、世界各国の学生たちのレポートの参考になっているのではないか、と思われるのだが、もちろん、文学好きの人たちにも、ちょっとした参考になったりしているのではないかと思われる。日本に興味のある外国人たちにも、いろいろと参考になっているのは、想像に難くない。

 エレーヌ自身が出会うことのなかった世界中の人たちに、エレーヌ・セシル・グルナックという人が2010年まで日本に生きていた、ということが、これだけの数で、すこしは知られるようになったのは、このブログをつくって、維持してきた私としては、ほんのちょっと嬉しい。
 そしてまた、これがインターネットというものだ、と再確認もさせられる。

 すでにご存じのように、このブログは、エレーヌ自身がまったく関わらずに、私だけの意思で立ち上げ、維持し続けてきた。
 死の近い頃のエレーヌに、書いたものを載せるブログを作ったらどうか、事務的な実際の作業はぜんぶ私が受け持つから…と聞き、許可をとり、進行の意思を確認はしたので、その意味ではエレーヌの意思もしっかり入っているが、機械やインターネットなどを煩わしいものとしか思わない傾向のあったエレーヌに、面倒なことは始めたくないという躊躇が最後まであったのも事実である。

 始めた当初、じつは、エレーヌと非常に親しい人と自称する人たちから、私が編集するこのブログの形態への批判がずいぶんあった。自分の知っているエレーヌさんが、こんなブログを許すわけがないとか、エレーヌのフランス語の文章の翻訳を載せるべきではない(エレーヌのオリジナルな発言ではないから)とか、私のエレーヌの紹介のしかたや見せ方が、本当のエレーヌを損なうものだとか、いろいろとメールで批判された。
 不思議だったのは、そうした人たちが、エレーヌと非常に親しいと自称しながら、しかし、2009年からのエレーヌの闘病期や最期の頃にも、まったく連絡もよこさなければ、顔も見せなかったことだった。1年半のエレーヌの闘病期間、親しかった友人や知りあいの人たちは、ときには単独で、ときにはゆるやかなチームを作って、毎日のように病院に行ったり、エレーヌの住まいに行ったり、役所に書類手続きに行ったり、さまざまな医療機関に連れていったりしたもので、そうした人たちこそ「非常に親しい」と呼ばれうる人たちだったのは、一部始終を見てセンター役を担っていた私からは、あまりに明白なことに思える。

 いろいろと批判をメールで送ってくるほどの思いがあるのだから、「非常に親しい」と自称する人たちが、各人、エレーヌのことを大事に思っていたのは確かだと思う。そう思いながら、2010年頃は、いろいろな反応を受け続けたものだった。このことは、9年も経過した今、そろそろ、ちょっと記しておいてもいいだろうか、と思う。
 
 エレーヌに出会った人たちは、みな、それぞれのエレーヌ像を受止め、こころに持ち続けて、それによって励まされる人もいたし、得がたい親友のように思う人もいたし、ただただ、懐かしく思い出し続ける人もいるのだろう。
 『葉隠』に「心の友は稀なるものなり」という有名な言葉があるが、エレーヌが、こうした「稀なる」「心の友」であるような印象を多くの人に与える存在だったのは、やはり、確かだったように思う。

 私が編集し、維持してきたこのブログが、エレーヌを歪めて伝えていると考えて、苦々しく思う人も多いかもしれない。
 しかし、以前に書いたように、いろいろなエレーヌの思い出やエレーヌ像を、このブログには自由に寄せていただいてかまわないのだし、そのようなオープンな性質はつねに維持したいと考えてきた。そもそも、まったく違うエレーヌ像を提示する他のブログが作られてもいいのだし、さまざまな場が作られてもかまわない。

 大事なのは、ほんのすこしでも、多くの人に見やすいかたちで、ほんのすこしでも、より長く残るかたちで、ということだと思っている。
 2010年時点で、私は、紙媒体での記述や保存をする時代は、もう終わった、と思っていた。
 エレーヌに関する記録や文書の保存も、インターネット上に行うほうが、少なくとも、火事や浸水などの被害を避けられると思い、すこしでも多くの資料をネットに上げるように努めた。
 電子的な情報や回路を一瞬に消滅させる最先端の兵器はすでに開発されていて、いずれ用いられるだろうが、当面、エレーヌに関わる資料のネット化の方針は、やはり、正しかったと思われる。
 
 ネット上でエレーヌを見出し、彼女の書いたものや、彼女に関わるエピソードをお読みくださった世界中の方々には、ここで感謝を申し上げておきたい。
 ありがとうございます。